第2章 魔神大戦前夜譚

1.


 クロイツは、いつも空腹で眼が覚める。それは屋根に止まった小鳥のさえずりとか、窓を閉ざす鎧戸の隙間から漏れる朝日とかいった詩的なものではなく、目の前の、いや、腹中の現実である。

 全身をもぞもぞと、綿毛布の中で動かしてみる。怪我の痛みはまた一段と引いたようだ。日の出まだ来ぬ自分の部屋を寝ぼけた眼で見回して――彼は思わず悲鳴を上げるところだった。

 寝る間際に設置したあの衝立。その縁から、アリシアがこちらを見つめていたのだ。その顔が、笑顔に変わる。

「おはよう、クロイツ」

「あ、ああ、おはようアリシア……まさか……夜通し眺めてたの?」

「そんなわけないじゃないあはははは」

 でも、顔の位置が昨夜と全く同じような……

 アリシアの笑い声で起床したと気付かれたらしく、母に呼ばれた。

「アリシア、朝飯の前に洗濯に行っとくれ。クロイツは水汲み」

 ついでだから、近所の女どもにアリシアを紹介してこい。そう指令が出た。

 水桶を2つ下げて、同じく木のたらいに洗濯物を入れて頭に載せたアリシアと連れ立っていく。彼女に気遣わしげな顔を向けられた。

「なにか、まずかったかな?」

「ん? ああ――」とクロイツは頭を掻こうとして、水桶に気付いて止めた。

「女連中に紹介しに行くってのが、ちょっと……」

 個人としてはいい人たち(一部を除く)なのだが、集団になると、とにかく姦しい。そこへ新入りを紹介しに行くのだ。

 案の定……

「おはようござ――「クロイツちゃん! 誰それ?」「どこの子? 見ない顔だけど」

 洗濯物を洗濯板でゴシゴシしていたり木の棒で叩いていた女たち10人余りが、一斉にこちらを見てさえずり始める。それをものともせず、アリシアは一歩前に進み出ると、ぺこりと頭を下げて自己紹介をした。

「へぇ、フェックネル村?」「どこだっけ?」「北のほうにある、ほら――」

 女たちがアリシアに群がるあいだに、クロイツはこの井戸端での顔役を気取っている中年女性に近づいた。

「チャレットさん、そういうわけで、しばらくうちで面倒見ることになったんだ。よろしくお願いします」

「ふーん、ま、いいさ。お袋さんによろしく」

 つまり、母の経営している小間物店で『よろしく』という意味だろう。実際にどうよろしくするかは母の領分なので、素直に承って、クロイツは井戸に水を汲みに行った。

 自分の水汲みついでに、ほかの女たちが必要な水汲みもしてやる。軽い鍛錬だと思えばお安い御用だ。そこまでして、サーシャが来ていたことに気付いた。

「クロちゃん、お、おはよう」

「おう、おはよう……?」

 かなり慌てているが、どうしたのだろう――と考える間もなく、いつの間にか傍に来ていたアリシアに背中を叩かれた。

「女の子の使用済み下着を凝視する……いいご趣味をお持ちね?」

「ギョーシなんかしてねぇよ!」

 赤面をからかわれて、クロイツはほうほうの態で逃げ出した。こんな時は、水桶2つは重すぎる。



「ふふふ、まったく、かわいいんだから」

 逃げていくクロイツの後ろ姿を眺めながらアリシアが笑う。その余裕あふれる姿に、サーシャは例えようのない焦燥感を憶えた。

 声をかけようか。そう迷っているうちに、アリシアは井戸端の、サーシャとは反対方向の端っこへ行ってしまった。洗濯女の新入りの定位置がそこである。

 仕方なく、自分の洗濯を再開する。ゴシゴシと洗濯板を唸らせながら、彼女の意識はついさっきの出来事に戻っていた。

 昨日の夕方到着したばかりなのに、もうあんなに仲が良い。やっぱり、昨日の帰り道にミリアが言っていたように、『女中奉公というのは口実で、クロイツに所帯を持たせるために母親が呼び寄せた』のだろうか。

