第6話 鶯姫

「はあ……」


 ため息を吐いて、僕は机に突っ伏した。

今までに感じた事の無い疲労感と絶望感に包まれている。


 あの後、他の先生も駆け付けて結局騒ぎになった。

年長組であるスミレ組の担任の木崎先生は、ここぞとばかりに僕を糾弾した。

木崎先生とはあまり仲が良くない。

と言うより、一方的に敵視されている。


 木崎先生は僕より一つ歳上だ。

ハンサムで大金持ちで自信家で、誰からも人気がある。

園長でさえ自分のお気に入りと公言してはばからない。


 そんな人が何故か僕だけには当たりが厳しい。

単なる憂さ晴らしなのか、それともこれが噂の『大人のいじめ』なのか。

とにかく、みんなに優しい木崎先生は僕にだけは辛辣だ。


 そんなリア充の木崎先生がどうして保父なんてしているのかと言えば、曰く『サラリーマンは性に合わないんです。出世に興味が無くて。それに子供が好きなんです』だそうだ。


 生まれた時から将来安泰なら、例えホームレスでも趣味でやれると言う良い見本かも知れない。


 え?僕の言葉に刺がある?

いやいや気のせいです。


 こんな職場の中にあって、僕の唯一の癒しが遥先生だったのだ。

過去形なのは今日全てが台無しになってしまったからに他ならない。


 笑顔が素敵で、分け隔てなく優しくて、可愛くて、がんばり屋で、ちょっと天然で。

はっきり言って付き合いたい。

しかし、そんな事は言える筈も無い。


 何の取り柄も無い僕の様な凡人のストーリーには、キャスティングされる事さえ勿体ない女性だ。

人生の中でニアミスしただけでもラッキーである。

それをおかずにご飯三杯は食べられる。


 その遥先生に僕はとんでもないシーンを見られ、しかもとんでもない事を言ってしまった。

それにより遥先生は白目を剥いて気を失い、騒ぎを聞き付けて現れた木崎先生には叱責され、事情を木崎先生から聞いた園長は更に僕を叱責した。


 木崎先生は僕のクラスの園児達の様子を見て、小さな子供に一体何をさせているのかと激しく僕を糾弾した。

流石に状況が状況なだけに、他の先生方からも助け船は一切出なかった。


 仕方がない。

それは僕自身も解っている。

一体自分が何をしでかしたのか。

自分でさえ、あれが不適切であったと言う理解はちゃんとある。

ただ、何故あんな事になったのかは未だに解らない。


 幻聴に口を乗っ取られたなんて、説明できる筈もない。

明日になれば園児から話を聞いた親御さん達が怒鳴り込んで来る可能性もある。

いよいよ辞表でも提出するしか無い。


「はあ……」


 僕はまたため息を吐いた。

これで遥先生ともお別れか……そう思うと一層悲しくなった。


『半平、気をしっかり』


 鶯姫の声がした。


「無茶言わないでよ……僕のささやかな人生の中で、ささやかな癒しだったのに」


『なぁに言ってやがる。まだなんにも始まって無かったじゃねえか、これから始まるんだよ。喜べ、ホレ』


 ゲンノウが無責任に言い放つ。

全ての元凶はお前だろ。

と言っても、この幻聴は僕が生み出したのだから結局は僕のせいだと言う事になる。


「勝手な事を言いやがって、何で僕の口を操ったんだ」

『ああん?てめえがニブチンだから教えてやったんじゃねえか。感謝されこそすれ文句を言われる筋合いはねえぞ』

「何だって?」

『当分世話になるから礼の代わりに俺がやってやったんだって言ってんだよ。大体ガキを下に見てるからトンチンカンな事を言うんだお前は。ったく、これだから人間はよお』


 ゲンノウは悪びれるどころか僕を説教し始めた。


「な……何だとお。子供におかしな事を吹き込んだのは君じゃないか!」

『何がおかしな事だ、本当の事じゃねえか。童貞の癖にこの俺様に意見しようなんざ10年早えぞ』


 くっ……

如何に幻聴とは言え、本当の事を言われると心を抉られる。


『あの健斗ってガキはなあ、あの牝のガキを好いてんだよ。お前知らなかったろ?なあにが保父だよ。トンチンカンなアドバイスしやがって』

「だ、だからって子供にあんな破廉恥で下品な……」


 僕は必死で言い返した。


「ぷっ、ぶははははははっ!破廉恥だと!?だからてめえはいつまで経っても童貞なんだよ!牝を奪うのに破廉恥も糞もあるかよ。てめえの物にする気が無えならさっさと他の奴に譲ってやれってんだ。同じ牝を狙ってる奴だっているだろうによ。バーカ」


