第5章 覚悟という名の

1.


 アルクたち、先の巡察研修で死去した学生の葬儀が執り行われたのは、一団が街に帰り着いてから3日後のことだった。

 戦闘による損害を取りまとめると同時に、副隊長ほか1名が街へ急行して、市当局に詳報した。そして遺族及び武術学校への連絡を当局に任せ、副隊長は守備隊所有の馬車を率いて引き返した。

 あらかじめ守備隊長と示し合わせてあった地点に一団がおらず捜し回る一幕もあったが、負傷者の手当てと遺体を人力で運ぶのに手間取っていたためで、その日の夕方遅くに、予定地点の戦場寄りの場所で合流を果たすことができたのだった……

 街の高台にある神殿から、ヒトの死を司るシャビカノ女神を憑依させた神官がゆっくりと下りてくる。足音を出さぬよう多量の布を巻いた足で――かの女神の足音が聞こえるのは、死を間近にした者である――向かう先は、街の中央にある集会場だった。

 そこにしつらえられた祭壇には既に、学生4名の遺体を納めた棺が安置されている。冬ゆえ、周りを飾る花も少ない簡素なさまが、参列者の心に言いようのない寂寥感を与えていた。

 神官が入場してくると、葬儀屋が手配した合唱隊――その多くは街の住人を臨時雇いしたものである――が弔歌を歌い始めた。弦楽器も笛も1つずつの侘しい音色。それでも祭壇の上まで進み出た神官が豊かな声量で祝詞を唱え始めると、それなりの葬儀の形にはなって、女生徒たちは啜り泣きを始めた。

 啜り泣きですまなかったのは、遺族たちだ。死者への迎えの言葉が終わってシャビカノ神(の憑いた神官)が退出したあとの、故人との最後のお別れが始まると、棺にすがって哭き始めた。葬儀屋が棺のあいだを駆けずりまわって引き剥がし、ようやくクロイツたち参列者の番が回ってきたほどである。

 死んだ4人とも、分け隔てなく親しかったわけではない。住人2万人を超えるというこの街で、全ての子供が幼少の頃から知り合いとは限らない。

 だが、武術学校の同期として、この2年弱を共に過ごした仲間である。入学したてのころは手合いの結果に一喜一憂し、それが元で言い合いしたこともあった。誰それが誰それに惚れていると噂し、連れだって冷やかしたこともある。そして、クロイツが指揮した戦闘で討死したのだ。何も胸中に去来しないわけがないではないか。

 殊に、アルクとはほぼ常につるむ仲間として、クロイツには格別の思いがあった。まして、戦闘の前夜には、結婚の話を聞いたばかりである。あの時の、ニヤけつつもどことなく大人に一皮抜けたかのような、凛とした顔。あれが――

 そのアルクの棺は、既に固く閉じられていた。頸部の傷を中心に、どす黒く、かつ醜く盛り上がって、とても衆目には曝せないためである。

 あの山犬の牙と爪には、毒があるらしい。教官が古い図鑑をめくって調べたところによると、禽獣が魍魎へと馴致じゅんちされた際に、魔神のいかなる悪戯か、牙や爪に毒が付加されることがあるらしい。

 ケビンが棺の前に崩折れた。

「アルク、馬鹿野郎……なんであそこで力尽きちまったんだよ……馬鹿野郎、これからなのに……」

 涙ながらに尚も返って来ぬ問いかけを続けようとして、葬儀屋に取り除かれるケビン。次は、クロイツが祈る番だった。

 棺に首を垂れて冥福を祈っていると、視線が自分に刺さるのを感じた。祭壇に上がる時に見かけたから分かる。アルクの婚約者――婚約者になるはずだったゲルタが、クロイツをにらみつけているのだ。