 訊きたい。でも、知りたくない。

 サーシャの耳は、それでも否応無くアリシアと傍らの女との会話を拾い続けていた。

「アリシアはいくつなの?」

「20歳です」

 クロイツより2歳年上か。

「で、クロイツのところに嫁に来たの?」

 突然盛大に笑い出すアリシアに、周りが驚く。

「違いますよ。あっちにいられなくなって、こちらで女中奉公できないかって父が気を回してくれたんです」

 そりゃまたなんで、と遠慮の無い質問が飛ぶ。この寒い中で手が痺れるほど冷たい水を使っていながら、一切手を休めないで会話に加わっている女たち。あるいはそれは冷たさを忘れるための彼女たちなりの手段なのか。

「祝言まで2カ月だったのに、彼が決闘で殺されて……」

 その決闘の相手が村の名士の娘で、彼女にも手傷を負わせてしまっていたため、アリシアにもとばっちりが来たのだと言う。

 サーシャは思わず彼方のアリシアを見つめてしまった。その表情は声色を彩る悲しみと同じく暗いもので、空の暗灰色と地の暗褐色もあいまって、まるで薄汚れた乳白色の服だけがそこにあるかのように思えてしまう。

 女たちのかまびすしさもさすがに静まって、また洗濯の音のみが井戸端を支配した。チャレットも少し慰めの言葉を掛けただけで、気まずげに洗濯物を絞っている。

 やがて誰ともなく別の話題が始まり、あるいは帰ったりして、アリシアは独りになっていった。

 好機だ。

 サーシャは洗濯物を手早くまとめてたらいに放り込んだ。もともと独り暮らしの洗濯物、そう多いわけではない。さりげなく帰りがてらという風情で、アリシアに話しかける。

「アリシアさん、一緒に帰りませんか?」

「? えと、サーシャさんだったよね?」とアリシアも洗濯物をまとめながら、

「あなた、確か学校の寮でしょ? あっちじゃなかった?」

(よく憶えてるな……)

 この井戸からは、真逆に近いのだ。

「その、せっかく一緒になったから、お話がしたいな、と思ったんですけど……」

「ふふ、いいわよ」

 立ち上がってきたアリシアとともに、クロイツの家のほうへ歩く。3人分の洗濯物はかなりの重量のはずだが、まったく苦にならないようだ。

 サーシャの眼は、アリシアの美貌をちら見して、ますます胸中がジリジリし始めた。

「わたしがクロイツと所帯を持ちに来たって思ってるの?」

 否定に失敗した赤面を真っ直ぐ前に向け、サーシャは消え入りそうな声でつぶやいた。

「……違うんですか?」

「答えはさっきと同じよ」とアリシアは笑う。

「わたしはね、ここに女中奉公の口を探しに来たの」

 それに、とアリシアの声にはよどみが無い。

「クロイツよりもっと稼ぎのいい男がいいな。どうせ結婚するなら」

 またも否定に失敗する、不甲斐ない自分がいる。クロイツは読み書きも一通りできるし、なにより戦闘者としての可能性は十分にあると(ひいき目抜きでも)思うのだが、それが"稼ぎ"に直結するかというと……

「サーシャさんは、どうしたいの?」

「な、何がですか?」

 アリシアは相変わらず前を向いたまま、にやりと笑った。

「気になる女の真意を探りに来て、何がですかもないと思うけど?」

「クロちゃんに……ついていきたい……とは思ってます」

 彼女の顔を見ながらは言えなかったが、つっかえながらも自分の気持ちを打ち明けた。

(クロちゃんにはさらっと言えたのに……赤の他人に言うのが逆に恥ずかしいなんて……)

