1-6
「あおい診療所……」
僕は冷蔵庫の封筒に書かれていた診療所名を、スマホで検索した。亀浜氏が入院しているであろう診療所の地図は、すぐに見つけることができた。
あの弟子ではダメだ。だから師匠へ直々に相談しに行こうと考えた。そもそも僕が島を訪れたのは、あのチビどもと口ゲンカするためでも、安くてボリューミーなさしみを買うためでもない。霊験あらたかなユタであられる亀浜氏に会うためなのだから。
診療所への道のりは、少々遠かった。亀浜さしみ店と同じ赤瓦(アカガーラ)区ではあったが、緩やかな車道がくねくねと続く、木々の梢に覆われたトンネルをのぼって行くのは骨だった。
坂道をのぼっていくと、大きなガジュマルを中心としたロータリーに出た。バス停で乗客を降ろしていたバスが、エンジン音を上げて出発していく。
「バスあったんだ……」
沈み行く夕日が、空を茜色に染めている。
藍色がかった東の空には、気の早い月がぽつんと浮かんでいた。
ロータリーを囲むようにして、雑貨店や食堂などが並んでいる。小さな診療所は、その一角にあった。入り口へ続く階段の前で、大きな犬がぐうぐうと眠っている。柴犬に似ているが、僕は犬に詳しくない。雑種かもしれない。
そばを通ってもまったく反応を見せない。例えば僕がストーカーなどであったらどうするのだ。その警戒心の薄さに、かの少女を思い出させられる。
犬小屋には、〝そらまめ〟と犬の名前が書かれていた。
「……そら」
勘弁してくれ。眠る犬を脇目に見て、僕は階段を上がっていく。
真っ白な扉を開けると、カランカランとベルが鳴って、それは静かなカフェを思わせた。
しかし室内はちゃんとした診療所だ。清潔感のある白い壁に、かすかに感じる薬品のにおい。ソファーの置かれた待合室に人はなく、磨りガラス越しに夕日が差し込んでいる。
受付カウンターは無人で、誰かが来る様子もなかったので「すみませえん」と声を上げた。何度か声をかけてようやく、廊下の奥にエプロンをつけた中年の女性が顔をのぞかせる。洗濯物の入った大きなたらいを両手で抱えていて、いかにも忙しそうである。
看護服を着ていないので、普通の主婦に見えるが、看護師さんだろうか。
「あらごめんなさい! お見舞いかしら?」
「あ……ええと。亀浜氏はいらっしゃいますか」
これはしたり。見舞い人に扮して花か何かを買っておけばよかった。僕が持っているのは、さしみの詰め合わせとちんびんが一本だけである。
警戒されてしまうかと思いきや、看護師は「どうぞ」と意外にも僕をあっさりと病室へ案内してくれた。テキトーか。この島のセキュリティーはガバガバである。
「オバーちゃーん。三鷹さんって方がお見舞いに見えてますよ。若い男性の方」
亀浜氏の病室には、カンフー映画が流れていた。ベッド脇のラックに置かれたポータブルDVDプレーヤーから、「アイヤッ」だとか「ターッ」だとかいう吹き替え版ジャッキー・チェンの戦う声がする。
「ああっ、もうオバーちゃんったら、また煙草っ!」
看護師が手に取ったのは、窓枠に置いてあった灰皿である。
「吸ってんけど?」とベッドの上で背を丸める老婆。白髪を頭のてっぺんで束ね、病衣に藍色の半纏を羽織った彼女こそ、ご高名なユタであられる亀浜氏……なのだろうか。
窓辺のベッドに体を起こしていた亀浜氏に、看護師さんが詰め寄る。