 祈りを終えて身体ごと左に向き、故人の親族たちに黙礼する。キンキンと耳に響く声が、集会場に集う人々を驚かせた。

「どうして、アルクを護らなかったの?」

 ゲルタが、声を上げていた。父母と思しき男女に控えめに止められても、糾弾を止めない。

「指揮官でしょ? なんであんたが死なないの! アルクよりずっとダメ人間のくせに、なんで、なんであんたが指揮官なのよ!」

 怒ってゲルタに詰め寄ろうとしたサーシャを手で制して、クロイツは深々と一礼し、黙したまま集会場を後にした。



「そう、そんなこと言われてたの……」

 サーシャが葬儀の一部始終を話して聞かせた、アリシアの感想がそれだった。

 静かに目を閉じて死者の冥福を祈るアリシア。その姿勢が元に直るのを待って、サーシャは溜めに溜めていた憤懣を撒き散らした。

「あのガキ、むかつく……! クロちゃんに死ねだなんて……何も知らないくせに……」

 興奮を抑えるために、アリシアが注いでくれた水を一気に飲み干して、ようやく気を静めることができた。

 今日は葬儀のため、武術学校は休校である。自己鍛錬をする気にもなれず、かといって街全体も喪に服しているため、お店は全てお休み。仕方なく、クロイツと一緒に彼の家にやって来たというわけだ。この機会に実家に帰るという選択肢は、彼女には無い。

 だがクロイツは、家に着いて一息つく間もなく、守備隊長の使いによって市庁舎に呼び出されていった。葬儀が終わったことで一区切りがついたとの判断により、今回の詳しい顛末の報告を求められたのだ。

 よって、家事を終えたアリシアとこうして彼女の部屋で――いや待て。

「アリシア、ちょっと訊きたいことがあるんだけど?」

「なぁに?」

 サーシャは今自分たちがいる部屋をぐるりと手で示した。もはや友の死に沈む時間は終わり、鼓動が早くなる自覚が苦しい。

「ここ、クロちゃんの部屋だよね?」

「そうよ」

「なんで寝台が2つあるのかなぁ?」

「あら、1つのほうが良かったの?」

 詰め寄りたい衝動を必死で押さえるサーシャに、アリシアは説明してくれた。クロイツの母の指示なのだと。自分の部屋を狭くしたくないからと言われたのだと。

「だからって、だからって、お、男の子と同じ部屋に……っ」

 チッチッチッ、と人差し指を左右に振られる。

「男の子じゃなくて、ク・ロ・イ・ツ よ?」

 わたしはもしかして煽られてるのだろうか。サーシャはもう一度自制して、声を絞り出す。

「うらやましぃぃぃぃぃ妬ましぃぃぃぃぃぃ代わってほしぃぃぃぃぃ!」

「いや全然自制できてないから、それ」

 アリシアは笑って、身を乗り出してきた。

「大丈夫よ。わたし、クロイツと結婚どころかヤヤコシイ関係になる気も無いから」

「……信じて、いいの?」

「もちろん!――」とアリシアは胸を叩いて言った。

「この薄く硬い胸に誓って!」

「自分で言うんだ……」

 呆れ気味に笑うと、アリシアも笑った。そして、

「ねぇ、巡察研修の時のこと、お話しして」とせがまれる。

 少し逡巡して、でもクロイツと自分の初陣のことを実は誰かに話したくてうずうずしていて。サーシャは水をもう一杯注いでくれるようお願いすると、語り始めた。昼食以外は朝から夕刻まで2時間おきの休憩以外は歩き続けたこと。不寝番の時の会話。そして、魍魎の襲撃に対する迎撃。初陣、そして、アルクたちの死……

 最後は顔を伏せ、再び死者を想うサーシャ。だが、聞き手の醸し出す雰囲気がおかしい。顔を上げれば、

「さすがわたしのクロイツ!」

 なるほど、殺意って、こんなふうに湧くんだな。顔を上気させて喜び弾むアリシアを見て、サーシャは拗ねた声を出してみた。

「アリシア、さっきから言ってることが矛盾しまくってるんだけど?」

 きょとんとされて、また湧く湧く殺意。

「ね、ね、初陣のところ、もっと詳しく聞かせて。敵の数は? 守備隊はどうしたの? 最後の山犬って、どんな奴?」

 こちらの事などまるでお構いなしに、そして意外に食いつきがいい同い年の友人に苦笑して、もう一度水を所望する。

「話してあげるけど、クロちゃんが来るまでね」

「あら、どうして?」

「夕方から冬至のお祭りがあるから、それで……」

 語尾を濁したが、やはり同性、分かってくれた。

「ああ、乙女としては身だしなみを整える時間がほしいのね」

 なんなら、と同い年の友人は言葉を継ぐ。

「クロイツに伝えておこうか?」

 少し考えて、サーシャは首を振った。

「やっぱ、自分で誘いたいから……」と。

 断りに鼻白む様子もないアリシアにほっとしていると、小首を傾げられた。この美貌でその仕草はずるい、とまた胸が苦しくなる。クロイツがこの部屋で、この人と寝泊りしているのだから。