 だが、アリシアの反応にサーシャは心が冷える思いを味わう。アリシアのまとっていた雰囲気が一変したのだ。

「やめときなさい。身悶えするだけよ」

 峻厳な、取り付く島も無い切捨て。だがそう言われて引き下がるほど、サーシャも子どもではない。

「どうしてそんなこと分かるんですか? そりゃ、クロちゃんが稼げるかどうかは――」

「あれ? サーシャ? なんで一緒に来たの?」

 想定外の声がかかって、サーシャはクロイツの家に到着していたことにようやく気付いた。心臓が跳ね、洗濯物を取り落としそうになる。

「俺のこと、なんか話してなかった? 今」

「え?! いやそのぅ……」

 アリシアが洗濯物を屋内に置いて、すぐに出てきた。

「クロイツが稼げる男かどうか、って話をしてたのよ」

「……そいつは難しい話だな」と皆まで言わせず、

「がんばってよ!! んとにもぅ!!」と肩をはたいた。

 するとどうだ。

「そうね」とアリシアが笑い出した。

「しっかり稼げる男になってもらわなきゃ、私が困るし」

 屋内からクロイツの母の声がして、彼とアリシアはサーシャに別れを告げた。

(なによ、クロちゃんより稼げる男とか言ってたのに、結局クロちゃんにもハッパかけてんじゃん!)

 油断はまだできない。さすがに空腹がまかないの朝食を求めているサーシャは帰路をたどりながら憤慨し、はたと気づいた。

(あれ? あの人、なんでわたしの寮の場所を知ってるの?)


2.


 ケビンが武術学校に登校すると、もう剣戟の音が聞こえてきた。

「うわクロイツ、治ったのか? お前」

 長剣と盾を使って同級生たちと乱戦の稽古をしているクロイツ。その動きはこの恵まれた体格に似合わないほど俊敏で、敵側の生徒をきりきり舞いさせている。

 ちょうど潮時だったのか、ケビンの声掛けをきっかけに稽古は終わった。見守っていた教官が、肩で息をしている生徒たちを身近に集めて、一人ひとりに講評を始めた。

「よう、ケビン。今日の組打ちの稽古、お前とやるから」

 他の生徒ほどには息の上がっていないクロイツの宣言を、不敵に笑って受けて立つ。無手での組打ちは実戦での使用機会はあまりないが、対象をなるべく傷付けずに捕らえねばならない場合がある。ケビンは同期の中でも達者なのだ。

 クロイツたちを誘って教室へと向かおうとしたが、邪魔者が前を塞いだ。市長が取り巻きたちを連れて、ゆっくりと歩いているのに遭遇したのだ。方向からすると教官控室か。

(校長室だろ、どうせ)

 頭を下げた同期の一人が嫌悪感も露わに、しかし聞こえないように毒づく。そのわけは、ここ最近の市長による校長訪問が増えていることにある。

(あと1カ月弱だもんな。念には念を、ってことだろ)

 1カ月弱のちに開催される卒業生対抗仕合には、成績優秀者に褒賞が与えられる。この地方をまとめる侯爵の家士かしに取り立てられる可能性があるのだ。

 それだけの信頼と実績がこの武術学校にはあるのだが、それを悪用しようとする輩も現れるのは世の常であり、今回は市長おん自ら出馬するからには、子息であるロアークを"よしなに"ということである。

(それがな――)と別の同期が、校長たちの後ろ姿を見送りながら口を曲げる。

(ごねてるらしいぜ? 校長が)

 ケビンが物問い顔になると、その同期はますます口を歪めて掴んだ内実を披露した。学校への寄附金の額に不満を表明しているのだという。

(かなりのケチだって話だもんな、市長)

「ま、なにがどうであれ――」

 クロイツがぼそりと、しかし力を込めて言う。

「全力でやるだけさ」

「オレはお前の全力を食らうなんて、真っ平御免だけどな」

 ケビンが混ぜ返したところで、教室へと到着した。室内の仲間たちとあいさつを交わすうち、違和感を覚える。

「ミリアは?」

「休み。実家の用事だってさ」と女生徒仲間が返してきた。

 ケビンの心に、言い知れぬ感情が泡立った。最近表情のすぐれないミリアの顔が脳裏に浮かんでは消える。

 だがすぐに教官が入室してきたため、気を取り直して席に着く。

(えーと、今日は救急処置の復習だったよな)