「もう。なんでそんな見え見えの嘘つくの。そんな体に悪いもの吸ってたら、いつまで経っても治らないって言われてるでしょ? ハイ、全部出して」
亀浜氏はしぶしぶ半纏から煙草とライターを取り出し、差し出された手の平へ乗せる。
「老い先短いオバーからわずかな楽しみさえも奪うなんて……ひどい人だねえ、
「看護師さんでもないの!?」
思わず口をついた言葉に、蒼囲ちゃんと呼ばれた女性が振り返り微笑む。
「私はお手伝いさんです。スタッフの少ない診療所だからね。人手が足りなくて」
「して。ミタカさんって言ったね。ターがや?」
「ター……がや……?」
亀浜氏の言葉がわからず戸惑っていると、蒼囲さんが「誰ね? って」と教えてくれた。
「あ……三鷹春秋です。三鷹祀梨の甥に当たります。あ、今は名字変わってますけど」
「はいはい、祀梨さんね。縁切りの依頼な? 断ったはずだけどねえ」
「ええと、どうしても……亀浜氏に、相談にのって欲しくて――」
ごほ、ごほと咳き込む老婆。大丈夫なのか? 蒼囲さんに背中をさすられている姿を見ていると、本当にこの人がすごいユタなのか疑ってしまう。
「あの、これよかったら……」
僕がさしみの詰め合わせを差し出すと、亀浜氏は欠けた歯をのぞかせて笑った。
「カカッ。さしみ屋のオバーにさしみ持って来るわけ」
……あ、しまった、そうだった。
「あらあら。冷蔵庫に入れておきましょうか?」
蒼囲さんがまたも助け船を出してくれるが、亀浜氏は強い口調で「ならんど」と言う。
「もう傷んでるさ。捨てなさい」
「え……」
僕は驚いてビニール袋の中を確認する。新聞紙の包みを少し開いてみると、わずかながら鼻をつく嫌な臭いがした。真夏の炎天下を長時間歩き回っていたせいだ。
「うわ……最悪だ」
老婆はさすがさしみ店の主人と言うべきか。目をほとんど閉じたまま、袋の中身さえ見ていないのに、臭いだけでさしみだと――それも腐ったさしみだと感づいてしまった。
「まあ、もったいない。残念だけど、捨てておきましょうかね」
蒼囲さんの言葉に甘え、僕は「すみません」とビニール袋を渡す。
「あら、ちんびんが一本入ってるわ」
「……捨ててください」
先ほど流威奈に答えた言葉に反して、僕はさしみを捨てることになった。彼女の言う通り、食に感謝もできない傲慢な人間になったようで、一抹の悔しさを覚える。
「はるばる来てもらって申し訳ないことですが」
亀浜氏は一つ大きな咳をはさんでから告げる。
「この通り、ワンねぇただの死にかけたジャッキー
「……ジャッキージャンキー……」
ちらと一瞥したDVDプレーヤーの液晶では、ジャッキーがはしごを振り回して戦っていた。そしてこの病室に入ってきたときからずっと気になっていたのだが、ベッドのそばの白い壁に貼られているポスターもまた、若かりし日のジャッキーであった。……あれ完全に私物だ。ここ病室だろう。
「オバーちゃんっ! 死にかけだなんて変なこと言わないでってば」
「やしがわかるばぁよ。ユタはね、なんでもわかる。自分の死期さえもね」
「はいはい。すごいですねえ、ユタは」
老婆をあやすようにたしなめて、蒼囲さんは病室を出て行った。
すると亀浜氏は布団をめくり、灰皿を取り出す。懐からは煙草とライターを取り出し、ぷふーっと紫煙を吐き出した。