「クロイツのほうから、そういうお誘いをしないの? 女の子に」

「……去年、ダメ元でデメティアに声を掛けてたな、そういえば」

 結局そのあとサーシャが誘って、ケビンたちと一緒に冬至を祝ったのだ。

「サーシャ――」

 しばらく押し黙った後切り出したアリシアの瞳には、サーシャにはうかがい知れない深みと哀しみの色があった。

「あなたは支えてあげられる? クロイツを」

 突然何をと言いかけて、思い出す。目の前の女性が、婚約者を決闘で亡くしたことを。彼女には彼を支えられなかった。だから、ということなのだろう。

「もちろん、その覚悟はあるつもり……ってなに言わせるの!」

「じゃあサーシャも誓って」

 蜂蜜色の髪を振り乱してみたが、照れ隠しは通じなかった。先のアリシアの誓いと対を成す、ということと解釈して、サーシャは姿勢を正した。

「クロイツを支える。誓うわ。えと……」

 何に誓おうか。やはり誓約の神に――

「そのおっきくてふかふかの胸に?」

「そう、この実は――ってまた! もぅ!」

「なるほど、これからその実は自慢の武器を磨きに行くと」

「そんなやらしいこと言うなぁ!」

 どうも、この友人のほうが妙に大人びているというか年増じみている気がする。さりげなく褒めてくれたと好意的に解釈して、図星を指されたサーシャは彼女から頼まれた初陣の詳細を話すことで、無理やり話題を転じることにした。


2.


 守備隊員5名と学生4名の被害を出した今回の巡察研修について、市当局と守備隊、武術学校による総括が行われた。

 学生たちの存在が守備隊員の重荷になっていたことは、学校側としても認めざるを得なかった。これから魍魎の存在と襲撃がますます増えてくるであろうことを加味すると、決断をせざるを得なかった。

 今後は巡察研修を取り止め、守備隊に入隊後の訓練とする。それをもって、総括は終了となった。

 主任教官が首を回していると、副隊長が近づいてきた。

「先生、肩が凝りますか? お歳ですなぁ」

「は! お前よりまだ動けるぞ、わしは」

「わしは、ってお言葉自体がもう」

 切り返してきた髭面をにらむ。自分の教え子の中でも10本の指に入る優秀な教え子だが、口の悪さだけは直せなかった。

「まったく、それさえなければ今頃は隊長になっていただろうに」

 副隊長は軽く笑うと、主任教官の隣に腰掛けた。

「ま、隊長殿もそろそろ勇退するっておっしゃってますし、面倒な役が回ってくるのもそう遠くないでしょうよ」

 俺じゃなきゃ、バザンが飛び越えていきますよ。そういって屈託無く笑う。

「バザンか……やれやれだな……」

 副商人頭の甥として羽振りのいい男の顔を思い出して、主任教官は顔をしかめた。とても隊長の器ではない。なにせ『守備隊への出勤日数より、商人頭や叔父宅への出入りのほうが多い』ともっぱらの評判なのだ。

