1-5

「ストーカーかもしれない……戻って来るぞ、ストーカーなら」


 僕は空に、泥男のことを説明した。男の姿は、昨夜の夜祭りでも見かけたこと。襲われる寸前であったこと。毒を塗って笑ってたこと――まああれは毒ではなく、泥であったが……だが、少女の頬に泥を塗りたくるなど、変態的行為であることに違いはなかろう。

 なのにこの無防備な少女は、「ストーカー?」とのんきに小首をかしげるのだ。


「知らないのか? 人のあとをつけて回る変態だ」


「ええー? なんで?」


「好きだからだ! 君か、もしくは……あの、お姉さんを狙っているのかもしれない」


「お姉さん? りんさん?」


 聞けばこの家は、隣接する亀浜さしみ店と繋がっているのだという。ここは、あのお姉さん――凜音さんのご自宅でもあるのだ。


「かの美しい人を狙って侵入したが、君しかいなかったから……例えば、腹いせに泥を塗ってやろうとでも考えたのかもしれない。まあ変態の思考はわからないが……とにかく警察に通報しないと」


「けど毒じゃなくて泥でしょ? 大丈夫ヒージどお? あたしはー」


 泥で頬を汚したまま、えへへと笑う空。田舎者というのは、なぜこうも危機感がない。


「いいかい。ストーカーというのはどんどんエスカーレートしていくのだよ。毒を塗られるようになってからでは遅いんだ。……そうだ、彼女に会わせていただけませんか。〝ユタの弟子〟の」


 あの大人の女性であれば、真剣に取り合ってくれるだろうと思ったが、しかし空は大きな瞳をしばたたかせ、またも小首をかしげる。


「ユタの弟子?」


「そう。いるのでしょう? 入院中のユタの代わりをしている弟子が」


「いるけど。でもそれ……あたしだよ?」


 オワタっ! と僕が澄み渡る青空を仰いだのは、言うまでもない。




 思えば民宿を出るとき、僕にクバ笠を渡した祀梨さんがニヤニヤと笑っていたのは、〝ユタの弟子〟が空であると知っていたからに違いない。僕があの二人を苦手に思っているのを知った上で、黙っていたのだ。何が「話せばわかるよ。がんばってねー」だ。

 あんな子どもが、どうやって僕を救うというのだ。

 キュ、と蛇口を捻って水を止める。僕は亀浜家の洗面台を借り、空を抱き起こしたときについた毒を――じゃなくて泥を洗い落としていた。

「君はこの家の者なのか」と尋ねると、空は「今住んでるオバーの家族は凜音さんだけ。あたしはオバーの弟子で、流威奈はあたしの相棒なんだ」と答えた。

 洗面台のドアを開ければ、台所に出る。食器棚や電子レンジの置かれたラックがところ狭しと並んではいるが、きれいに整頓されている。

 冷蔵庫には、診療所名の書かれた封筒がマグネットで貼りつけられていた。例えば検査結果の通知だろうか。ならば亀浜氏はその診療所にいるのか。

 居間には仏壇があった。白黒の遺影に映った笑顔の女の子はツインテールで、そのシルエットが空に似ていてドキリとした。よく見れば空よりも若く、まだ小学生であるのに亡くなってしまったのか。この子も亀浜氏の孫だとすれば、凜音さんの妹なのかもしれない。

 静謐な空間に時計の時を刻む音。

 ひそひそと聞こえてくるのは、空と流威奈の話し声である。


「――流威奈、あったよ、あった。見つけた」


「どれ? ンブー・イナグ……〝重い女〟か。っぽいね」


 二人は、居間の奥にある部屋のベッドに腰かけていた。遠目に見る限り、そこは寝室であるようだ。使い古されたベッドの他に、タンスや鏡台がちらりと見えた。

 僕は廊下に立ったまま、壁を背にして息をひそめる。


「タコの頭に人の体。全身はヌメヌメとしていて……盗みを犯す大罪人を祟る……か」


「ほら、ここ。取り憑かれた人間は汗が止まらなくなり、やがて干からびてしまう――ってとこもさ、手汗が止まらないっていう依頼人と同じ現象でしょ?」


 やはり、二人はお祓い案件に関して話し合っているようである。あの空という少女が、本当にユタの弟子なのかどうか、確かめるまたとないチャンスであった。

 部屋をそっとのぞき込んで見れば、空が膝に置いた本を、二人そろって読んでいる。


「やっぱり、〝朱浜節あかはまぶし〟に出てくる神様だと思うな」

 空は言って、節をつけて歌い出した。


「〝エ~、ただちゅい、わらてぃくぃたせ~。あかサングぬする~、びぃけ~どぅやる〟――って、ね? サンゴ出てくるし」


 昨夜、神楽殿で空が舞っていたときに演奏されていた、古典音楽と似たような歌だった。その歌詞はまるで外国語のように不可解で、僕にはまったく意味不明だが、流威奈は理解できているようだ。難しい顔をして腕を組む。


「朱いサンゴを盗んだ女子大生を祟ったってわけね。リゾート区の浜辺にもあったはずだよねえ? 『朱いサンゴは持ち帰らないでください』って看板がでかでかとさ」


 そして大きくため息をつく。


「ほんと大和のヤマトンチュってのは……。星砂とか、白いサンゴの死骸を持ってきゃいいのに」


「生きてるサンゴはまずいよね。あれは、神様のものだし」


 二人の話に聞き耳を立て、大まかな案件の概要がつかめてきた。

 悪神に取り憑かれた依頼人は、県外から観光に訪れた女子大生だ。彼女はリゾート区の浜辺で遊んでいたが、ホテルに帰ってから発熱し、全身から流れる汗が止まらなくなったらしい。特に手汗がひどく、渡されたグラスを落としてしまうほどヌメっているのだとか。


