1-4

「おはようさあんっ! って、もうおはようって時間でもないけどね。一一時だよー? だいぶ疲れてたのねえ!」


 洗面道具を持って階段を降りると、ラウンジに面した庭で水をまいていた祀梨さんに見つかった。祀梨さんはホースを芝生に向けたまま、顔だけ振り返って声を上げる。


「うちは朝食付きだよー? 待ってて今準備するからー!」


「……や、だから食えないんですってば」


「大丈夫大丈夫、いなり寿司でしょ? あと飲み物は飲めるんだよね?」


 朝から元気な人である。ああ、ここじゃあ一一時は朝ではないのか?


「先に風呂に入ってもいいですか……」


 僕は元気いっぱいの祀梨さんから逃げるように、洗面台のある奥の方へ進んでいく。

 民宿は昔からある木造家屋で、元々は祀梨さんの旦那さんが経営していたのだという。二階が宿泊施設で、今は夏場のかき入れ時ともあって四部屋すべてが埋まっているのだと。

 そんな忙しい時期に、七泊八日も家族割りで部屋を借りるのは申し訳ないが、そう言うと祀梨さんはやっぱり「いいからいいから」と笑う。

 一階には広いラウンジやキッチンなどの共有スペースがある。色とりどりのサンゴ礁を描いた絵画や、迫力のあるウミガメの剥製が壁に飾られていた。

 民宿の売りは海の見渡せる展望デッキで、食事も取れるテラスは、祀梨さんいわく「最高なんだから、最高なんだから!」とのことだ。

 それに比べあまり最高ではない狭い風呂場でシャワーを浴びて、僕はテラスへ出た。

 山の中腹から見渡す展望は開けていて、ヤシの木の向こうに大海原が一望できる。澄み渡る空色と、深い海の青が魅せる大パノラマである。その水平線はわずかに湾曲しているようにさえ感じた。

 太陽の光を受けて煌めく水面を、いくつものボートが横切っていく。日差しは強いが、屋根のあるテラスは日陰となっている。海風が吹き込んで涼しいくらいだ。

 なるほど祀梨さんが「最高なんだから!」を二回繰り返すのもうなずけた。


「他のお客さんはもう出ちゃったから、君一人だけどいいよね。すぐ用意してあげる」


 ラウンジから聞こえる祀梨さんの声に返事をする。


「何をですか?」


「シークヮーサージュースか、グァバジュース。果汁一〇〇パーだよ。どっちがいい?」


「どっちでもいいです」


「じゃどっちもね!」


 ウッドテーブルの一つに、エプロン姿の祀梨さんがジュースやコップを並べてくれた。


「うちの人も買い出しに行っちゃって。ヒージャー汁作るって張り切ってたよ」


「ああ、いや、僕、食べられないんですけどね……」


 祀梨さんの旦那さんには、昨晩のうちに挨拶を済ませていた。祀梨さんよりも少し背が低く、日に焼けていて、髭もじゃのドワーフのような人だった。祀梨さんが、結婚してからも彼を実家に連れて来ない理由がわかる気がする。彼はなんというか、手斧とか持っていそうな、さくさくっとウサギなどさばけそうな……とにかく、三鷹家とは正反対の人であった。

 昨晩は民宿の駐車場でばったり出くわすや否や、いきなり「やーヒージャーぐゎ、かむか?」と尋ねられた。祀梨さんに訳してもらえば、「あなたはヤギを食べますか?」と訊かれたらしい。まずヤギを食べ物と認識していなかったので、返答に困った。

〝ヒージャー汁〟とはヤギ汁のことで、めでたいときなどに出されるご馳走であるらしい。旦那さんは祀梨さんの親族である僕のために、そのご馳走を用意してくれるのだとか。

 いやだから食べられない、と僕はずっと言っている。しかし祀梨さんは「呪いが解けてから、そのお祝いに食べよう」と笑った。ちゃんと伝えてくれてるのかな、この人……。

 テーブルに並べられた二色の液体を見比べた。

 片方は黄色のシークヮーサーをしぼったジュース。もう片方が薄いピンク色のグァバをしぼったジュースだ。どちらの果実も摂取するのは初めてである。

 まずはシークヮーサージュースを飲んでみる。レモンほど酸っぱいわけじゃなく、オレンジほど甘ったるいわけでもない。ちょうどよい甘酸っぱさが口内で弾けて、なるほどこれは元気が出る。一言で言い表すなら「ザ・爽やか!」だ。

