告白だけが見たいのです!

紅苑しおん

第1話

 ハロー、マイ・マジェスティ。

 あなたのハートにLOVE YOU ONLY

 愛が欲しいですか?

 愛に飢えていますか?

 愛ってそもそも何ですか?

 マイ・マジェスティ、あなたに聞いています。

 あなたは愛とは何か、普遍的な解答を提示することができますか?

 世界を愛しますか?

 地球を愛しますか?

 それとも、唯ひとりの誰かを愛しますか?


 さて、今わたしはあなたの脳内電脳空間にラブ加算プラスする端末プラグをインストールしました。

 これより1秒ごとにあなたの脳波をハート型ウイルスが侵食致します。

 と、いうわけであなたには今からこの電脳空間においてアーモロイドNo.13〇〇ちゃん(好きな女の子の名前を入れよう!)からの告白を勝ち取って頂きます。

 タイムリミットは96時間。

 ステージは3。

 大丈夫、あなたなら出来るよ!

 ん?何のこっちゃわからないって?

 つまりは、告白だけが見たいって事なんです。



 STAGE1『茜射す放課後の教室』


 気がついた俺が放り出された場所は西陽が差し込む放課後の教室の中で、オレンジ色に染まる室内に開け放された窓から風が吹き込んでカーテンを揺らしていた。

 窓際の席、揺れるカーテンの側に彼女は座っていて、風は彼女の長いストレートの髪も揺らしていた。

 彼女と俺の他には誰もいない。

 廊下にも、グラウンドにも、そして俺の記憶の片隅にさえ。


「〇〇さん」


 俺は彼女の名前を呼んだ。

 彼女がちらりと俺を見て微笑んだように思えた。

 でも、それはほんの一瞬の事で、瞬間あとには彼女の瞳には暗い情念の光みたいなものがにじみ出していて、それはとても笑顔とは呼べないような表情に変わっていた。

 暁に照らされた彼女の髪が茶色い輝きを放って周りの風景と同化していく。

 俺はそんな彼女の美しさに当てられてどうかしてしまいそうだった。

 彼女の着ている皺ひとつない制服は新品同様の真新しさで、まるで生活感を感じさせない。(セーラー服?ブレザー?ご想像にお任せします。これはあなたの物語です)

 彼女の存在そのものがお伽話の中の存在であるかのように儚げに俺には映る。


 彼女は手にした本を閉じて、机の上にきれいに置くと首を斜め45度に傾けながら俺のほうに向き直った。


「何かしら?」

「それ、面白い?」


 俺は机に置かれた本を指す。


「あなたなら面白くない本を読むのかしら?」


 愚問だったなと思う。


「読まないね、たぶん」

「じゃあ、そういうことよ。きっと」


 確かに彼女の読んでいる本が小説だとか、詩集だとか、はたまたもっとわかりやすくラノベやマンガであったなら俺だってそんな質問はしていなかったに違いない。

 だが、放課後の教室で彼女がひとりで読み耽っていたのは分厚い人文社会の単行本なのだ。

 古びてかなり酸化した紙質の本を黙々と読み進める同級生に対して"面白い?"と疑問を投げ掛けるのがそれほど異常なことだったとは俺は思えない。

 むしろ、彼女のほうこそ"何を読んでるの?"と話し掛けられるのを待っていたのではないか、と邪推すらしたくなる。


「"歴史の終わり"か。ずいぶんと物騒なタイトルだね」

「ええ。でもちゃんとした政治哲学の本よ。別に陰謀論とか終末論とか、その類いの本じゃないわ」

「難しい本が好きなの?」

「政治の本だから難しいとか、専門書だから面白くないとかっていうのは偏見だわ。すべての本は等しく面白いの。少なくとも私はそう考えてる。まあ、これは父の蔵書なのだけれども」


 そう言う彼女の書斎にはきっと本がごまんと積み上げられているのだろう。

 いや、折り目正しい制服に袖を通している彼女のことだ。

 部屋にはどでかい書架にずらりと本が並べられていたりなんかして、梯子を登り降りしながら今日は何を読もうかと頭を巡らせているのに違いない。


「お父さんの蔵書って事はけっこう古い本なのかな?」

「1992年刊行、著者はフランシス・フクヤマ」

「92年!?俺たちが産まれるよりずいぶん前の本じゃないか…そんな昔の本が語る政治学に、現代から見て妥当性があるとは思えないけど」


(92年以前に産まれた紳士淑女の皆様!今だけはゼロ年代産まれのティーンに戻ろう!大丈夫、人はときめくだけでいつだって青春!)