 ケビンの予測は外れた。教官は空咳を一つすると、改まった口調で生徒たちに語りかけ始めたのだ。

「今日の座学は、午後の実技のあとに、実習を兼ねて行うことにする。そのほうが実例ができるかもしれないしな」

 では、なにを始めようというのだろう。ほかの科目にしては、教官の険しい顔が気にかかる。

 その教官の次の言葉はケビンたちの意表を突き、教室に静かな驚きが広がることとなった。

「昨日、ここから2日ほどの街道上で、旅の一団が魍魎の群れに襲われて半数が殺された」

 ついに、魍魎が群れを為す時が来た。この200年余りありえなかった事態が、とうとう起きたのだ……!

 クロイツは黙って腕組みをし、横に座るサーシャとアルクが顔を見合わせている。他の同期も囁き合うなか、ロアークが手を挙げた。

「いったい、護衛は何をしていたのですか?」

 そのさかしらだった顔をじろりと一瞥する教官。『何を偉そうに』と顔に書いてあるように、ケビンには見える。

「護衛隊は一当たりで砕けて、旅人とともに逃げるのが精一杯だったそうだ」

 ふんと鼻を鳴らす坊ちゃまにおもねる声が、待ちかねたように周囲から上がる。

「まったく、その場にてロアーク様が指揮を取っておいでなら――」

「いやいや、ロアーク様の豪剣一閃で、魍魎などたちまち――」

「そこに我らが力を合わせて撃ちかかれば――」

 場をこれほどまでに白けさせて気にしない、というのはある種の才能である。その異才の持ち主、お追従に対して鷹揚に返すロアークを視界に収めないように顔を背けたケビンは、反対に憮然とした表情のクロイツを眺めることになった。

(呆れてるな……そりゃそうだよな、さっさと逃げたくせに)

 山中での顛末はケビンのみならず学生を越えて街中に知れ渡っており、『そこで無闇に打ち掛からず、女の子たちを護って引いたのは偉い』と本心から語る者はまれで、例えそう口には出しても内心で嘲笑しているというのが大勢である。

 教官はさすがに大人で、ひとにらみしたのちは生徒を静めて、話を再開した。

「ついに、時が来たと判断せざるを得ない。遠からず、王都よりその旨の発令があるだろう」

 時とはすなわち、王都の祠に眠る魔神の封印が風化し始めているということである――と言われても、

「……封印が解けたら、どうなるんだ?」

 ケビンのつぶやきは独創ではなく、他の同期からも上がったその声は教官の耳にも届いたようだ。いや、それがこの講義の本旨なのだろう。また空咳一つして、

「そこで、魔神の誕生からその封印に至る歴史をお前たちに話して聞かせる。じいさんばあさんやご両親から聞いたことがあるだろう昔話以上の、これから必須の知識となるであろう歴史をな。といっても――」

 教官は持ち込んだ書籍を教卓から持ち上げると、にやりとした。

「わたしもこのタネ本頼りだけどな。ま、わたしの自習ついでということさ」

 そして教官は息を一つ吸うと、語り始めた。


3.


 往古の昔。この広大なクヨービ平野がキンバズーイという名であった頃。

 当時この平野を支配下に置いていたのは、ベイティアという国号の王国であった。その支配はあまねく満ち――というわけではなく、平野の東部に巣食う反抗勢力がいた。ベイティアと同じく王を頭に頂き、ベイティアと違いヒトならざる者ども、すなわち魍魎が支配する国が。

 その代々の王には特殊な能力があった。その掌で触れた動物を、己の命令に絶対服従する魍魎に変える力である。膂力ヒトに優れる魍魎に、ベイティア王国は手を焼いた。その王国の切り札とも言うべき存在が、"勇者"であった。ベイティア王からの聖別で力を与えられるその者は、人智をはるかに超える力を振るえるのだ。