 僕は頭を殴られた様な衝撃を受けた。

確かにそうかも知れない。


『大体よぉ、破廉恥だって言うが人間なんざそもそもがそんな上等な生き物でもねえじゃねえか。綺麗事を言ってビビってる自分を正当化してるだけだろ。てめえだって母ちゃんが父ちゃんと破廉恥な事をしたから股の間から産まれて来たんじゃねえかよ。それとも何か?てめえは畑から獲れたとでも思ってんのか?』


 ゲンノウは剥き出しの正論を並べ立てた。

僕は何も言い返せない。


「う、うるさいっ!はあ……もう良いよ。どうせ明日になれば僕はここに居られないんだ。帰って辞表でも書こう……」


 ようやく僕は椅子から力無く立ち上がった。

カバンを肩に掛ける。

そしてとぼとぼと帰途についた。



 翌日。

全く眠れなかった僕は、重い足取りで保育園へと向かった。

辞表をカバンに忍ばせ、明日からどうするか考えながら歩いた。


 いつもの通り鶯神社に立ち寄った。

ただの習慣とは言え、無意識に寄ったらしい。

気が付けば神社の階段を下りている途中だった。


 園へ着くと他の先生方がよそよそしかった。

そりゃそうだろう。

今から保護者達が乗り込んで来るかも知れないのだ。

僕のせいで関係の無い先生方も頭を下げなければならない。


 僕はその責を取って辞職するのだ。

その覚悟はもう出来ている。


「山田先生、ちょっと……」


 園長が僕を呼んだ。いよいよか。

僕は自分でも意外な程さっと立ち上がると、園長の後に続いた。


 応接室には七人の女性が座っていた。

おそらく母親達だろう。

一様にこちらをキッと睨み付けてくる。


 閻魔様の前に出された罪人の気分である。

今から文字通り地獄が始まるのだ。


「……山田先生。今日は何故私達が御伺いしたのか、お分かりですわね?」


 真ん中に座った如何にも教育ママ風の女性が口火を切った。

小さな園児のママ達である。

母親と言っても全員がそれなりに若い。

僕は若い母親達のオーラに呑まれて萎縮する。


「男である保父は心配でしたが、教育熱心な園長先生を信じて預けて居たのに……やっぱり保父なんて信用出来ませんわね」


 幼児に対する保父の性犯罪は特に社会の目が厳しい。

殊更吊し上げを食らうのは当然と言えば当然だった。


『……ったく、何だこのババア共は』


 頭の中でゲンノウの苛立った声がした。


 ……マズイ。


 今コイツがまたしゃしゃり出てきたら、もう辞表を出すだけじゃ済まない。

警察沙汰か、そのまま書類送検か。

ニュースになんてなったら、僕の人生は終わってしまう。


『お待ちなさい』


 鶯姫の声がする。


『これ以上、半平を困らせてはなりません。元はと言えば、貴方が余計な事をしたからこんな事になったのですよ』

『何が余計な事だ!俺は礼代わりにコイツを……』

『どんなつもりでも、半平が困っているのなら意味がありません』


 鶯姫がピシャリとゲンノウの言葉を断ち切った。