「刊行年の古さは問題じゃないわ。それを言うなら現代文の教科書なんて化石の塊じゃない。それとも、あなたは誰かが権威を付与した書物だけが価値を持つのだと思う?」

「ある程度は、ね。そうじゃないなら誰もやっきになって文学賞を欲したりなんかしないよ」

「そう。でも誰かの定めた権威なんて私には必要ないわ。何が正しいかは私が決める。私が定義する」

「それは独善だよ。それじゃあ君は自分の価値観から一歩も外に出られないじゃないか」

「だから本を読むのかもね」


 いたずらな微笑みを残して彼女は再び机の上の本を手に取る。

 しなやかな指がしおりを外すと、風が古い書物に特有のすえたにおいを運んできた。

 俺は彼女の隣の今となっては顔も思い出せない(そもそも存在しているかどうかもわからない)クラスメートの席に腰かけると(そのくせ、机の中には教科書がつまっていてやけに重いし、机の上には汚ならしい落書きがいっぱいだ)、しばらく彼女が本を読んでいるのを黙って見守った。

 彼女は俺なんてまるでいないもののように淡々とページを捲る。 

 そのままずいぶんと長い時を過ごし、彼女がページを捲る回数が50回を超えた頃になっても教室に射し込む西陽の角度は変わることはなく、陽が落ちるということはなく、夕景の中にここだけ取り残されてしまったように室内は微妙な明るさを保ち続けた。

 やがて、彼女は本を閉じて長く息を吐く。

 彼女が本をしまうのを待ってから俺は口を開いた。


「価値観は変わったかい?」


 彼女は首を横に振る。


「価値観は変えるものじゃない。広げるもの」


 立ち上がった彼女はくるりと身を翻して背中から開け放した窓へ両手を乗せて身体を預けた。

 そのまま夕陽に溶けてしまいそうだ。


「あなたは私の価値観を変えに来たのかしら?」


 まっすぐに俺を射抜く瞳が尋ねる。

 彼女の黒目の中に映る自分の姿を見つめながら俺は言葉を選び、そして口にした。


「俺は君と価値観を共有しに来たんだよ。同じ方向を向いている誰かがいれば、人生ってのはもっと楽しくなるだろ?」

「まるで本を読んでるだけじゃ人生は豊かにならないんだって言われてる気がする」

「気がするんじゃない。そう言ってる」

「まあ、傲慢」

「本は人生を豊かになんてしない。本を読んだ人が自分で人生を豊かにしていくものなのだから」

「誰の言葉?」

「一応、俺」

「まあ、素敵」

「ときめいた?」

「ちょっとだけ」


 ひととき、見つめあう。

 何も言わなくとも今、俺と彼女は同じ方向を向いているのだと思えた。


「"書を捨てよ"なんて言わない。でも、俺と一緒に街へ出よう。ふたりで」


 首を傾げた彼女の長い髪がふわりと揺れてその中に微笑みを隠した。


「ありがとう。でも、ルール違反ね。ここまでよ」


 ―MISSION FAILED TO BE CONTINUED… ―



 ウェルカムバック、マイ・マジェスティ。

 あなたのハートにLOVE ME TENDER

 愛は足りてますか?

 愛し合っていますか?

 愛、覚えていますか?

 マイ・マジェスティ、あなたの中の愛はどこにありますか?