 対してグァバジュースは、ピーチのようなほのかな甘さに、トロトロでざらざらとした舌触りがこれまた不思議。飲み込めば鼻を抜ける南国感。すっぱい後味がくせにになりそうな一品である。一言で言い表すなら……「ザ・トロピカルっ!」にしよう。

 どちらのジュースにもビタミンCが豊富に含まれており、疲労回復や美白効果、そしてニキビ予防の効果もあると、スマホで検索した記事に載っていたのでおかわりをする。


「……いなり寿司には合わないんだろうけど……」


 祀梨さんが冷蔵庫から出してくれた、いなり寿司のタッパーは閉めたままだ。

 食べたくないなあと思っているところに、トテトテとおぼつかない足取りで、笑さんがやって来た。テーブルに置いた平皿には、ラップに包まれたオニギリが三個。


「……笑さんも、これから朝食ですか?」


 ちょこんと僕の対面に座った幼女に、恐る恐る尋ねてみる。何がきっかけで「ひんっ」とされるのかわからないので、少々緊張する。

 ほっぺをリンゴのように赤くして、小さくうなずく笑さん。かわいい。何を考えているのかわからない謎の生物の反応が、こんなにも嬉しいとは。

 その可愛らしい小さなお口を動かして、笑さんは黙々とオニギリをかじり始めた。

 それにしてもずいぶんと大きなオニギリである。笑さんの前の平皿には、同じようなオニギリがまだあと二つ。今手に持っているのも含めて、三個も食べるつもりなのだろうか。

 彼女の体格を考えれば、半個でさえ充分であるように思える。ちゃんと食べられるのだろうか? 不安に思い見つめていると、腹が鳴った。いなり寿司が呼んでいる……。

 僕があまりに見過ぎたせいか、笑さんが顔を上げた。ほっぺにごはん粒がついている。


「……たべう……?」


 天使はそう言って、オニギリの積まれた平皿を僕の方へ押し出す。

 しまった。これは「ひんっ」の流れではないか。


「……いや、食べるふりでいいんだよな……?」


 僕は指先をぱくぱくさせて〝へびさん〟を作り、ラップに包まれたオニギリの一つへ手を伸ばした。海苔に包まれた、しかくい形のオニギリはずっしりと重く、まだほのかに温かい。


「あ……あむ、あむ……」


 米で具材を挟み込むように握られていて、卵焼きと薄く切られた肉がはみ出ていた。


「この肉は……?」


「ぽーくたまごおにぎりっ」


 笑さんはそう教えてくれた。ポーク卵おにぎり。やはりこれは焼かれたポークか。

 さすがは豚肉文化だ。沖縄の人間というのは、ブタの鳴き声以外すべての部分を食べてしまうのだと聞く。地元でチェーン展開するコンビニ弁当には、必ず薄く切って焼かれたポークが添えられているのだと、ネットの掲示板に書かれていた。沖縄人は豚肉が好きなのだ。それはもう、オニギリの具にしてしまうほどに。

 食べるふりをするために、少しだけラップを剥がしてみた。くん、と鼻を近づけてかいでみるだけ。焼けたポークの香ばしい香りが鼻先をくすぐる。……ほう。肉め。

 このボリューム。重量感。空腹者の手に持たせて「食べるな」と言うにはあまりに酷な代物であった。はみ出た具を見つめていると、大口開けてガブッといきたくなる。いけない、距離を置かなくては――と、オニギリを平皿に戻そうとした僕を、笑さんがじっと見つめている。

 ああ。僕はこのあどけない幼女がおっさん化するところを、もう二度と見たくはない。

 食べる、ふりだけでいいのだ。


「あむ……あむ……」


 大きなオニギリで口元を隠し、僕は唇だけを動かした。


   ×   ×   ×


「ゥオロロロロろろろろっ……!」

 ポーク卵おにぎり。なんと恐ろしい食べ物であろうか。食べれば吐く呪いにかかった者が、軽い気持ちで鼻先へ近づけてよい代物ではなかった。あれよあれよと自制を失い、こうして草むらの茂みで嘔吐にいたる。

 それにしても、と吐いた描写の直後ではあるが、僕はポーク卵おにぎりを思い返す。

 僕は、昨日来島直後に食べた軟骨ソーキそばこそが、沖縄で最もおいしい食べ物だと思っていた。しかし早くも、対抗馬の登場である。これは接戦だ。鼻先一つ出るか出ないかの勝負であった。