流石は神様、流石は鶯姫様。

でも出来れば昨日その場で止めて欲しかった。


『ここは私に委せなさい』


 鶯姫はそう言うと、今度は彼女が僕の口を乗っ取った。


「皆さんのお怒りはもっともです」


 僕の口はまたしても勝手に喋り始めた。

何度目かの体験なのに、やっぱり僕は目を白黒させている。

緊張と心配で心臓がドキドキしている。


「ですが、僕は何も悪戯のつもりであんな事をした訳ではありません」

『じゃあ一体どう言うおつもりで小さな子供にいかがわしい真似をさせたんです?山田先生の幼児に対するいかがわしい欲求がそうさせたんじゃないんですか!』


 厳しい口調で母親らは僕を追及する。

初めから保父に対する偏見があった事は間違いないが言葉に遠慮が無い。キツイ言葉で僕を攻撃する。


 園長は僕の隣で頭を下げて何度も謝罪していた。


 そこへ。


「皆さん、お待ち下さい」


 ドアを開けて聞きなれた声と共に誰かが入って来た。

木崎先生だ。


 一体何故木崎先生が?

と言うよりも、何をしに現れたのか。

まさか僕を弁護しようなどと考えている訳ではあるまい。


 相変わらず僕は当事者なのにも拘わらず、一人目を白黒させていた。


「木崎先生、今は……」


 園長が困惑気味に木崎先生を見る。

そりゃあそうだろう。

如何に園長のお気に入りの木崎先生と言えども、今はそんな場では無い。

だが木崎先生はいつもの様に堂々と、自信たっぷりに部屋へと入って来た。


 流石はリア充。流石はボンボン。

場の主役を張るのが当然とばかりに、少しも物怖じせずに母親達に話し始めた。


「皆さん。皆さんのお怒りは当然です。斯く言う私も昨日現場を目の当たりにした一人です」


 母親達がざわめく。

木崎先生は一体何を言い出すつもりなのか。

鶯姫も静かに木崎先生の言葉を聞いている。


「あれは確かに見逃せる様な状況ではありませんでした。その上彼は同僚である河合遥先生にまで言い寄っていたのですから、同じ保父として僕も責任を感じています」


 木崎先生はそう言うと少しうつむいて見せた。

どうも僕を擁護しに来た訳ではなさそうだ。

この機会に僕に止めを刺そうって魂胆か。


 そんな事をしなくてもこの状況では事態が好転しそうな材料は皆無だし、僕はどのみち辞職するつもりだったのだから意味の無い行動だと言える。


「何も木崎先生が責任を感じる必要はありませんわ。ねえ?」


 母親達はお互いに顔を見合った。

互いによそよそしい感じで、『ええ、そうですわ』なんて言っている。


 流石は王子様。木崎先生の爽やかイケメンパワーは、母親達にも『こうかはばつぐんだ!』


「園長や保育園側には落ち度は全くありません。常に園児達に対しては細心の注意を払い最善の対応を取って参りました。特に園長の献身的な対応は、業務の枠を越えていたと言ってもけっして過言ではありません。それは私から見ても確かな事実であり、園長は私の目標とするお人なのです」