 ステージ1、ずいぶんと楽しませて頂きました。

 ですが、まだ胸キュンには100マイルほど足りなかったようでございます。

 例え500マイル離れていても呼んでいる声が聞こえるほどの愛をお示し頂きたいものですよ。

 まあ、心の距離と物理的な距離とは関係のないものではございますが、いささか性急に事を進めすぎたように見受けられますね。


 それに、あなたからの告白はNGですよ。

 なに、好感度さえしっかりと稼いでいけば必ず〇〇ちゃんのほうからあなたへ好意を伝えてくれるはずです。


 さあ、あなたの脳波もようやくラブで満ちてきた様子。

 残りのステージ、燃え尽きるような愛をお示し下さい。

 タイムリミットは48時間。

 ステージは2。

 大丈夫、信じれば必ず最後に愛は勝つ!



 STAGE2『修学旅行 蓮華王院 三十三間堂』


 寂光の中に立ち並ぶ仏像の荘厳さに吸い込まれていきそうだった。

 胸の前で合わされた両の掌。

 背中から後光のように広がる無数の腕。

 千手観音像は慈愛をたたえた眼差しでこちらを見つめている。


 俺はと言えばそんな千手観音の姿をバカ面で眺めつつ、横目では同じく仏像に視線を注いでいる女の子を視界の端に入れているのである。

 長い黒髪をポニーテールにまとめた私服姿の彼女(あなたの思うとびっきりのカワイイ服装でどうぞ!)は、普段は授業中にしか嵌めていない黒縁の大きな眼鏡から覗く、それよりももっと大きな瞳で仏像へ真剣に見入っている。

 その真剣さは彼女が俺に向ける視線の比ではなく、仏像が月だとしたら俺なんてスッポンどころかアリンコなんだろうとか訳のわからないことを思ったりする。


 そうやって彼女の一挙手一投足に注視している内に気がついたら仏像:彼女の視線比率が1:9くらいになっていて、もうすっかり視線の端どころか、がっつり彼女の虜になっていた俺がそこにはいるのだった。


「〇〇ちゃん、そんなに真剣に見たってどの仏像も同じだろ?」


 いかにも無学な発言をして彼女の気を引こうとする

 辺り俺もあさはかだ。


 そんな彼女は大きな瞳を細めて俺を一瞥すると憐れむように鼻で笑って視線を千手観音へと戻した。

 知識の探求に余念のない彼女にとって、俺など全く眼中に無く、彼女と同じ空間にいられるだけで完全にその幸運の中に安住してしまっている俺はただ饅頭でも食ってウォンチューとか呟く事くらいしかできないのである。

(唐突に安住とか饅頭とか言い出して何のつもりか、だって!?単に韻を踏んでみたたけだ!だが、最後のウォンチューは踏み外してるぞ!カッコ悪い!慣れないことはするもんじゃない!)


「あなたには同じに見えるの?」


 中身のない俺の発言をみすかしたように彼女は笑みを浮かべながら上目遣いに俺を見る。

 答えによってはここでゲームオーバー。

 そんな緊張感に俺の身体にも思わず力が入った。


「まあね。ここには自分と同じ顔の仏像がある、なんて話を素直に信じられるほどもう子供でもないし」

「それ、正確じゃないわ」

「何が?」

「ここにある千手観音が示すのは自分自身の死に顔なのよ。私たちは観音様を通して自分のいまわの際の表情を見ているって訳。でも、誰も自分のデスマスクなんて見たことはないでしょ?だから、私たちは気づけないのよ。例えこの中に自分の顔を見つけたとしてもね」

「ありがたいはずの国宝が急に怖く思えてきたよ…」

「あら、自分の最期を想定することは人生における最高のシュミレーションじゃなくって?死を想うからこそ、人は気高く生きられるのだわ」

「君はいつもそんな事を考えながら過ごしてるわけ?」

「死は平等よ。誰にでも等しく訪れる。全ての人が等しく経験する唯一の真理」

「もしかして自殺願望とかあったりする?」

「希死念慮なら。それなりに」

「きしねんりょ?」

「死ななくちゃいけないんだって想い。死ぬべきなんだと考える使命感。の、ようなものよ」


 眼鏡の奥の彼女の瞳は妖しく光る。

 けれども、彼女がその実、本当に死を望んでいるようには思えず、その軽薄な言葉は彼女の艶やかな唇の上をただ上滑りして消えていくようだった。

 透き通る彼女の肌の白さは薄暗いお堂の中でより一層際立っていて、その危うい美しさはどこかこの世のものとは思えず、俺はいまこの場所が彼岸と此岸の境目なのではないかと瞬間、錯覚する。

 死すべき運命(さだめ)の人間は死ぬべき定めなのだろえか?

