1-3

 神社を後にしてすぐ、叔母は車で迎えに来てくれた。


「うひゃあ春くん、ずいぶんと大きくなって!」


 叔母は僕を見つけると大袈裟に感嘆の声を上げ、ハグをした。島を訪れる前に何度か電話で話してはいたが、こうして直接顔を合わせるのは、僕が小学生のころ以来だ。叔母は女性としては高身長であるが、今や僕もそんな叔母と並ぶほどに成長していた。

 しかし僕は叔母に対して、懐かしいといった印象は持たない。右肩に流した長い髪に、腕まくりしたデニムジャケット。彼女はスタイルがいいから、どんな服をも着こなしてしまう。和服も洋服も、どこかの民族衣装や軍服でさえ。

 この人は歳を取らない。久しぶりに会った印象は、毎年届く絵はがきと同じだ。

「叔母さんも元気そうで」と言った僕に、叔母は叔母と呼ぶことを禁じ、名前で呼ぶことを強制した。「君は私を呼ぶたびに傷つけるつもり?」とか何とか言って。

 叔母さんは――まつさんは昔から破天荒なところがあった。

 政治色の強い家系である三鷹家から、明らかに異端あつかいされていた。ほとんど実家に帰ることはなく、年末年始でさえ顔を見せない祀梨さんのことは、親戚内でさえ話題に出すのをはばかっているように感じられた。

 祀梨さんは親族の誰よりも、血の繋がっていない僕の母と仲が良かった。毎年母に届く手紙で、祀梨さんの安否と居場所が知れた。手紙には必ず写真が同封されており、それはどれも祀梨さんがセンターに立って笑顔を見せているものだった。あるときはミャンマーで民族衣装に身を包んでいたり、またあるときはアラスカのオーロラを背景にしていたり。

 密林を背に厳つい銃器を抱いた写真を見た母は顔面蒼白になって卒倒したが、それからも手紙は滞りなく届き、叔母の無事を知らせ続けた。

 そうやって世界中を跳び回っていた祀梨さんだったが、写真の背景が、この島で統一されるようになったのは四年前からだ。

 祀梨さんは四年前から、ここ白結木島で民宿を営み始めたのだった。


「最悪でした」


 叔母から祭りの感想を尋ねられ、僕は即答した


「なになに? なんか嫌なことでもあった?」


 僕が不機嫌に応えたからか、祀梨さんは車のハンドルを握りながら、後部座席に座る僕へバックミラー越しに視線をくれる。もちろん僕を心配して、ではなく、面白いことを探しての質問だろう。いたずらに笑われるのも気分が悪いので、僕は質問に質問で返した。


「あの……〝ひんぎれぇ〟ってどういう意味ですか?」


「ヒンギレ? 〝逃げれー〟って意味よ。〝逃げる〟の、つまり、ヒンギルの命令形ね」


「命令形とかあるんだ……」


 言葉なのだから当然、活用形があるには違いないか。


「ちなみに、〝逃げるな〟はヒンギンケ。〝逃がすな〟はヒンギラサンケ」


 逃がすな、がどうすればそうなるのか。一文字さえ合っていないではないか。

 苦虫をかみ潰したような顔を見られてしまい、祀梨さんは笑い出した。


「もしかして。それ言われてたのって、空ちゃんと流威奈ちゃん?」


 空――。まさにあの天狗が名乗った名がそうであった。


「知ってるんですか? あの子」


「空ちゃんが〝結い節〟を舞うってのは聞いてたけど。あのやんちゃな子が、言われるがまま大人しく踊ってるわけないものねえ」


「散々舞台で暴れ回って、めちゃくちゃにして逃げて行きましたよ」


「ふはは。でも、楽しかったでしょ? 観たかったなあ、私も」


「楽しくなんか……」


 僕はあえて話題に乗らず、シートに背を持たれて息をついた。クーラーの効いた車内は心地よく、エンジン音と車の揺れが眠気を誘う。今日はとても疲れた。

 僕たちを乗せた車は、二車線の一本道を山に沿って走っていた。

 高速船乗り場から離れていくにつれて、車道を照らす外灯は少なくなっていく。

 祀梨さんが言うには、ビーチのある島の反対側は、もっと栄えているらしい。一方で、祀梨さんの民宿がある赤瓦(アカガーラ)区は住民が多く住んでいるため、夜はとても静かなのだと。