 ポークと卵。本州で言えば、ウインナーと卵くらいに愛称がよい。朝食のプレートに並べてワンセットなそれらを、一緒くたにまとめて具にしてしまうなど、あまりに大胆な握り飯であった。しかもあのオニギリ、入っているのはそれだけではない。ポークと卵の間に息をひそめるのは、味噌である。それも甘辛い、歯ごたえのある、味噌である。


「なんだ、これ……?」


 またもや知らぬ食べ物だ。スマホを使い「沖縄 味噌 甘辛い」で検索してみたところ、〝油みそ〟であることがわかった。方言ならば〝アンダンスー〟。なんだそれは。

 味噌に細切れの豚肉や砂糖、泡盛などを加えて炒めたもので、沖縄ではご飯の上に乗っけたりなどする、一般的な家庭料理であると書かれていた。オニギリの具としても申し分ないそうだが、なぜそれをポーク卵オニギリに加えるのか。すでにポークと卵があるではないか。

 ポークに豚肉入りの味噌を混ぜるなんて、どれだけブタが好きなのだ。うまかった。

 さらに笑さんが「いいよー」と譲ってくれた他のポーク卵オニギリには、青菜やシーチキンが入っていた。笑さんが半分残したオニギリには、ケチャップが塗りたくられていた。

 この地方では、ポークと卵はデフォに過ぎないのだ。そこにプラスして何かを加えるのだ。欲張りすぎだろう。うまかった。

 しかしその不思議な食体験は、結局はこうして嘔吐体験に終着してしまう。


「はあ……もったいないものだな」


 呪われた身が悲しい。自己嫌悪とよだれをハンカチで拭い、僕はあぜ道へと戻った。

 気を取り直して歩き出す。

 向かう先は、例のユタが住んでいたという〝亀浜さしみ店〟だ。

 老婆が入院中と聞いて意気消沈する僕に、祀梨さんは言った。


「そう落ち込まないで。じゃあ、代理で相談を受けている弟子のとこに行ってみる?」


 そう。老婆には、弟子が一人いるらしい。

 まだ修行中の未熟者ではあるが、病床に伏せる老婆に代わって、人々の相談を受けているのだとか。憂鬱な食生活に一筋の光が差した瞬間だった。

 そしてこれから向かう地元密着型の小さな〝さしみ店〟(沖縄には鮮魚店の他にさしみ店なるものがあるのだと)こそ、ユタとコンタクトが取れるインフォメーションカウンターなのだという。

 悪霊に取り憑かれた村人たちは、さしみを買う客に混じって列に並び、老婆はレジスターを叩きながら依頼を受けたのだそうだ。ちょっと引くほどお手軽だった。

 僕は、老婆が霊験あらたかなユタであると聞いていたから、てっきり歴史ある神社などで神格化されているような人物だと思っていた。まさか近所のさしみ店にてレジを打つ一介の老婆であったとは、どうして想像できようか。

 来島前の祀梨さんとの電話にて、お祓いの価格や予約状況を尋ねた際「ああ大丈夫だよ、言っとくから」と軽くかわされたときに察するべきだったか……。

 しかしすでに来島してしまった以上、祀梨さんを信じて進むしか道はない。

 時はすでにお昼過ぎ。サンサンと降り注ぐ太陽の光が、広がる畑に降り注がれている。


「さすがに暑いな……」


 クバ笠のツバをつまんで深くかぶった。民宿を出るとき、「南国の日差し舐めてたら死ぬよ?」と祀梨さんに無理やり持たされたものだ。

 天辺の尖った三角錐でツバが広く、かぶれば肩まで陰になる。しかしいくら田舎町であるとはいえ、少々時代錯誤な気恥ずかしさを覚えた。祀梨さんにそう言い抵抗すると、「みんなかぶってるよー?」と言うので承知したのに、カカシ以外誰一人としてかぶっている者はいない。信じた矢先にコレである。

 畑に囲まれたあぜ道を抜けて、赤瓦屋根の一軒家が並ぶ住宅街に出た。

 細い一本道の両端に、石の積まれた塀やハイビスカスの咲く生け垣が続く。

 この辺りは居住区であるため、観光客はほとんどいない。自転車を走らせる中学生や、ムームーのようなゆったりした服を着た老婆など、見るからに地元の人たちとすれ違う。僕はクバ笠をはずして、背中に背負うようなスタイルにした。

 南国の日差しは照り続けているが、白い砂利の敷き詰められた歩道は熱を逃がし、見た目にもいくらか涼しいように感じた。

 のどかな住宅街は、土曜日の午後を思わせる。小学校が半ドンで、給食も食べずに帰ることになった退屈な放課後を思い出した。東京では、どこかの家からピアノの音などが聞こえてきたものだが、ここ沖縄では、三線の音色が聞こえてくる。