 市当局が理性的な人事をしてくれることを願うしかあるまい。知人の幾人かにそれとなく働きかけることを考えながら、主任教官は話題を転じた。

「うちの学生たちはどうだった? 忌憚の無い意見が聞きたい」

「あのボンクラ息子が指揮官じゃなくて幸いでしたな」

 とまた毒を吐く副隊長。主任教官は思わず白髪頭を振って左右を見回してしまった。

「先生らしくも無い、なにビビってんすか?」

「はすっぱな口をきくな。余計な騒動に巻き込まれたくないだけだ」

 目の前の教え子の発言を否定したわけではなく、声を少しだけ低める。

「それで?」

「死んだ子たちは運が無かった。運よりもさらに、奇襲に対応する力が無かった。奇襲を守備隊が受け止めたのに、それのおこぼれを排除する力も無かった。残念ながら」

 三たび吐かれた毒は、吐いた本人にとっても苦いものだったのだろう。言い終えて、目と口を硬く閉じ、重たげに首を振っている。

「クロイツはどうだった?」と話題を変えた。

「なかなかでしたな。敵に怯えず、仲間に声をかけて怯えさせず、自ら陣頭に立って敵の排除に努める。初陣にしては上出来じゃないですかね」

 ただ、と付け加えるのも忘れないのがこの男らしい。

「ちょっと自分の腕に頼り過ぎるかな。俺は見てませんが、危うかった場面もあったそうですし。だれか奴を支える人間がいれば、また違うんじゃないですかね」

「ふむ、集団での戦闘には向いていないか……」

 あるいは、もっと大きな集団の指揮官には向いていないのかもしれないな。主任教官は独りごちた。

「まあでも、我が隊に志願してきたら、迎え入れますよ。いやむしろ、ぜひお願いしたい」

「なぜ?」

「あれだけの腕をよそにやってしまうのは惜しい。それに――」

 副隊長はそこで言葉を継いだ。

「奴にはどうも、魍魎の接近を察知する感覚があるような気がします。これからのご時勢、引く手あまたの力でしょう?」

 山中で魍魎に襲われた時も、奴だけがそれを察知してたはず。副隊長はそう結んだ。

「魍魎の存在を察知する力か……まるでいにしえの龍戦師のようだな」

 先日、かび臭さに閉口しながら読んだ書物の内容を思い出す。200年前の魔神大戦を戦記風に記述した、当時の王宮書記官の手記――もちろん写本だが――だった。

「龍戦師といえば――」

 何を連想したのか、副隊長が身じろぎした。

「王都にいる俺の兄貴からの手紙の中に書いてあったんですがね」

 廊下から、副隊長を呼ぶ女の声がする。いつまでも帰ってこない上司を、部下が呼びにきたのだろう。それに対して少し待つよう大声で返すと、副隊長は会話を再開した。

「ヴァンディーノ公の息女が、龍戦師に選ばれたそうです」

 それは、王国の北方を統べ、その防衛を担う大貴族。3ヶ月前、その居城に真龍が突如現れて、公女を龍戦師として選んだのだという。

「真龍まで現れたのか……」

 もはや寝言ではなく、乱世が来る。その現実に身震いする主任教官は、副隊長の別れの挨拶も上の空で考え続けた。


3.


 ケビンは午後の往来を走り回っていた。家業の馬方にとって大切な財産である馬の手入れ。それをさぼってまで奔走しているのには、もちろんわけがある。

 午前中行われた葬儀に、ミリアの姿が無かった。同級生の誰も、その理由を知らない。いや、教えてもらえなかったのだ、彼女の父親に。誰も彼も、けんもほろろに追い返されたらしい。

 当のケビンは家を出るのが遅くなって、ミリアを迎えにいくどころではなかった。それがどうにも悔やまれる。

(ちくしょう! こんな時に、ちくしょう……)

 仔細を聞いて飛んでいったミリアの家では、案の定の対応だった。いや、前回以上に憤怒の形相をしたミリアの父に、ついに殴りかかられたのだ。

 まさか反撃するわけにもいかず、かといってすごすごと帰る気も無く逃げ惑い続けて5分ほど経ったか。突然、ミリアの父が地に倒れ伏した。興奮のあまり息が詰まってしまったらしい。ミリアの母や近所の人たちと協力して寝台に運ぶと、その母に袖をそっと引っ張られた。

 ミリアは朝早く、父と大喧嘩をして飛び出していったきり戻って来ていないのだという。おろおろするばかりで埒が明かない母親を置き去りにして、全くあてもなく路地に飛び出したという次第だ。

 道々、人にミリアの消息を尋ねて回る。ミリアを知る職人町の住人は親切にもいろいろ教えてくれたが、そこを抜ければ彼女を知る者などまれな街。無駄足が徐々に重くなってくる。

 それでも人相風体を伝え続けて12件目、ようやく確かと思われる情報が、彼を街の外へと導いた。

 南門の外にある溜め池のほとりに、大きな椎の樹がある。その枝振りの良さからくる木陰は、夏にはことにご馳走で、少し離れた街道からわざわざ立ち寄る旅人目当てに冷水や果物を売る露店まで出るほどだ。

 その枝の中でも特に太い一本から垂れ下がる、縄。それをつかんで、先の輪っかに――

「やめろぉぉぉぉぉぉ!」

 もはや彼女のか細さになど構っていられず、ケビンはミリアに肩から当たって吹き飛ばした。

 背中から落ちてくぐもった声を上げるミリアに向かって、声を荒げる。

「何やってんだよ! なんでお前が死ななきゃ――」

 そこまで言って絶句し、そして絶句してしまったことを後悔した。

 よろよろと起き上がったミリア。その右頬に、うっすらとではあるが裂傷が赤黒い口を開けていた。あの魍魎の棍棒によって付いた傷だ。その横についた口が、ひび割れた音を発する。