「そんなとこにある民宿なんて、お客さん入ってくるんですか?」


「車があればリゾート区も近いしね。穴場だって結構有名なんだよ? うち」


 それに、と祀梨さんは続けた。


「儲けるつもりならこの島にはいないよ」


 確かに。祀梨さんは日和見主義ではない。一度目的やゴールを決めてしまえば、生活のすべてを全振りしてでもガンガン行くタイプだ。度胸も度量も持ち合わせているのだから、稼ごうと思えば稼げる人。けれどそうしないのは、全振りする対象が仕事や金や世界の国々から別のものに変わったからに違いない。

 それが、今も助手席からチラチラと顔をのぞかせ、僕を観察しているあの幼女。あれこそ放浪癖のある祀梨さんが、四年前から島に定住している理由であろう。


「……たべう?」


 幼女は助手席から僕の方へ手を伸ばし、食べかけのビスケットを差し出してくる。なんと健気であどけない仕草だろう。僕を見るつぶらな瞳には、まったくもって警戒心がない。さげすみや侮蔑や軽視するようなところもない。ああ。こんなみにくい僕にも、その大切なビスケットをくれるというのか。本来ならば彼女の無垢な期待に応えるべく、食べかけであろうが何だろうが、そのビスケットをかみ砕いてやりたいところだが、悲しいかな僕は今、呪われているのだ。


「えと、気持ちは嬉しいのですが……僕は……」


 申し訳なさいっぱいに断ると、幼女は「ひんっ」と下唇をかんで顔をしかめ、眉間にしわを寄せて鼻の穴を膨らませた。


「なっ、なんだどうした、こわっ……」


 一体彼女の身に何が起きたのか。天使の化身であるかのようだった可愛らしい幼女が、一瞬にして、くさやを鼻先に突きつけられたおっさんに変貌してしまった。


「ほら、泣かないの、えみ。ビスケットはへびさんにちょーだい」


 祀梨さんになだめられ、機嫌を直した笑さんは無事いたいけな幼女へと戻り、祀梨さんへとビスケットを差し出す。


「ひどいお兄ちゃんだねえ。笑なりの歓迎なのにねえ」


「……いや、だって電話で話したじゃないですか。僕は……」


「食べるふりだけでもいいのよ、こういうのは」



 祀梨さんはハンドルから離した片手をへびのようにパクパク動かして、笑さんからビスケットを受け取った。「あむあむ」とビスケットを食べるへびさんに「おいしぃ?」と尋ねる笑さん。へびさんは「おいしい!」と声を跳ねさせ、笑さんの頬をスリスリした。

 きゃっきゃっと笑さんはくすぐったそうに笑う。


「春くん、ビスケットもダメなんだね?」


「……話した通りです。少しでもそれ以外のものを食べると、吐いちゃいますから」


 僕はこの呪いについて、祀梨さんに話している。

 約三週間前。夏休みに入ると同時に食べたものを吐くようになった僕は、始めこの症状を失恋による一時的な精神疾患であろうと考えていた。しかしいなり寿司に対する異様な食欲に気づいて、この身に起きている現象が、病気ではないと気づいた。

 これは呪いだ。ある神様に取り憑かれている。僕には思い当たる節がありすぎた。

 だから貯金を崩して、お祓いにも行った。厄除けを謳っている祈祷師に事情を話し、ハタキのようなもので頭を払ってもらった。しかし状況は改善されなかった。やたらゲップを繰り返す自称シャーマンにも相談してみた。説教されただけだった。

 都内の神社を手当たり次第巡ってみても、ヤフー知恵袋やオカルトの掲示版で相談してみても、結果は伴わず、僕はいなり寿司以外を吐き続けた。

 そんな中、祀梨さんの手紙を思い出したのだ。

 世界中を旅した彼女なら、この珍妙な呪いを解く方法も知っているかもしれない。そうしてワラをもつかむ思いで祀梨さんと連絡を取ったのだ。

 僕の話を聞いた祀梨さんは、白結木島のユタの話をしてくれた。

 沖縄諸島には、未だ神々への信仰が根付いている島が多数存在する。沖縄の神は本州や世界の神々と違って、人々の生活のあちらこちらに見られる。偉ぶって上から見下ろすのではなく、人々のすぐそばに隠れている。そういう文化なのだそうだ。