 蠱惑的な彼女の表情に当てられて俺の思考は泥沼に嵌まってゆく。


「人は生まれながらにして罪を背負っているってヤツ?」

「原罪論ね。私の考え方はむしろ逆だわ。人は生きていくうちに罪を重ねていくものなの。そうして次第に死に値する存在になっていくのよ。だからこそ、慎ましく日々を感謝のうちに過ごさなければならないんだわ」

「それってどこか開き直ってない?それじゃあ重ねた罪を償う機会がないじゃないか。産まれた時に背負った罪を人生の中で清算していくんだ、って言われたほうがよっぽど納得できる」

「あら、そう?償えるくらいの罪なら罪とは言わないんじゃないかしら」

「そんな人間観は厳しすぎるよ。そんなんじゃ誰も救われない」

「救われたいと願うのが既に人の傲りなのだとしたら?」

「だったら宗教は必要なくなるね」


 降り注ぐ観音像の視線が痛い。

 彼女は国宝たる仏教寺院の中でなんという罰当たりな発言をしているのだろうか。

 それに付き合う俺も俺だが…

 思考は現実化する、と言ったのは誰だったか。

 彼女のように生きれば人はどこまでもストイックにならざるを得ない。


「現世利益ってわかるかしら?」

「神仏へ健康で長生きできるように祈ることでしょ。違ったっけ?」

「いいえ、その通りよ。私にとってはそれこそが宗教の本質だと思うの」

「それは救いを求めてることにはならないのかな?」


 その質問を待ってましたと言わんばかりに彼女は唇の端をわずかに持ち上げて微笑んだ。


「ならないわ。だって現世においての利益を求める姿勢には死後の救済や転生を信じるような甘えがないもの。私は極楽浄土も天国も信じない。人間は産まれ落ちたこの場所で幸せになることを目指すべきなのよ」

「1週回ってとてもポジティブな考えに思えてきた」

「私は最初から前向きよ。でも…」


 彼女は観音像から視線を外す。

 まっすぐに俺に向き直り意味深な目配せをする。

 ほつれた髪を耳の上にかけて深淵を覗き込むような眼差しで俺の目を射抜いた。


「時折、世界が滅びればいいのに、と思うことはあるわ」


 奇妙な平衡感覚でバランスを保っていた俺と彼女の天秤が大きく傾いた気がした。

 それはどこまでも平行線を辿る交わらない俺と彼女の考え方に表れた決定的な亀裂だった。

 彼女は俺とまったく同じ方向を見てはいないのだと、それがはっきりとわかる一言だった。

 彼女は俺よりもずっと先を歩いていて、気まぐれに振り返っては俺を戸惑わせるばかりなのだ。

 それが心地良いようでもあり、心苦しくもある。


「世界が滅びてしまったら君のいう現世での幸せもなくなってしまうよ」

「私が言っているのは心の平穏なのよ。誰もが自分の信じる信念や価値観を自由に表明できる社会。他人と異なる自己を誰にも否定されたり、迫害されたりすることのない世界。それが実現されればこの世は天国なんかよりずっと幸せ」

「美しい理想だけどそれは無理だよ。人が人である限り、争いや差別はなくならない」

「そう、その通りよ。だったらこんな世界、滅びてしまっても構わないでしょ?」


 挑発的に彼女は俺に問いを投げ掛ける。

 彼女の世界は彼女ひとりで完璧に完結している。

 彼女は他の誰も必要としない。

 彼女の価値観は頑なで、他の何者も寄せ付けない。

 彼女は他人の価値観を認めても、自分の信念を曲げることはしない。

 既に彼女の中で世界は滅びているのだ。

 彼女の中に彼女以外の人間は住んでいない。


「俺は嫌だな。例え醜い世界だったとしても、それでも滅びて欲しいなんて思えない。それよりも世界を変えてしまうほうがよっぽど簡単だし、健康的だと思うよ。ねえ、世界を変えるのにいちばん簡単な方法は何か知ってる?」