「……あんたも、一緒なのね」

「な、なにが?」と訊かざるを得ない。

「この傷……汚いでしょ?」と声を低めた彼女の眼に涙が溜まる。

「言われたの」

 何を、という言葉すら出ない。舌が鉛になってしまったかのように。

「……お見合いしたの、父ちゃんの……知り合いの息子……隣町の……」

 彼女の眼から涙が溢れだしても、ケビンの情けない足は前に出ない。

「そんな……顔にそんな傷のある女なんて……傷物なんて……いらない、ってっ」

 あの日の欠席の理由は、お見合いだった。そのことは、ケビンにもうっすらと分かっていた。だが結果を知らなかった。同級生の、誰も。だから破談になったのだと思い込んでいたのに。

「……結婚、したかったのか?」

「え?」

「そいつと……」

 かぶりを振って、涙が散る。

「そんなわけないじゃない! あたしは、あたしは! ……あんたと、……」

 でも、と涙声は続く。そのあいだに、ケビンの中にはあるものが溜まり始めた。『あんたと』と言われたからには当然の、覚悟が。

「朝、父ちゃんと喧嘩したの。醜くなりやがってって言われて、じゃあもっと醜くなってやる、って……飛び出して……」

 ミリアの勢いが止まった。魂が抜けたようにゆらりと後ずさりする。

「あたし、知ってるんだ……隣のクリムおじさん、借金で首吊って……顔、紫色でパンパンになって……そうすれば、あたしのこの傷も隠れて――」

 縄の下まで行かせず、ケビンは駈け寄るとミリアを抱きしめた。

「俺がもらう」

 びくん、としたのち、ミリアの首筋に血の気が戻ってくる。

「いっぱい稼いで、お前を養う。お前と俺の、家族も」

「嘘つき」

 ミリアの声が、どことなく張りを取り戻したように思える。

「成り上がって、いいとこのお嬢さんがどうとか言ってたじゃない」

「いや、あれは、その……」

 迷いは一瞬で捨てて、ケビンは男の体面もついでに捨てた。

「お前がどういう反応するか見たかったんだ。すまねぇ」

 そっと抱きしめ直すと、か細い肢体に力が戻ってくるのが分かった。その力は彼女の指先に集まり、

「痛ぇ!」

 背中をそっとつねられた。

「あたし、そういう嘘、嫌い」

 声に喜色が混じり始めたのを確認して、ミリアの顔を伺う。それは意外と近くにあって、心臓のドキドキが止まらなくなった。

「これからは止めて。あたしと……しょ、所帯を持つんなら」

 彼女の恥らう表情も言葉も頭の中で閃光と化して跳ね回り、ケビンはその勢いに任せて彼女の唇に自分のそれを重ねた。


4.


 キアボは市長室を出ると、廊下を黙然と歩を進めた。本来なら先ほどまでいた部屋で、考えなければならない事柄が山のようにあるのに。

 今日の日没を期して開催される冬至の祭りに出席し、主催者として差配せねばならない。全て下の者に任せて自分は用意されたあいさつ文を読み上げるだけ、という形態を彼は好まない。まして、葬儀の後の厄払いとして、祭りをあえて開催するという別の意義があるのだ。他人に任せてなどおけるはずがない。

 廊下の端々で頭を下げる職員たちに礼を返して、正面玄関から外に出る。思っていた以上に寒く、キアボは思わず外套の襟を立てた。

 先を歩かせる2人の護衛に声を掛けて、祭りの会場ではなく自宅に向かった。商売のことについて、長男に指示を与えねばならないことを思い出したのだ。

 足を速めながらも、往来の様子を観察する。

(やはり、暗いな……無理もないか……)

 真冬の到来を告げる冬至を、だからこそ盛大に、明るく祝うのが祭りの意義である。が、このひたひたと押し寄せてくるような暗さは、寒さ厳しき時期が来たことを憂うものではない。

 乱世が来る。それがこの暗さの主因であろうとキアボは眉をひそめた。商人である彼にとっては、戦などまっぴらである。世の中が安定してこそ、物が売れる。それが彼の信念であった。

 あるいはそう考えるから、街が暗く見えるのか。そこまで黙考しながら自宅へとたどり着いた。正門の通用口から転がり出んばかりに迎える召使頭の表情を素早く読み取る。

「ロアークか」

「は?! いえ、その……」

 なにぶん大旦那様のお帰りを想定しておりませんで、などと言い募り、さりげなく進路を妨害してくる召使頭の顔をにらみつける。

「コータ、お前はいったい誰に仕えておるのか?」

「わたくしはこの家に仕えております」

「ならば――」と賢さかしらだった召使頭を押し退ける。

「この家のあるじの帰宅を妨げるな」

 門衛が重々しく開けた正門を、早足でくぐる。

(あの男も老いたな……病から回復して以来、取り仕切りができなくなってきた……)

