第50話 表と裏

 白く輝く空間で、ノエルは目の前に現れた二人の人物の姿を見た。

 ノエルによく似た淡い金色の髪と薄い蒼色の瞳をしたその男女は、ノエルに向かって優しく微笑んでいた。


「お母……さん? お父、さん?」


 ノエルが幼い頃に他界し、見たこともなかったはずの両親。しかし、胸に暖かく広がるどこか懐かしい感情に、ノエルの疑問は確信へと変わっていた。父と母が、彼の救いを求める願いに応え、目の前に現れてくれたのだと。


*

「教えて! 龍の盃は、どこにあるの? 見つけられないと、みんなを助けられないんだ!」


『愛しい私の子よ、大丈夫。慌てないで。その答えは、あなたの中にあります。あなたは、もう答えを知っているはずよ。あとは、思い出すだけ』


 長いブロンドの髪を揺らめかせ、母が安心させるようにノエルの頬を撫でた。その瞳は慈愛に満ちてノエルを見つめていた。


「わからないよ! どんなに考えても、わからないんだ……」


 ただただ気持ちばかりが焦る。ノエルの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


*

 今度は父が優しい声で囁いた。


『では、1つずつヒントを出そう。龍の盃は、そこにあるが見えないものだ』

「あるけど、見えない……?」

「もしかして、凄く凄く小さいのかな? いや、神様の力を入れるくらいだから、大きい……?」


 ノエルは眉をひそめて考えた。

 龍の盃は、空気のように透明なのだろうか? 透明ならば見つけ出すことができない。もしかしたら、触れることもできないのだろうか。


 ノエルは龍の盃を、手に持てるような大きさの盃だと勝手に想像していた。だが神の力を全て込められるほどの盃ならば、もっと大きいのかもしれない。


『そうね、小さくもあり大きくもあるわ。例えば、すごく大きすぎて見えないのだとしたら?』


 小さくもあり大きくもある? では盃はその大きさを自在に変えられるいうことだろうか。


 大きさの変わる盃。すごく大きすぎて見えないもの。その言葉に、ノエルは、ここに来る時に見た光景を思い出した。

 ――大きく渦巻く、巨大な、巨大な穴。激しい水流が、まるで蜷局とぐろを巻く龍のようにうねり――


「あっ! もしかして〈竜の巣〉! あれが〈龍の盃〉?」


『半分正解ね、竜の巣もまた、〈盃〉の一部よ。もっと大きなものだとしたら? 宇宙そらに浮かぶ、豊かな水と生命を湛えた、大きな、大きな盃――』


「あっ……地球ガイア! じゃあ、地球が盃ってこと……?」


 ノエルは曖昧な気持ちで答えた。ノエル達が住むこの惑星ほしは、宇宙そらに浮かぶ丸い形の箱舟なのだと、聞いたことがある。宇宙に浮かび豊かな水と生命を湛えたものといえば、地球しか思い浮かばない。


 では〈龍の盃〉は、単なる言葉のあや――象徴でしかなかったのだろうか。丸い地球は、どうみても盃の形には見えない。


 考えながら、ノエルの心は焦りはじめていた。聖杯に込められた力を使って、早くみんなを助け出さなければならないのに!


『もう少しね。盃の上にうるしを塗るとしましょう。その漆を塗った部分は、盃じゃないのかしら?』


 ゆったりとした母の言葉に、ノエルはもう一度落ち着いて考えた。

 盃の上に漆を塗ったら、それは盃の一部になる。盃に注いだ水は漆の上を滑ってノエルの喉に届くが、ノエルは使うたびに「漆に覆われた盃を使っている」とは考えない。「漆を塗った盃」は、「盃」そのものだ。


 ――だがここで言う「盃」とは、地球のことだった。

 盃を覆う漆。その代わりに、地球の表面を覆っているモノとは何だろう?

 地球の表面には海があり、陸があり、空気があり、陸の上には植物が茂ってノエル達生き物が歩いている……

 盃を覆う漆。地球を覆う生命――


「もしも地球が盃なら、その上にあるもの――僕達も含めた地球上の全てが、盃ってこと?」


『その通りよ。あなた方一人一人が盃の一部であり、盃そのものなの』


*

 母は微笑み、父が続けた。


『では、創世主は盃の中に何を入れたのか、思い出せ』


 ノエルはヴァイスに教えてもらったエルフ族の伝承を思い出していた。

 神は盃にその力を封じ込めた。「盃」とは「地球」であり、「その上にいるノエル達生き物」のことでもある――。だとすれば。


「神は、盃に神の力を封じ込めた……。じゃあ、盃の一部である僕達一人一人にも、神の力が封じ込められているっていうの?」


 ノエルにはまだよくわからなかった。

 「聖杯の力を手にした者は、神にも等しい力を手に入れられる」と伝説では伝えられていた。ノエルも、聖杯さえ見つければその力は手にした者のものになるのだと思っていた。


 だが、地球自体が〈龍の盃〉で、ノエル達一人ひとりもその盃の一部だとすると、誰もが神の力を少しずつ分け与えられているということになるのか? ではどうやったらその力を取り出して使うことができるのだろう?


『その通りよ。まだピンと来ないかしら? ではもう一つ、別のヒントを出しましょう』


 そう言う母の手のひらの上に、盃が現れた。真っ白い、お椀のような無地の盃だ。


『ここに盃があるわ。あなたにとって、盃の表はどちら? 裏はどちら?』

「えっと……水を入れる凹んだ方が表で、外側が裏かな?」

『では、盃のふちをずっと厚くしていって――』


 母の手の上に浮かぶ盃が、みるみると膨らんでその厚さを増す。外側は球状になり、欠けた林檎のような形になった。


『こうすると、どちらが表かしら?』

「あれ、外側の丸い方が表かな? でも、窪んだ方も表? ――両方、表?」


 ノエルは混乱して声を上げた。


 先ほどまでの薄い盃なら、どちらが表でどちらが裏か、直観的に答えることができた。「表」がどちらか決めれば、その反対は「裏」ということになる。


 だが、膨らんだ形の盃はノエルの概念を覆した。

 「盃が膨らんだもの」と捉えて先ほどのノエルの定義に照らし合わせれば、窪んで水を入れる側が「表」になる。

 だが、「欠けた林檎の形」と捉えれば、外側の表面積の広い部分を「表」と呼ぶのが相応ふさわしいように思える。


 一体どこまでが表で、どこからが裏だったのだろう? 一瞬のうちに、表と裏の区別がわからなくなってしまった。


『そうね。本当は、裏も表も無いの。どちらも同じ。あなた方が決めただけ』

『善と悪もそう。どちらが良い悪いというのは、本当はないのよ。創世主はどちらも等しくお創りになった。ただあなた方がそれを見て、善い悪いを判断しているだけ』


 白く光る空間で、母の声は優しく続いていた。



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◆冒険図鑑 No.50: 伝説

 伝説とは、人々に語り継がれる物語である。だが、人の伝承には誤りも混じる。

 誰かから誰かに伝説が語り継がれていったとき、その話は少しずつ変化し歪曲ゆがまされ、ついには元の形とは似ても似つかないものになってしまうこともある。

 ……伝説とは、そういうものなのである。

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