 ならば、早々に魍魎とその王を滅ぼし、めでたしめでたしかというと、さに非ず。魍魎の王――当時の諸人が魔王と呼ぶ存在――は代を重ねて17代まで続くのだ。

 ベイティア王国の史料が大方焼けてしまったため推測しかできないが、理由はいくつかあると思われる。

 魔王の本拠地には、彼が斃された時点で次代の魔王を産み出す魔道の石櫃があったため、それを壊さぬことには終わりなどこなかったこと。

 にもかかわらず、勇者が魔王を斃した時点で、それ以上の功績を上げさせないため王都に召喚し、名ばかりの顕職と雀の涙ほどの報奨金でもって恩賞とし、放置したこと。いや、実際にはその処遇に不満を持つ兆候が見られた時点で、勇者を密かに闇に葬りさえしていたようだ。

 そんなある意味堂々巡りにも、ついに終焉の時が来た。時のベイティア王、のちの世に"献身王"と言われる王が、勇者を3名同時に送り出したのだ。なぜこれが献身かと言えば、勇者の力の聖別には対価として王の寿命を削って充てるためで、王はほどなくして崩御するからである。

 3名の勇者は三方から魍魎の国の前線を噛み破って進撃した。途中で1名が伏兵により戦死したが、魍魎の王の本拠にある奥の院において、勇者たちは王を討ち果たすことに成功する。

 だが、勇者は過ちを犯した。

 王を斃して魔道の石櫃も破壊した彼らは、早や大功樹立の歓喜に逸り、手傷を負わせただけの王妃を残して奥の院から立ち去ってしまったのだ。奥の院の周囲で様子をうかがっていた兵卒たちに事後処理を任せて。

 その結果は、兵卒たちの全滅であった。

 勇者2人が奥の院を離れてから兵卒たちが突入するまでのあいだに何が起こったのか、語る史料は無い。ただ一言、本拠地の略奪に精を出していた一隊長が遅ればせながら奥の院に踏み込んだ時の言葉が残るのみである。

『全てが食い荒らされていた。兵卒も、そして魔王も』

 この言葉には、当然存在すべき人物への言及が無い。ではその人物、王軍の攻囲を掻い潜って行方をくらました王妃はどこへ行ったのか。その答えは、半年後に明らかになる。

 かつての本拠地から南に5日ほど行った所にある山中にて、王妃が蜂起したのだ。ベイティアの魍魎狩りを逃れてきた遺臣を結集しての挙行、いや、悪あがきと判断したベイティアは、急逝した前王に替わり即位した11歳の新王が軍勢を親率し、その御世の門出にせんとした。

 双方の軍勢が激突したのは、冬の色が濃くなり始めた12月初旬であった。山の麓に布陣したまま小さく固まって動かない王妃軍。自軍の3分の1もないそのさまを見た王は突撃命令を発し、王軍は渡河を始めた。その鬨の声に誘われたか、王妃の軍勢が左右に割れた。

 すわ崩れ立ったか、逃げ散る前に槍をつけようと足を速めた王軍の先鋒が見たもの、それは、身の丈にして屈強な兵士の倍以上はある怪物であった。肩から生えた四腕をいかめしく構え、振り乱した長く豊かな白髪は天を突き、その面には朱を注ぎ――そして、その胸の前で光が集束し、轟音とともに発射されたのだ。

 現存する年代記の断片によると、弓も届かぬ遠間からであったと記されている。その威力は、騎兵を人馬もろとも3人まとめて吹き飛ばすほどであり、先鋒は恐慌に陥った。『溺死する者数知れず』とあるので、渡河した兵たちは総崩れになったようだ。

 魍魎軍の追撃の陣頭に立つ怪物を見て、川向うで軍勢を総括していた王は気が動転し、全軍に退却命令を出す寸前であった。将軍たちがそれを押しとどめ、川べりに迎撃の陣が張られる。そして川の中ほどまで進んできた怪物目がけて、矢の雨が降り注いた。

 しかし、怪物は止まらなかった。続けて投槍が多数投擲されるも、やはり上半身に数え切れぬほど突き立てられた矢と槍を揺らしながらの歩みに変化無し。やがて上陸を果たした怪物は、一方的な殺戮を開始した。少し遅れてこちらも上陸を果たした魍魎軍を供にして。