「……怒られますよ」
「あんたが吸ったってことにするさ」
「僕、未成年なんですけど……」
島に来たのは……間違いだった。この方はただの老婆だ。自身でも言っているではないか。煙草とジャッキーが好きな、死にかけた老婆……。
「では、依頼はあきらめます――」と退室しようとしたそのとき、壁沿いのパイプ椅子に一冊の本を見つけた。怖い顔をした妖怪の絵が表紙に描かれており、『怪奇!! おきなわの神々図鑑 下巻』とタイトルが打ってある。これは――。
「あの子たちが読んでたやつ……」その、下巻。
ハードカバーの児童書で、角が削れて丸まっていた。開いたページは黄ばんでいる。おどろおどろしいタッチで、沖縄の神々のイラストが描かれていた。名称や伝承の伝わる地域、危険値まで記されていた。難しい漢字にはふりがな付きで。
「会ったわけ? 空と流威奈に」
「はい、ついさっき。あの……空って子。ホントに弟子なんですか? この本に描かれている妖怪が、まるで本当にいるかのように話してましたけど」
僕は開いたページに目を落としながら尋ねた。大袈裟な見出しのフォントや、博士と少年が神や妖怪を解説する漫画。ページの端々に見える子供っぽさが、信憑性を損ねている。
実際に取り憑かれ、呪いに悩まされている僕でさえ、さすがにこれはフィクションだと感じた。
「妖怪じゃないさあ。
「……祟り、神……」
僕は顔を上げる。これは参った。少女たちが神を信じる根源はここか。空や流威奈は、この老婆の妄言を鵜呑みにしているのだろう。
「まあ、妖怪もいるけどね。人を祟るものを一緒くたに祟り神と呼んでいる」
「……ホントに、ここに描かれてる化け物みたいな奴らがいるんですか? この島に?」
「人間たちぬ上でもなく、下でもなく。
少なからず意表を突かれた。縁切りの相談に来たとは言
ったが、詳しい話はまだだ。妙に知ったような口を利く。
「……ああ。そっか、祀梨さんから聞いたんですね」
「いいや。ワンねぇ依頼を断ったんどうや。相談事があるとしか聞いてはいない」
つい、乾いた笑みがこぼれてしまう。きっと老婆は嘘をついている。僕のことを祀梨さんから聞いて、さも言い当てているかのように見せているだけ。これはペテンだ。祀梨さんに確かめればすぐにわかること。
「おや……?」と老婆は僕を見た。――否、うっすらと目を開いた先は僕の背後。
「――あんたは……違うね。神様のふりをした狐ね?」
ぞくりと怖気が走り、反射的に振り返る。
背後には誰もいない。僕の目には何も見えない。
「……いなり寿司でしょ。僕がいなり寿司しか食べられないから……祀梨さんからそれを聞いて、狐を連想したんだ」
「カカッ。あなたはいなり寿司しか食べられないわけ? おかしな祟り方やさ。その二股の狐は、ずいぶんといなりが好きなんだねえ」
……言ってないぞ。狐に取り憑かれ、いなり寿司しか摂取できなくなったとは祀梨さんに話したが、その狐の尾っぽが二つに分かれていたとは、誰にも言っていない。
「……僕に取り憑いているのは、神ではないのですか?」
「あなたを苦しめているのなら、ここじゃ祟り神と呼ばれるだろうがね。そしてあなたは、障り人さ。してはいけないことを、したんでしょう」
老婆はひょうひょうと笑ってみせる。これもペテンか。本物なのか……?