 本宅に近づくにつれ聞こえるようになった歌や笑い、管弦の音に奥歯を軋らせる。

「あなた、お帰りなさいませ」

 今度は妻だ。どいつもこいつも――

 普段は形式的な挨拶しかしないくせに、こういう時だけ腕を絡めてくる妻の手を払いのけて、キアボは饗宴の現場に突き進もうとする。

「あなた、ロアークはまだ遊びたい盛り――「時をわきまえろ!」

 本来の次男を事故で亡くして以来、妻は、いや屋敷中がロアークに甘くなった。謹厳実直で、既に成人して商売の一部を任せてある長男に対しては、逆によそよそしささえ感じる。

 憎き妻の引き止めは功を奏したようだ。例の騒がしさがぴたりと已んでしまった。

 怒鳴りつけられて鼻白む妻を無視して、ついにキアボは乱痴気騒ぎの現場へと踏み込んだ。

 そこはもはや人の消えた元・現場だった。えた臭いが充満し、赤々と燃え盛る暖炉の熱とあいまって息が詰まりそうになる。

 大きめの机を囲むように、臨時の寝台が4つしつらえられている。赤や茶色で汚く汚れた萌黄色の敷布の上に置かれた杯にはどれも酒が注がれていて、いかにも飲みかけで慌てて逃げ出した風情に転がるものもあるなど、キアボの神経をささくれ立たせるに十分な有様だ。

 だが、と父は泣きたくなってくる。

 忽然と消えることすらできない、哀れで愚かな息子に。

 その劣化版でしかない、諌めることも機転を利かせることもできない、無残な取り巻きに。

 種々の宝石を鞘に散りばめた短剣を、汚れた寝台の一つから拾い上げる。それは武術学校入学に際して、その門出にと母親がわざわざ王都まで出かけてこしらえさせた贅沢な品。何者かの悪意が介在しない限り、ここにロアークが――あるいはデメティアとともに寝そべって、酒と食事をかっ食らって笑っていた。その紛れもない証拠なのだ。

 武術学校仲間の葬儀にも出ずに。

 ゲータのみが葬儀の場にいたことは、キアボ自身の目で確認している。それも、かなりのふてくされた表情を隠しもしないで。

「校長の要求を飲まねばならんか……」

 あの馬鹿を、一刻も早くこの家から出す。『侯爵家の家士』として。

 きびすを返した市長兼商人頭は、部屋の入り口で怯えるコータを無視して玄関へと向かった。今度こそ、祭りに赴くために。


5.


 冬至のお祭りは、神殿から聞こえる鐘の音で始まる。神官――午前中のとは別の神官に憑依した地恵神が、この冬を越えて春に草木が芽吹くように、動物たちが子宝に恵まれるように、時期を待つことを告げる鐘なのだ。

 これで、地恵神は神殿の中へと戻り、諸々の儀式と巫女たちによる奉納の舞が始まる。集会場前の演台では人界の主、この街では市長が短い定形文を読み上げて、儀式としての冬至のお祭りは終了した。

「さ、行こうよクロちゃん!」

 早速腕を掴まれて引っ張られる。いつにも増して積極的なサーシャに、クロイツは先ほど来の疑問をぶつけることにした。

「なあ、サーシャ。怒るなよ?」

「ん? なに?」

「お前、なんかさっぱりしてないか?」

 にっこり笑われて、身体を触れ合うすれすれまで寄せられる。

「分かる?」

「もしかして、浴場行って来たのか?」

 うん! とはじける笑顔に、『今頃分かったの?』という蔑みも加味されている気がする。

 公衆浴場は、ある程度の規模の街なら存在する施設だ。利用者はもちろん料金を払って利用することになるが、これが存外に高い。ゆえにある程度の収入がある市民が使うもの、と相場が決まっている。ちなみに庶民は、普段は郊外の川で週1回水浴び、寒い時期や裸を他人に見られたくない場合は自宅で身体を水拭きする。

「お前、そんな余裕あるんだ」

 といいながら後ずさるクロイツに、サーシャは逃がさぬとばかりに追随してきた。

「無いよ。だから、今日と明日の夕食無しにしてもらったの」

 学生寮の賄いを断って浮いた食費で、ということらしい。こういった"おめかし"のため浴場を利用する若者も、浴場の主な利用者に上げられるだろう。

「ねぇ、クロちゃん?」

「……なんだよ?」

 ついに壁に追い詰められた。道往く人々の冷やかしの視線が痛い。

「なんでわたしを見てくれないの?」

「なんでって……」

 言えない。いつもとは全然違う艶々の頬もそうだが、近接されたことで余計に主張が激しくなったその白くてたわわな胸元に目が行ってしまうんだよ、なんて。

(こいつ、こんな服持ってたっけ?)