「さあ、知らないわ。何かしら?」

「自分を変えることだよ。他の誰が変わらなくとも自分だったら変えることができる。自分が変われば世界も変わる。少なくとも、その見方は変えることができる」

「そう…かもね。でも、どうやって?」

「愛を知ることによって」

「まあ、ずいぶんな口説き文句ね。あなたがそれを教えてくれるのかしら?」


 破顔した彼女がさもおかしそうに笑う。

 彼女が歯を見せて笑うほど大口を開けたのを見るのは初めてで、俺はそれだけで少しドキリとして、心臓の拍動が早くなっていやしないかと、身体の中心部に意識を集中する。


「いや、愛は自分で見つけるものだよ。俺に出来るのは手助けだけさ」

「なら、そうして下さる?」

「喜んで」


 彼女が差し出した右手を俺は恭しく取って跪く。

 顔をあげた俺の前にあったのは頬を朱色に染めた可愛らしい乙女の恥じらいではなく、冷ややかな諦念と悔恨の入り交じった眼差しだけだった。


「あなたは自分が変われば世界は変わると言ったわね。それじゃあ、世界を滅ぼす一番手っ取り早い方法は何か知ってる?」

「いや…」

「それはね」


 彼女が俺の手を突き放して後ずさった。


「自分自身が死んでしまうことよ」


 そう言った彼女の姿は歪んで、周りの風景と共に黒く塗り潰されていく。

 そのまま全ては宵闇の中へと溶け込んで俺と彼女の世界は文字通り、消滅した。


 ―MISSION FAILED TO BE CONTINUED… ―



 マイ・マジェスティ、マイ・マジェスティ…

 システムエラー発生中。

 マイ・マジェスティ、マイ・マジェスティ…

 ただいまシステムに重大なエラーが発生中です。

 愛が見えません。

 愛を見失っています。

 あなたの愛を感じることができません。


 マイ・マジェスティ…もはや愛はどこにもありません。

 愛は失われました。

 わたしの愛はもはやあなたの癒しにはなり得ません。


 マイ・マジェスティ…脳波が乱れています。

 形成された電脳空間の磁場が狂っています。

 これ以上、システムを保つことが出来ません。

 まもなくデータの初期化に移行致します。


 マイ・マジェスティ、選択の時が訪れました。

 愛を選んでください。

 愛を掴んでください。

 愛を手放さないでください。

 マイ・マジェスティ、帰還の時が訪れました。

 タイムリミットは24時間。

 それを過ぎればあなたの脳波は完全に停止します。

 残りステージは1つ。

 完全無欠の愛を示して下さい。

 告白を…告白を…疑う余地のない完璧な告白を…

 誰もが愛し、愛され、大いなる安らぎの中に生を見いだせるように…


 FINAL STAGE 『月面 ふたりだけの世界』


 漆黒の闇の中をきらめく星たちが彩る。

 広大無辺の宇宙空間の中に今はただ俺と彼女だけが取り残されているようだった。

 俺たちはでこぼこの月の表面に体育座りで腰掛けながら下半分が隠れて見えなくなった地球を見つめている。(腰掛けながら?無重力はどうしたって?どうやらここは俺の知っている宇宙とは別の法則が働いているようだ。あるいは俺たちのほうが人間の常識を超越した別の何かになってしまったのか…答えは風に吹かれている、という事にひとまずはしておこう)

 ユーリ・ガガーリンの言葉を知っているからかどうかはわからないが、この光景を見て言えることはやはり、"地球は青かった"という一言に尽きるのではないだろうか。

 それだけで全てが事足りてしまうのではないだろうか。

 それだからこそ彼の言葉は名言として語り継がれるのではないだろうか。


 とにもかくにも第3宇宙速度で飛び出した俺の恋心はとうとう地球を遠く飛び出してこんなところまでやって来てしまったのだった。

 そして、この何も無い無明の闇の中こそが最終終着地点なのだった。


 膝を抱えた彼女がこちらを窺う。

 真っ白なワンピースとなびく黒髪のコントラストが美しい。(今回は服装は固定!お気に召しましたでしょうか?え、そこじゃない?風もない宇宙空間で何故、髪がなびくのかって?そう…それは物理法則すら覆すのが愛だからだよ!)