 王軍は壊乱し、王は捕らえられた。彼とともに捕らえられた側近の一人による証言が、件の年代記に残されている。

 怪物は、こう述べた。

『ベイティアの王よ。我はそなたの父王がしいせしレイト王の妃なり。汝らの所業を、悪とは思わぬ。我ら魍魎とヒトとは相容れぬ存在。そなたらが魍魎を滅せんと欲するは当然である。

 だが、レイト王を、あの良きお方を弑された恨みが消えるわけではない。ゆえに我は起てり。汝らヒトを滅するために。あの良きお方のおちからをこの身に取り込み、魔神と為りしこの身を以て。

 帰れ、ヒトの王よ。そしてヒトの力を結集して、我に滅せられに戻って参れ』

 ほうほうの態で王都に戻った王の口から魔神の言葉を聞いて、宮中は恐慌状態に陥った。もはやヒトの力では、対抗できない。そのことが明らかであったから。なんとなれば、神は死なぬ。ゆえに弑し奉ることなどできないのだ。

 それではと勇者募集の勅令が王国全土を早馬で駆け巡った。が、宮中は今度は失意と茫然の底に沈むことになる。改めて募集をかけたからには、先代の勇者たちは既に"始末済み"であり、ベイティア王国の民は勇者を使い捨てる宮中の仕組みに、ついに愛想を尽かしたのだ。

 ならば権門に連なる者が勇者になればよい――と言うは易く、行うは難し。そもそも勇者とは、権門から選出されていたのである。それが(これも後世の推測によると)権門同士の諍いがこじれた結果、平民に募集となっていたのだ。その平民に逃げられたのである。

 国教たる『キャピタの家』にすがり、ただひたすら祈る。それしかせず、動かぬ王と将軍たちに痺れを切らしたのか、魔神軍が動き始めた。魔神による馴致で増やした魍魎を使って、まるで床に流した桶の水のごとく、王国をその支配で塗りこめ、押し潰してゆく。

 領土のほぼ中央にあった王都が陥落したのは、魔神の出現から4カ月後のことであった――


4.


 教官がここでタネ本を教卓に置くと、生徒たちを見回した。

「ここまでで、何か質問はあるか? といっても大したことは答えられないがな」

 と言われても、ケビンを初め生徒たちは今聞いたことを咀嚼するので精一杯だ。そもそもケビンはそういう難しい話を即理解できる頭を持ち合わせていない。

「クロイツ?」

「なんだよ」

「なんか質問しろよ」

 振られたクロイツは困り顔で答えた。

「まだ頭に入ってこねぇよ」

 仲間がいたことに安堵して見回すと、どいつもこいつも押し黙って下を向いたり外に眼を泳がせたり。

(へへっ、なんだみんな大したことねぇな――)