「木崎先生……」


 園長は短く呟くと眼鏡を外して軽く涙を拭った。

なるほど、そう言う事か。

全ての批判を僕に集中させて、その他の被害を最小限にしようと言う訳だ。

自分の株も上がるし、一石二鳥である。


「これは明らかに山田先生に問題があります。しかし、それを防げなかった同じ保父の私の責任でもあります。皆さん、誠に申し訳ありませんでした」


 木崎先生はそう言って深々と頭を下げた。

言いたい事は色々あるがそれらを全て横に置いておいて、大した役者だと素直に感心する。

僕も彼の十分の一でもこのくらい世渡りが上手ければ、もう少し楽しい人生があったのかも知れない。


「頭を上げて下さい木崎先生。先生は何も悪くありません。悪いのはこの性犯罪者予備軍の山田先生です!」


 仕方がないとは言え、滅茶苦茶な言われようである。

まだ何かやらかした訳でも無いし、僕信自身まだ女性経験も無いと言うのに性犯罪者呼ばわりとは。


 あ、一応『予備軍』と付いているのはその為か。


 などと感心している場合では無い。

状況は何ら変わっていないのだ。むしろ悪くなっている。


『……嫌な男ですね』


 鶯姫の声が頭の中に響く。


『ケケケケケケ。人間なんて元々こう言う生き物だったろ、どうする。ぶちのめすのか?』


 今度はゲンノウが言った。物騒だから止めてくれ。


『こう言う事はあまりしたく無いのですが、仕方がありません』


 鶯姫はそう言うと少し沈黙した。

しばらくすると、辺りに何か花の様な薄い香りが立ち込めた。

一体何の匂いだろう。

僕は静かにくんくんと鼻を鳴らした。


『さあ、半平。貴方も何か言いなさい』


 鶯姫が僕に発言を促した。

突然そんな事を言われても焦るばかりである。

僕は全く芸も無く、ただただ頭を下げて謝罪した。

木崎先生とはえらい違いである。


「この度は、ご迷惑をお掛けして誠に申し訳ありませんでした」


 我ながら謝り慣れたものである。

僕の人生はいつも謝ってばかりだ。

役にたっているかどうかは解らないが。


「……いえ、別にそこまでは……ねえ?」


 予想に反した言葉が返ってきた。

僕は驚いて顔を上げる。

見ると、さっきまで鬼の様な形相で僕を睨んでいた母親達が互いに言葉を譲り合っていた。


 なんだ、この妙な空気は。

僕は面食らう。だが、話が続かないでは無言の空気には堪えられない。

僕はとにかく繰り返し謝罪した。


「本当に、本当に申し訳ありませんでした。これで責任がとれるなんて思いませんが、けじめとして辞職願いを持って参りました。園長先生、どうかこれを受け取って下さい」


 僕はそう言って用意していた辞表を園長に手渡した。


 これで良い。

元々こうするつもりだったのだし、何故かこれでスッキリした気持ちでもある。

問題は山積だが、取り合えずこの針の筵からは解放されるのだ。


「な、何もお辞めにならなくったって……ねえ?」


 え?

僕は我が耳を疑った。


「ま、まあ、山田先生も反省なさっているようですし、まだお若いですものね。これから立派な保父さんになられれば……」


 保父さん?

さっきま保父と呼び捨てにして嫌悪の対象だったじゃないか。


 何かちょっと気味が悪い。

と、突然園長が僕の手を取ってきた。


「山田先生、今お辞めになられては困ります。間違いは誰にでもあるもの。心を入れ替えてまた新たに頑張りましょう」


 そう言うと園長は僕の辞表をビリビリと破り捨てた。


 えーっ!?

意を決して徹夜で書いたのに。僕は本当に驚いていた。

一体何がどうなっているのか、さっぱり訳が解らない。


「流石は園長先生!英断ですわ!」


 パチパチパチパチパチパチ


 母親達が園長に拍手を送る。

この中でただ一人、僕だけが狐につままれた様にポカーンとしていた。


 いや、もう一人居た。

木崎先生だ。

僕に負けず劣らず目を見開いている。


「あ、あの……皆さん、山田先生は辞職されると申しております。これで是非怒りを収めて……」


 状況が飲み込めていないのだろう。

それは僕も同じだが、僕を辞めさせる事だけは実現させたいに違いない。

木崎先生は気持ちが態度に出過ぎていた。


「木崎先生、もう宜しいのですわ。私達少しばかり感情的になり過ぎていたようです。良く考えてみれば、山田先生の様な素敵な保父さんが、そんないかがわしい真似をされる筈がありませんもの」


 母親達はチラチラと上目使いで僕の方を覗き見た。

気のせいか顔が上気している様に見える。

僕と目が合うと、母親達は恥ずかしそうに目を逸らし俯いた。


 一体何なんだ。

木崎先生も口をポカーンと開いている。

こんな間抜けな木崎先生は僕も初めて見る。


「では私達はこれで」


 母親達はそう言って立ち上がると僕の横を通り過ぎながら手を握ってきた。


「山田先生、これからも子供達を宜しくお願いしますわね」

「は、はあ……」


 訳も解らないまま、僕は間の抜けた返事を返すのが精一杯だった。


 そして後には間の抜けた顔をした僕と、これまた間の抜けた顔をした木崎先生だけが応接室に取り残された。

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