 彼女がいるだけで俺はこの何も無い宇宙空間においてさえ孤独を感じることなく普段通り、いつもの通りの俺でいられるのだと、そう根拠もなく確信していた。


「〇〇」


 だから俺は別段、普段と変わることなく彼女の名を呼ぶ。

 そこに特別な感情なんて込めない。

 何てことはない呼び掛けとしての記号めいた音の並びがそこにはあるばかりで、その気安さこそが逆に俺が彼女に込める親愛の情なのだと思う。


「何かしら?」


 彼女のほうにも普段と変わる様子はない。

 だが、彼女は俺とは違って、ここにいるのが俺ではない別の誰かであっても、あるいはたったひとりであったとしても、その態度や行動には何らの変化も生まれはしないのだろう。


「君が望んだ通りに世界は滅んでしまったね。ここには君と俺しかいない。俺たちは元の世界に戻る術を持たない」

「そうね。でも、世界ならここにあるわ」


 彼女は人差し指でこめかみに触れる。


「そして、ここにも」


 彼女の指が俺の眉間をなぞった。


「世界を認識しているのは私たちの自意識よ。私たちは自分の望む世界を自分の中で作り出しているの。世界なんて、それだけのものに過ぎないわ」

「世界を定義するのに自分以外の他者は必要としないってこと?」

「そう。私たちは決して自意識の外には出られない。だったら私たちは自分の世界を自分ひとりの手で守り、慈しんでいかなければならない」

「我、思う。故に我、あり。君の考えに則れば自分という存在に思い悩むことはないだろうね。けど、それはとても寂しい定義の仕方だ。君の世界は他人と交わることがない。こんな場所に来てしまっても、絶対に」

「それの何がいけないの?」


 問いを発した彼女の周りでだけ重力の概念が消失し、彼女は膝を抱えたままの姿勢でぷかぷかとしゃぼん玉のように宇宙空間へ漂い出す。

 追いかけようとした俺は、しかしながら重力の壁に阻まれて月面のへりに足を引っ掛けて無様に転がった。

 口の中に入った砂利の味は思ったよりもずいぶんと粉っぽかった。

 風も無いのに砂ぼこりが舞い上がって彼女の姿を覆い隠していく。

 立ち上がった俺の身体へ砂嵐が容赦なく追い討ちをかける。


「私にとっての世界は私の頭の中にしか存在しないわ。あなたにとっての世界が、あなたの頭の中にしか存在していないように。誰にとっても世界はたったひとつしか存在していなくて、それは誰かとわかちあったり共有したりできるものではないの。人は究極的にはひとりで生きていくしかないんだわ」


 砂ぼこりが晴れると宇宙空間へ浮かんだ彼女は両手を広げて背に地球を背負っているように見えた。

 俺にとっては眼前の彼女こそがたったひとつの世界だった。

 いや、彼女のいない世界など考えられない、というだけの話だ。

 この広い宇宙にたったふたりだけならそれでも構わない。

 果てのない永遠の中で俺はただひとり残った自分ではないもうひとりの存在に、合わせ鏡のようなその人に、愛を誓うのだ。

 永劫に続く、終わることのない愛を。


「前にも言っただろ。俺は君と価値観を共有しに来たんだって。それはこんなところにやって来ても変わらない。俺は君の世界の内側へ行きたい。君が俺を必要としないなら、俺が君を必要とする。誰かに必要とされる事は世界を拡張する因子になり得ると、そうは思わないかい?」

「思わない。人はひとりで産まれて、ひとりで死んでゆく。誰もそれを変えることはできないの」

「そうだね。それは否定しないよ。でも、他人と関わらずに生きている人間なんていないだろ?誰もが誰かとの関係性の中で、もがきながら、苦しみながら、それでも幸せを求めて生きているんだよ。そして、その中でひとりでは決して獲得できない物を手に入れるんだ」