 塀の上から枝葉を広げるブーゲンビレアが風にそよぎ、足元に落ちた梢の陰がサワサワと揺れていた。僕は祀梨さんに書いてもらった、稚拙な地図を見ながら歩いていく。

 砂利道はやがてアスファルトに変わった。児童公園を横目に見ながら進んだ先。ひとけのない車道の向こうに、〝さしみ〟と書かれたのぼりを発見する。

 ところどころ剥げた鉄筋コンクリートの、四角い作りをした建物だった。軒下には車一台停められそうな広いスペースがあって、その奥まった向こうに、冷房ケースを正面にしたカウンターを見つける。鮮魚店というより、精肉店のような印象である。

 冷房ケースの前には、この辺りでは浮いた雰囲気のあるスーツ姿の男が立っている。お客さんだろうか。この暑い中、きっちりとスーツを着こなしたビジネスマンも、さしみを買い求めるものなのか。不思議に思い、軒下のそばで男を観察する。

 ビジネスマンは冷房ケースの向こうにがわ――店の中にいる女の子と話している。

 細長い焼き菓子を――あれはなんだ? クレープの生地をクルクル細く巻いたようなお菓子をくわえながら、だるそうに男と会話している少女。眼鏡をかけ、三つ編みにした二つのおさげを耳の後ろで跳ねさせている。おや、あれは――。

 あれは昨夜、祭り会場で暴れ回っていた空の相棒ではないか――!

 僕は慌てて、すぐそばの塀へと身を隠した。あの娘、たしか名前を流威奈といった。

 なぜあの問題児が、ユタの弟子がいるべき神聖なレジカウンターを陣取っているのだ。

 流威奈はうろんげに目を細め、ビジネスマンに盛大なため息をついていた。


「――無理なものは無理なのよ。簡単に言ってくれるけどねえ、まだ弟子なんだよ? 二件も三件も同時に引き受けらんないって」


「……しかしシーズンなものですから……案件は次々入ってきておりまして。お弟子様には少しずつでも消費していただかないと――」


「その弟子はまさに今、〝縁切り〟に向けて準備中なの。――そうそう、女子大生のやつ。早けりゃ今夜にでもやるつもりだから、集中させてあげてほしいものだわっ」


 言って流威奈は、不思議な焼き菓子を乱暴にかみ切っていた。


「……縁切りを、今夜にでも……?」


 聞こえてくる会話をすべて理解できるわけではないが、あの眼鏡の子が〝ユタの弟子〟ではないらしい。まずはそこに安堵する。

 とはいえ受付カウンターを仕切っているように見える。ならばあの子との接触は避けられないのか――と黙考していると、背後から「あら、お客さん?」と声をかけられた。

 振り返ると、南国の日差しで黒髪を艶めかせ、島風にロングスカートを揺らす、背の高いお姉さんが立っていた。健康的に焼けた肌と、シュッとスマートな目鼻立ち。強い意志を感じさせる瞳で僕を見て、「ん?」と小首をかしげる。

 見とれて呆然とする僕に、お姉さんは沖縄のイントネーションでもう一度尋ねた。


「お客さんね?」


「……あ、はい」


「まっ。いらっしゃーい!」


 お姉さんはニカッと白い歯をのぞかせ、僕の背を押した。エキゾチックな香りのする、エキゾチック美人だった。


「流威奈ちゃん、店番ありがとう! ちんびん買って来たから食べてー!」


「またあ? 今無理して食べてるのにー! 凜(りん)姉(ねえ)いつも買いすぎなんだよっ」


「いーじゃん、ちんびんはいくら食べても飽きないものよ。田(た)中(なか)さんもハイ、お疲れ様」


 凜姉と呼ばれた女性は、ビニール袋から細長い焼き菓子のつまったプラスチック容器を取り出し、ビジネスマンへ差し出す。眼鏡でスーツのまじめそうな彼も、南国美人の前ではたじたじのご様子。恐縮しながら、焼き菓子を一つつまんだ。