「田中さんが急いで欲しいんだってさ。役場にどんどん依頼が来てんだと。観光客はバカだから、がんがん神に障ってくれるよまったく……」


「まあ、夏は稼ぎどきって言うしねえ」


 田中さん――とは、先ほど表にいたスーツ姿の男か。彼はビジネスマンではなく、役場の人間であったようだ。つまり依頼人は役場を通して、ユタにお祓いを依頼する――現在はそのユタが療養中であるため、弟子である空が出動することになっているのだろう。


「……どうやって、その悪神を祓うのですか?」


 二人の会話がなかなかそこに触れなかったので、僕は我慢できずに姿を現した。

「は? なんでお客さんがいんの……?」と、あからさまに嫌悪感を示したのは流威奈である。立ち上がり、僕を部屋に入れまいと立ちふさがる。


「ここは立ち入り禁止なんですけど」


「ごめん流威奈っ、その人あたしが入れたの。ゲロんちゅっていうんだよ」


「いいませんよ。僕は、三鷹春秋と申しまして――」


「正気!? 空! なんで関係ない人家に入れちゃうのよ。あんたは警戒心がなさ過ぎる」


 自己紹介を遮られたのは不本意ではあるが、警戒心の薄さに関しては同意である。


「だって、泥で汚しちゃったから……。手え洗うだけならって」


 言い合う二人をよそに、僕はそっと視線を落とした。流威奈がページに人差し指を挟んで持つ、先ほど読んでいた本を確認する。おどろおどろしい妖怪の絵の上に、大袈裟なフォントでタイトルが書かれていた。

『怪奇!! おきなわの神々図鑑 上巻』……ん?


「それ、オカルト本……?」


 それも子ども向けの。恐竜図鑑だとか、世界の偉人だとか、漫画やイラストが盛りだくさんに散りばめられた、そういったたぐいの児童書ではないか?

 僕に指を差され、流威奈は本を抱き寄せ眼鏡を光らせる。


「何? あなたには関係ないでしょ。手洗ったんならもう出てって」


「いや、関係ある。僕は、僕に憑いた悪神を祓ってもらうために東京からわざわざやって来たんだ。君たちが本物のユタかどうかを確かめる動機がある」


「はあ? 確かめるって何。さしみ買いに来たんじゃないの?」


「断じて違う。だから質問に答えてくれ。君たちは、どうやって悪神を倒すのだ」


 流威奈と押し問答していると、空がベッドに腰かけたまま「倒さないよ」と答えた。

「倒さない。ユタにはいろいろ種類があるんだよ。自分の体に神様を憑依させたり、お告げを聞いたり。でも基本、あたしたちは神様と戦うわけじゃない。白結木島のユタは――花人ハナンチュの場合はね、切るの」


「……斬るんじゃないか」


「違うよ。神様を斬るんじゃない。罪を犯した障り人と、罰を与える祟り神。二つの間にできてしまった縁を、裁つんだよ」


 空は手をチョキの形にして、「ちょきんっ」と何もない空間にハサミを入れた。


「これこそ花人にしかできないお祓いの仕方。〝縁切り〟なのです!」


「……神と人との縁を切るってことか……? 切れるものなのか? 指で」


「や……オバーは指で切っちゃうけど、あたしはほら、まだ見習いだから。ええと――」


 空はきょろきょろと湿布のにおいに満ちた部屋を見回し、枕元の台の上に無造作に置かれていた裁ち切りバサミに飛びついた。


「じゃん! これ、これで裁ち切りますっ」


 ドヤ顔でシャキシャキと刃を動かす少女。

 それはそれは切れ味の鋭そうなハサミではあるが……。僕にはどうしても、そのハサミが〝縁〟などという曖昧なものを裁つ道具には見えない。


「……ふざけているのか?」


 つぶやいた瞬間、僕は流威奈に肩を押された。


「ふざけてなんかないわ! だから嫌なのよ、ヤマトンチュは。空の気持ちも知らないで自分のことばっか。助けて助けてってうっさいんだけど。神に障った自分が悪いくせに」


 流威奈の背後で、空がおずおずと立ち上がった。


「流威奈あ、言いすぎだよー……」


「ふんっ、言ってやればいいのよ。帰れ。誰があんたの神なんか祓ってやるもんですか」


「……こっちだって、本来なら君たちみたいなお子さまに頼むつもりじゃなかった」


 ぐい、と流威奈は一歩前に出て、眼鏡ごしに僕をにらみつける。


「だから帰れってば。あんまウシェエテたら、タッくるサリンド!」


「……? 何?」


「ナメるなってこと!」


「ああ帰るさ、言われなくても」


 踵を返して廊下を早足で歩く。「さしみっ」と背後に声を聞いて、思わず振り返った。

 流威奈が僕の持つビニール袋を指差している。


「あんたそれ、食べるつもりで買ったんでしょうね」


「……もちろんですよ」


「ホントかしら。大和の人ナイチャーたちターは食に感謝することもできない大金持ちばっかだから、信じらんないわ」

「嫌な子どもだ」

 別れ際に言われたその皮肉のせいで。僕はどうせ食べることのできないこのさしみを、捨てることができなくなった。

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