 だから神々と話をするための、ユタと呼ばれる霊媒師が必要なのだとか。中でも白結木島のユタは力が強く、繋がってしまった悪い神様との縁を切ることができるという。

 まさに僕が望んでいた力ではないか。


「祀梨さんには感謝しています。その……母に呪いのこと黙っててくれたことも。心配はかけたくないんで。祀梨さんの言う〝ユタ〟ってのが本物なら、ビスケットだって食べられるようになるはずです」


「うーん……本物ではあるんだけどねえ。実はちょっと困ったことになっていまして」


「え? 困ったこと……?」


「ユタのオバーちゃん、ちょっと前から夏風邪をこじらせて入院しちゃってるらしいの。お祓いは治るまでお預けになっちゃうんじゃないかなあ」


「そんなっ!? それじゃ来た意味ないじゃないですかっ」


 僕は思わず身を乗り出し、運転席と助手席の間に顔を出した。


「だったら、教えてくれればいいのに」


「だって、教えたら来てくれなかったでしょう」


「当たり前じゃないですか。その人に会いに来たんだから」


「それ寂しいじゃない? 私も春くんの顔見たかったし」


「バカンスしてる暇はありませんよ。僕、受験生なんですよ」


「まあ七泊八日もいれば、会うチャンスはいくらでもあるよ。のんびりしていきなさい。勉強と同じくらい、旅は学ぶことも多いんだよ? ネットじゃわかんないことだらけでしょ。海から吹き込む風の気持ちよさだとか、地方の祭りの熱気だとか――」


「それらがセンター試験に出るんなら、がむしゃらに体験しますけどね」


 観念してシートに背を持たれた僕を一瞥し、祀梨さんは苦笑いを浮かべる。


「がむしゃらに頑張るのもいいけどさ。たまにはのんびり時間を消費してごらんよ。そうすればさ、きっと忘れられるわ。失恋の痛みも」


「……」


 祀梨さんは叔母なりに、甥の負った心の傷を心配してくれているのかもしれなかった。僕のために、療養する時間と場所を用意したつもりなのかもしれない。たしかに電話口で相談した際、感情的になって多少涙ぐんだところもあったが……余計なお世話である。

 僕は窓ガラスに頭を持たれた。

 ぽつんと浮かんだ白い月が、音もなく夜空を溶かしている。窓の外には見渡す限りの水平線が広がっていて、揺らめく水面がキラキラと煌めいていた。

 クーラーを効かせた車は窓を閉めているため、波の音は聞こえない。

 今朝は新宿駅の雑踏の中にいたのに、ほんの半日前が昔のことのように遠い。ここはまるで別世界のようだ。東京から見上げた月だって、同じ月に違いないはずなのに。

 ……はて、東京の月とはいったい、どんなふうだったか。

 ぼんやりと記憶を探るうち、僕はいつの間にか、眠ってしまった。


   ×   ×   ×


 ザザーン、ザザーン……。

 意識がうつらうつらと船を漕ぐ布団の中で、寄せては返す波の音を聞いた。

 チリン、とどこかで風鈴が鳴る。ひるがえるカーテンの音が聞こえる。


「あ……つい……。あつぅい……」


 暑い。熱い……! 勢いよく体を起こす。暑いはずである。民宿の部屋で寝ていた僕の体の上には、かけ布団やタオルケットが何枚もかぶせられていた。


「……え? え?」


 僕が体を起こしたことに驚いて、幼女がトタトタ畳の上を逃げていく。襖の向こうに身を隠し、廊下から顔をだけをのぞかせる彼女の手には、ブランケットが握られている。

 笑さん。あなたでしたか。

 額にタオルが乗せられていたことから察するに、うなされる僕を看病してくれていたのかもしれない。なるほど笑さんは、白衣の天使も兼任されていたのですね。でもたぶん僕がうなされていたのは、あなたのかけてくれた布団のせいだ。優しさで蒸し殺す気か。

 不安げにこちらをうかがう幼女に言いたいことは山ほどあったが、そのすべてを飲み込んで、僕は苦手ながらも笑顔を作った。


「あ……ありが」


「ひんっ!!」


 不器用な天使は瞬時にしておっさんへと変貌し、廊下をトタトタと逃げていった。


「……なんで?」


 幼女の気持ちはよくわからぬ。

 民宿は海に近いため、開けっぱなしの窓からは波の音がよく聞こえる。

 網戸越しに見上げた晴天を背景に、チリン、と再び風鈴が揺れた。

 汗ばむ額を夏風に撫でられて、僕は大きなあくびをした。

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