「おっと」

 アリシアの声がして、サーシャがカワイイ悲鳴とともにいきなり抱きついてきた!

 胸元は視界から去った代わりに、もにゅっと柔らかい感触が、クロイツの腹に押し付けられて、心臓が胸の中で飛び跳ねる。

「!! ア、アリシア! なにすんの?!」

「あら失礼、ついわざとフラフラしちゃって。家事で疲れてるのよあははははは」

 抑揚の無いアリシアの言葉で全てを察する。サーシャの背中を強く押したのだろう。

「お二人さん、そうやっていつまでいちゃついてるの?」

「あんたがやったんだろうが!」

 アリシアのからかいに二人して真っ赤になって。ほんの少しだけ名残惜しそうに離れた。

「ったく……」

 今度は腕を取られる前に動く。目指すは夜店が並ぶ神殿前の大通りだ。

 人の流れに乗って歩きながら、アリシアのほうを振り返る。

「お袋がよく許してくれたな、外出」

「んー、なんかニヤニヤしながら送り出してくれて、気持ち悪かったけどね」

 アリシアも、こういうハレの儀式用という服を着ていた。こちらは襟が首の上のほうまで、スカートはくるぶしの下まである、相変わらず隙の無い服装。それに上着を軽く引っ掛けて、ハレの服をそれとなく見せているような気がする。そしてなんというか、

「アリシアの服、珍しい色だね」とサーシャも注目している。

「ん、そう? お気に入りなんだけど」

「あ、ううん! キレイだよそれ。珍しいってだけ」

 総体的に言えば、赤なのだろうか。詳しくないクロイツには色の名前が分からないのだが、黒っぽいような、深みがあるというべきなのか、そういう複雑な色あいなのだ。

 やはり珍しいのだろう、往来の女性からも注目を浴びている。

「わたしは?」

「サーシャも似合ってると思うぞ」と素直に感想を伝えた。

 薄めの外套の下、乳白色の布地に黒い模様が染められている服は、こちらも飾り布やボタンが付いていない簡素ないでたちだが、やっぱり目が行くのは、

「ほらほら」とアリシアが後ろから囁いてきた。

「そんな遠慮は要らないから、サーシャが磨いてきた武器をじっくり拝みなさい」

「アリシア、すっごい黒い顔してる……」「今日はやけに絡んでくるな、おい」

「え? なに? 邪魔だから消えろ?」

「そんなこと言ってない」

 呆れながら、クロイツは横を、髪を揺らしながら同じ速さで歩く幼馴染の顔を見た。神殿へと続く道は、徐々に上り坂になりつつある。

「否定しないんだな」

「? 何が?」

 なんだか余裕の表情に変わるサーシャに気圧されそうになる。

「その……武器がどうとか……」

「そうだよ」

 と柔らかい肩を軽くぶつけてくる。ばっと前を凝視するクロイツの耳に、囁きかけてくるような小さな声が届く。

「磨いてきたんだもん。クロちゃんのために」

「どうも……」

 照れ隠しをうまくやるのが、今後の課題だ。

 そんな掛け合いをしながらやって来た神殿前の大通りは、ごったがえしていた。商売禁止のこの道もお祭りの時だけは解禁されるのだ。その時々の祭神を和やかに迎え、賑やかにイラストリアに送り出すために。

「さて、サーシャ、何が食べたい?」

 今日と明日の夕食を抜いたからには、今日の夕食をおごるのが自分の役目だろう。クロイツは夜店を指差した。

「クレープ!」と即答が返ってくる。

「空きっ腹にあれかよ……」

「わたしは揚げパン」

「あんたも胃もたれしそうなもん選ぶんだな」

 小遣いをもらっていないアリシアにもおごってやることとして、とりあえずクレープを買った。

「よくそんな甘いの食えるな。ほとんどジャム食ってるようなもんじゃんか」

 薄い生地に木苺のジャムを乗せたクレープが、みるみるサーシャの腹に収まっていく。

「♪揚っげパン揚っげパン揚っげパ~ン」

 節をつけて歌い始めるアリシアから全力で逃げて、今度は揚げパンの屋台へ。

 クロイツは油を使った料理などしたことが無いが、匂いはともかく、この黒い油は身体に良くないのではないだろうか。そう思いながらも2本買って、追いついてきたアリシアと分けた。