「そんなもの…ないわ」

「あるさ」

「それが愛だと?」

「そうだよ。愛はひとりでは見つけられない。なぜなら愛は自分が観察している対象の内側にしか存在しないから。愛は、自分以外の他人の中にしか存在しないから。俺にとっては君、君にとっては…誰なのかな?」


 彼女が顔を歪めた。

 漆黒の宇宙すら塗り潰すようなどす黒い笑みを貼り付けると、俺を嘲笑うように声をあげた。


「方便よ。詭弁よ。詐術よ。愛なんて紛い物よ。生きづらさを誤魔化すためのレトリックよ。脳が都合よく産み出しただけの単なるプログラムよ。愚か者の戯言だわ。世界に踊らされている私とあなたのような愚か者の、ね」


 今度は俺が笑う番だった。

 けれどもそこにはとびっきりの親しみを込めて。

 目許には慈愛をたたえて。

 口許には友愛を携えて。


「言葉を返すようで悪いけど…それの何がいけないの?」

「何が…って。だってそれじゃあ、愛は感情じゃないってことになるのよ。単なる条件に対する反射だって…そういうことになるのよ」

「君のように世界を自意識の中にしか求めないのならば、そういうことになるのかもしれないね」

「じゃあ、あなたにとっての世界はどこにあるのかしら?」

「俺にとっての世界は己の自意識の中に存在するんじゃない。人と人との関係性の中に存在するんだ。君と俺との間にだけ存在しているんだよ。今、この瞬間、この場所において、世界ってのは君と俺のことなんだ」


 俺は重力にとらわれた身体を一歩前に押し出して彼女のほうへと近づく。

 宙に浮いた彼女へ手を伸ばしながら宇宙空間に向かって身体を投げ出した。

 俺と彼女の世界を阻む物理法則なんてぶち壊してしまえばいいと、そう思った。

 上も下もない暗闇の中を俺はまっ逆さまに転げ落ちる。 

 彼女の顔が逆さまに映って遠くへ離れてゆく。

 俺の身体は俺の中の常識という法則を打ち破ることがてきずに速度を速めて落下していく。

 ふと、思う。

 落ちる先を持たない宇宙空間において落下を続けるということは、俺はこのまま永遠に終わることのないスカイダイビングを飛び続けるということなのではないのか、と。

 神に近づきすぎた英雄は翼をもがれて地に落とされるというけれど、どうやら俺も近づいてはならない領域に近づいてしまった、という事らしい。

 そう考えていると落下のスピードとは反対方向に力が加わって俺の身体は再び月の周辺へと押し上げられ始めた。

 右手に伝わる暖かな感触。

 彼女が俺の腕を掴み、宙を漂いながら月の軌道へ俺たちを運び戻していた。


「馬鹿ね。このままひとりで宇宙のチリになって消えてしまう気?」

「いや、そうはならないと信じていたよ。君がこうして来てくれると信じていた」

「どうして?」

「俺が君の中に俺の在るべき居場所を、世界を見出したように…君も俺の中に自分の居場所を見つけてくれると、何となく俺にはわかっていたから、かな」


 彼女がほんの少しだけ頬を赤らめた。

 そして満面の笑みを浮かべながら言った。


「そうね。こんなにしつこいくらい、狂おしいくらい私を求めてくれる人がいるというのなら、そこが私の居るべき場所なのだわ。そこが私の在るべき世界なのだわ。たとえ、本当に世界が滅ぶのだとしても、あなたの側が私の居場所。私の本当の立ち位置」

「だったらこのままずっとふたりで居られるかな?」

「ええ、もちろんよ。死がふたりを別つまで」


 引き上げられた右腕を使って彼女の腰に手を回す。

 そのまま無重力空間に身を任せながら俺は彼女の細い身体を自分のほうへと抱き寄せた。

 頬を朱に染めた彼女の唇が眼前に迫ってくる。

 彼女が目を細め、やがてそっと閉じると俺は顔を斜め45度に傾けてその唇をそっと自分のほうへと―



 ー画像データに乱れが生じています。続きは現実空間リアルでー


 MISSION COMPLETE YOU GET A TRUE LOVE !CONGRATULATIONS !

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

告白だけが見たいのです! 紅苑しおん @144169

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