 調子に乗ったケビンの耳に、教官の低い声が響いた。

「じゃあケビン、お前が皆を代表して質問しろ」

 だらだらと流れ落ちる冷や汗。女生徒たちの(バカじゃないの)のという囁きは事実か幻聴か。

 口を震わせて言葉を探すケビンから質問が出るとは教官も思わず、休憩ののち再開ということになった。

 安堵の溜息をもらしていると、アルクが近寄ってきて肩をはたかれた。

「んだよケビン、カッコ悪りぃなぁ」

「んじゃオメェはなんかあったのかよ? 質問」

「無い!!」「いばるな!」

 掛け合いに、どっと笑いの花が咲く。

「どうなっちゃうんだろうね? ここから」とサーシャが目を輝かせている。

 女生徒の一人がからかい半分でサーシャの頭を撫でた。

「もーサーシャちゃんたら、今あたしらが生きてるってことは、どうにかなっちゃったってことじゃん」

「そりゃそうだけど――」

 と口を尖らせながらもナデナデは嫌がらないサーシャ。時々こういう子供っぽいところが見られるのも彼女の魅力であると、ケビンは思う。

「どうやって、えと、魔神だっけ? 退治されるのかな? やっぱかっこいい英雄とかが出てきて――」

「サーシャ、お前、ちゃんと聞いてなかったな?」

 アルクがサーシャのワクワクに水を差した。

「魔神は殺せない、っつてたろ? 封印するしかねぇんだよ」

 むくれるサーシャは、クロイツに水を向けた。

「クロちゃん? 何考え込んでるの?」

「あの魍魎――」

 クロイツの続けてのつぶやきに、ケビンたちは瞠目した。

「なにが言いたかったんだろう?」

「あのって、このあいだクロちゃんが斃した奴のこと?」

 クロイツはうなずくと、しかし誰とも目を合わさずつぶやき続けた。

「あれが多分熊の魍魎だってことは、見れば分かるんだ。だから、別にあいつが言葉をしゃべったわけじゃない。でも、なんかこう――」

 クロイツは瞳を閉じた。

「あの時は必死だったけど、なんかこう、訴えかけてくるような眼だったんだ」

 不思議な話に誰もついてゆけず、講義が再開されたこともあって、その話はそこで終いとなった。


5.


 王都を逃れた王の前に光が降り立ったのは、彼と従者が王都から2日ほど走り続けて駆け込んだ暗い森の中だった。

 その光は、ぬかづく王に向かって語りかけてきた。

『我はそなたらの信奉するキャピタの懇請によりて救援に来たり』と。

 歓喜する王と従者。だが、光の話は終わっていなかった。

『救援に当たっては、そなたの力が必要だ』

 なんなりとと叫ぶ王に、光は告げた。勇者を聖別する力を、我に差し出せと。

 言葉を失った王に、光は畳み掛けた。

『そなたの作り出す勇者では、あの魔神には対処できぬ。あれは、個人の武勇ではどうにもならぬほどの力を得てしまった』

 あの者にとって不幸なことではあったがと付け加えて、話は続く。

『ゆえに我は、より大きな力を育てられるように、一工夫せねばならぬ。そのためにはそなたのあの力が必要なのだ。いざや』

 急展開に頭が付いてゆけぬと見える――これはこの戦乱を生き延びた従者の残した手記を参照している――王がわずかに頷いたのを許諾ととったのか、光は王の胸を貫き、王は絶命の声すら上げず崩御した。

 こうしてこの魔神の引き起こした乱――世に言う魔神大戦は、この国を今も天上から守護する、イラストリアの神々の預かるところとなった。

 神々が先ず行ったこと。それは、異形の者を形作ることであった。といっても、夷を以て夷を制すとばかりに魍魎を作ったのではない。それは、今までヒトが見たことの無い生き物であった。

 前に突き出た長いあぎとと、その中に並ぶ鋭い歯。釣り上った眼。耳は天に向かって鋭く尖り、その下に続く首は太い。

 身長は最低のものでも、長身のヒトと同程度。樽のように真ん丸な胴体に、丸太のような腕と脚。その先に付いているのは骨太の指に、出し入れ自在の尖った爪。成人男性の太ももくらいはある太さの尻尾。そして背中には、1対の翼。

 そしてなによりその異形の生き物を特徴づけているのが、体毛だ。色も赤、黒、青など様々で、長さもまた様々であった。

 神々の頭首たるキラカヴィア大神おおみかみはこれを、『真龍』と名付けた。そして真龍に、かのベイティア王より取り上げた聖別の力を与えたのだ。

 それに、技術の神カガキヤが改良を加えた。聖別を3回しただけで息も絶え絶えでは困る。膨大な"龍の力"をヒトのうちでこれと見込んだ者に与え、かつその力でもって魍魎を圧倒できるようにしたのだ。

 むろん、選ばれしヒトは多数でなければならない。イラストリアの神々の目論見は、一点豪華主義の勇者に頼るのではなく、複数の真龍が選ぶ同数の"龍戦師"がその他の人々――龍の力を持つ者も持たざる者も――を統率して、魔神とその軍勢に挑むことにあった……

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