「僕は……罰を与えられたのでしょうか……?」
「言っておくけれども、花人はあなたの罪を赦すことはできんよ」
「……救ってはくれないんですか」
「懺悔したいなら教会へ行きなさい。罪を償いたいなら本土にも祈祷師はいるでしょう。花人は、障り人に赦しを与えるわけじゃないさ。いさめるわけでも、戒めるわけでもない。ただ、神と繋がった縁を切るだけよ。縁が切れたら、人間も神様も、お互いをすっかり忘れてしまうわけ。罪も罰もなかったことにするわけさ。だから人間は反省も後悔もしない。改善するわけでも、心を入れ替えるわけでもない。だからまた罪を犯す」
その繰り返しどぅや――と亀浜氏はつぶやいた。
「繰り返し、繰り返し。罪を忘れ、罪を犯す。そのたびに花人が縁を切って、その罪をなかったことにする。やしが障り人の罪っていうのは、祟り神の与えた罰ど? それをなかったことにするなんて、神への冒涜さあね」
亀浜氏は花人でありながら、花人という生き方を否定した。
「……やしが人が〝助けて〟と言ったら助けてしまう。それもまた人かね」
「じゃあ、あの。僕も助けてくれませんか」
ぷい、とそっぽを向く亀浜氏。
「しないよ。ワンねぇもう引退どぅや。花人は消耗品だからね」
「消耗品……?」
「やさ。花人っていうのは、人間を好かんくなる運命にあるわけ。救っても救ってもキリがないからねえ。もううんざりしてくる。障り人たーは救われた実感がないから、ありがとうも言わんしね。じゃあどうすればいいかわかるね? 花人であるための資格は何か」
「いえ……わかるわけないですよ。普通の人である僕に」
「〝楽しむこと〟さ。人間を助けることを。神と対峙する冒険を。大事なのは、人間を好きでいること。そんな子に頼みなさい」
「それって、空のことですか?」
「ワンねぇ充分に楽しんだから、今度はあの子が遊ぶ番さ」
「……遊ぶ、か」
この島の人間らしい考え方だな、と思ったりもする。神に祟られた障り人は――僕は、真剣に苦しみ、真剣に救ってほしいのだ。それを遊びと称されるのは、どこか楽観的で礼に欠けていて、同意はできなかった。
手に持っていた神々の図鑑を閉じようとしたそのとき、ふと開いていたページのイラストが目に入る。体にワラをまとったその神様は、泥にまみれていた。槍を持ち、もう片方の手で仮面を顔にあてがっている。明記された名前は【パーントゥ】。見覚えがある。ありすぎる。その姿は完全に、僕が昼間みたあの男ではないか――。
「ストーカー……?」
なぜストーカーが『怪奇!! おきなわの神々図鑑』などに載っているのだ。確かに見た目怪奇ではあったが……あのストーカーが神だと言うのか。
「これ。この悪神、あなたの家にいましたよ!」
思わずページを指差して、亀浜氏へと見せる。
「昨日も空を追いかけてたんだ。あの子、神にストーカーされていたのか……!」
いつの間にか未知との遭遇をはたしていたことに興奮冷めやらぬ僕であったが、亀浜氏は「ほおん」と落ち着いたものである。
「視えたば?」
「見えました。ってか、たぶん僕しか見えてません。祭りのときも、あんなに目立つ格好してたのに誰も気にしてなかったし、ストーカーのこと伝えても、空はノーリアクションでしたから。なんで僕にだけ……?」
始めに泥男を目撃したのは、祭り会場に続く橋の上だった。そのあと、やつは踊る空を鳥居の上で見つめていたし、今日は眠る空の顔に泥を塗っていた。間違いない。あの不気味な神様は、空を狙っているのだ。
「さっき言いましたよね、亀浜氏。花人のやっていることは、神への冒涜だと。例えばですが、神が、縁を切ってしまう花人を恨んでいるなんてことはありませんか……?」
亀浜氏は紫煙を散らし、大きく頷く。
「いい着眼点さ。あれはやっかいど。しつこいからねぇ。ワンも何度口に泥をつめられて窒息死しかけたことか……」
「空が危ない。知らせてやらないと。確か今夜にでも縁切りを行うとか……」
さしみ店で流威奈が役人にそう言っていたのを思い出す。
「〝ンブー・イナグ〟どぅや。
「そうです。ご存じですか」
「報告は受けてるけどね。
「……え? カーミヌ……? どこ?」
「タクシーを呼びなさい。それから車椅子も。蒼囲ちゃんに見つからんようにね」
亀浜氏は煙草を揉み消し、ベッドわきの杖を持ち出す。
「亀浜氏も行くのですか……? なら氏の活躍も見られるのでしょうか」
「はっさ、
「……失敗してもいいんですか、師匠」
「失敗もしないで一人前になれるかね。
それから師匠は「まあ、死んだら終わりだけどね」と物騒なことを言って、弟子のピンチを楽しそうに笑う。
「エンドロールのNG集もまた醍醐味さ」
ああ、この老婆。花人の師匠である前に、生粋のジャッキー
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