 この方が〝ユタの弟子〟なのだろうか。さしみ店の奥へ入っていくお姉さんに声をかけそびれたところで、カウンターの流威奈に尋ねられる。


「お客さん? 何包もっか?」


「……ああっと。じゃあ――」


 適当に指差したさしみの詰め合わせを、流威奈は慣れた手つきで新聞紙に包んでいく。

「あいよっ、五〇〇円」と渡されたビニール袋を受け取り、僕は代価を払った。

 流威奈は僕に気づいてはいないようだ。まあ、足場にされただけなのだから、そんな男の顔など覚えてやいないのが普通か。


「あとこれも。ちんびん、サービス」


 言って流威奈は、冷房ケースの上に置かれたプラスチック容器から、ちんびんを一本、袋に入れて僕に差し出した。受け取った僕に声をひそめる。


「……凜姉が際限なく買って来ちゃうのよ。あの人ちんびん中毒者ジャンキーだから。生ものだから早く食べないといけないんだけど、キリがないの。お客さんも食べるの手伝ってね?」


「はあ……」


「あざーしたあ!」


 呪いの相談をする間もなく、あれよあれよと送り出され、僕は軒下を後にした。


 これではただ、さしみを買いに来ただけである。

 マグロのぶつ切りがたっぷりに、タコの足やエビが二尾。これで五〇〇円は安い上に、ちんびんなる謎の焼き菓子もいただいてしまったが、僕は食えない。それを相談しに来たというのに。

 なんとかもう一度あの美しい人に会えないものかと、さしみ店の周りをうろちょろとしていたところ、思わぬ人物に出くわした。


「泥男……? 何しているんだ」


 頭の天辺から、全身を泥まみれのミノで覆った男。そいつが今、塀の上に立っている。さしみ店と一つ屋根の下で繋がった隣の民家の塀である。

 男はまるで猫のように四つん這いとなり、息を殺して塀の上を移動していた。こちらには尻を向け、僕には気づいていない様子。驚いたのは、その手に細長い棒を持っていたことだ。男の身長をも超える棒は先端が尖っており、槍のようにも見える。森の住民の武器としては似合っているが、住宅街でそんなものを持っている姿は、明らかに異様だ。

 狩りでもしているのだろうか……? 怪訝に様子を観察していると、泥男は家の敷地内へ飛び降り姿を消した。僕はハッとして塀の方へ近づいた。

 塀にはかぎ爪を引っ掛けるだけの小さな門扉があり、のぞいてみると石畳が玄関へと続いている。玄関のそばには庭があった。庭に面した縁側は、開けっぱなしにされている。

 日差しが暑く風の強い沖縄では、風の通り道を作るため、戸や窓を開けっぱなしにする習慣があるのだとか。空き巣という概念はないのか。悪党はどこにでもいるだろうに。


「おや……」


 縁側の陽だまりに眠っている少女がいる。うつ伏せの状態で片腕を枕にし、すうすうと寝息を立てている。読書の最中だったのか、腕の下には開かれた本が敷かれていた。

 呼吸に合わせ、少女のたおやかな背中が上下する。肩から垂れる栗色のツインテールは、陽の光に照らされ輝いていた。

 平和をテーマにして描いた絵のような景観に、ぬぅっと姿を現したのは例の泥男である。

 ほら見ろ、言わんこっちゃない! この島の人間は防犯意識は低すぎる。縁側で昼寝などしている場合ではない。悪党がすぐそこに迫っているというのに。

 あの槍が本物だとすれば銃刀法違反であるだろうし、縁側を歩いているのだから明かな不法侵入である。少女に近づき何をするつもりなのかと思えば……槍の先端についた液体を二本指ですくい取り、少女の頬に塗りはじめた。


「お、おい……何をして……」


「ううん……」とうなされる少女の頬に、男はペタペタと黒い液体を塗り続ける。少女の頬を汚し続ける。なんだ、何を塗っている? 毒か? 毒なのか? 仮面をつけたままの顔を少女の鼻先に近づけ、すんすんと嗅ぐような仕草を見せる男。

 もう我慢ができない、というふうに天井を仰いで、嬉しそうに鳴いた。

『キャヒッ!』

 もう我慢ができないのはこっちだ。見ていられない。僕は門を開き、声を荒らげる。


「おいおまえっ、見てるぞ! その子から離れろっ!」


 ハッとこちらを見た泥男は、縁側をジャンプして逃げていった。怒鳴られた猫のような素早さだった。僕は庭へ侵入し、毒にまみれた少女を抱き起こす。


「君っ、大丈夫か。今、変態が君に毒を――」


 と、僕は腕の中で目を覚ました少女を知っていることに気づく。

 その頬はおしろいではなく、毒に汚されてしまってはいたが――。


「あれえ……? ゲロんちゅ……?」


 体操着を着たツインテールの女の子は、昨夜遭遇した天狗――空だった。

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