「なによ、自分だって食べるんじゃない」

「匂いを嗅いだら腹の虫がなったんだよ」

 すぐにかぶりつくかと思いきや、アリシアは屋台を凝視して動かない。

「アリシア、どうしたの?」

「この揚げパン、5小銅貨コペタもするの?」

 意外な質問に、サーシャと顔を見合わせる。

「ご実家ではもっと安いのか?……おーい」

「! あ、ああ、そうよ。1小銅貨だったから……」

 珍しく挙動不審なアリシアは向こうを向いて食べ始めた。

 サーシャに少しおすそ分けして、久しぶりに食べた揚げパンは、申しわけ程度に片方の端っこに塗ってあるジャムを圧倒する、パンと黒い油味。むせた。

 優しく背中をさすってくれるサーシャに感謝していると、ここが実に狭い空間なんだなと実感する。前後左右から冷やかしの声が飛んできたのだ。

「今日ほんとに冬至なのか?」

「ああ、あちーなぁ」

「なーんだサーシャ、あたしらの誘い断ったのって、そーゆーことね」

「チキショー! 神官様! 次は俺たちに彼女紹介してくれる神様呼んでくれよ!」

 その全てに、ふっと鼻で笑って。サーシャは仁王立ちした。

「さあさあ、女が年上でも構わないって男は、こっち寄っといで!」

「早いわね、サーシャ」と揚げパンをようやく食べ終えたアリシアが眉をひそめる。

「もう乗り換えるの?」

「ばぁか」

「誰が――「アリシア、お見合いしない?」

 虚を突かれたその場の全員が、すぐにどっと笑い出した。サーシャの形のいい眉が釣り上がる。

「なんでみんなで笑うのよ!」

「ちょっと待て、お前ら」とクロイツも場に介入する。

「笑うなんて失礼だろ、アリシアに」

「だって――」と同級生が真顔になった。

「アリシアさんって、クロイツの嫁になるんだろ?」

 2人揃って、ふるふると首を振る。

「あとついでに言っとくけど、わたしは結婚するつもりないから」

「誰とも?」

「そう、誰とも」とアリシアは、本当に屈託ない顔で笑った。

「もったいねぇなぁ」

「よぉ、ケビン! 来てたのか」

 友の声に振り返ったクロイツは、すぐにその腕にすがる女の子を見出した。

「ミリア! もう体の具合はいいのか?」

 サーシャも、ほかの生徒たちも心配していたのだろう。次々に声を掛けだす――のを遮ったのは、ケビンだった。

「みんな、聞いてくれ」

「! ケビン、お前その――」

 同級生の一人が気づいてすぐ、クロイツも視認した。ケビンの両頬が、赤く腫れていることを。頬を染めているなんて可愛いものじゃない。これは明らかに殴られた痕だ。

 その指摘すら押し留めて、ケビンは痛さなど微塵も感じさせない声を張った。

「これはな、殴られたんだ。俺の親父と、こいつの親父に」

「……なんで?」

 皆の問いに、目を見合わせる二人。答えはケビンから出た。

「俺たち、所帯持つことにしたからさ」

「よし、分かった」

 クロイツは拳を音高く、これ見よがしに握りしめた。

「俺は鼻をヤればいいんだな?」

「あ、俺は下のあごで」

「あたしは右腕でも折ろっかな」

「じゃあ、わたしは――」とアリシアも悪乗りに参加してきた。

「頭から丸齧りにでもしようかしら?」

 いや無理でしょとアリシアを止めるサーシャ。生真面目に慌てだし、ケビンをかばうミリア。それを見て笑う、ケビンとクロイツたち。その時、神殿のほうで大きな炎が上がった。

 天をも焦がさんばかりの炎に乗って、地恵神が天上のイラストリアへと帰ってゆくのだ。その神々しい姿を見上げながら、クロイツは傍らに立つサーシャをさりげなく見た。

 まっすぐ見つめている炎に照らされて輝く、2歳年上の幼馴染を。

 クロイツの覚悟を、あの炎のように炙りたてる女の子を。

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