第5話 違う!これは僕じゃない!

 翌朝。

僕は普段と同じ様に目を覚ました。

そしていつも通りに仕事へ行く準備をする。

何だか頭がボーッとする。

そんなに飲んだつもりは無いのだが。


 いつものジーンズを手に取ってしばし考えてみる。


「あれ?そう言えば昨日の服は……全部ボロボロだった筈……」


 しかし、いつもの場所にいつものジーンズは有った。

あんなに破れていたと思ったのに、穴など全く見当たらない。

シャツも洗濯カゴに入っているが、同じく特に変わった様子は無かった。


「むう……頭をぶつけたせいなのか……?記憶が混乱してるのかも。まあ、あれだけの事故で無傷だっただけでも見っけものか」


 僕はパニック状態だったのだろう、当然だ。色々記憶と一致しない事もあるが無理も無い。


 そんなこんなでいつもと同じ時間にいつもと同じ様に家を出る。

昨日あんな事があったのにまるで嘘の様だ。

多少頭がボーッとするが、それ以外はすこぶる調子が良い。


 いつもの通り、鶯神社に向かう。

行きと帰りは大体寄ってる僕の日課だ。

いつもの如く手を合わせると、それから駆け足で保育園へと向かった。

園児達よりも早く登園して迎えなければならない。


 それから20分後。


「はんぺんせんせえー!おはよーございます!」


 園児達の元気な声が聞こえる。

僕は保育園の門を入った所で園児達を迎える。

当番制だが人手不足の為、僕がほぼ毎日立っていた。

個人的にも別に嫌では無いので他の先生達の代わりも良く引き受けている。


 それがほぼ習慣化してしまったのは誤算だったが。


「はーい、おはようございます」


 僕は笑顔で園児に挨拶を返す。

多分、僕はこの仕事に向いている。

辛いと思った事は一度も無い。


「おはようございます。山田先生」


 聞き慣れた声に思わず振り向く。


「あ、遥先生」


 さくら組の担任である遥先生が立っている。

毎日見ているにも拘わらず、今日もピンク色のエプロンが似合っている。見飽きない。

お腹には大きなポケットがあって、そこに黄色のヒヨコさんがプリントされている。

はっきり言って可愛い。


「山田先生、聞きましたか?」

「何です?」


 遥先生が眉をひそめて言う。


「昨日の夕方、鶯神社の先のコンビニがある信号でトラックの人身事故があったんですって」


 それは……。


「山田先生帰り道でしょう?丁度帰宅時間だったみたいだから、私心配しちゃって……」


 遥先生はそう言うと胸を撫で下ろす仕種をした。

僕の心配をしてくれたのか。

はっきり言って可愛い。付き合いたい。


 ……しかし、もう噂になっているのか。

警察やらに色々聞かれるのは面倒臭い。

何が何でも知らぬ存ぜぬで通さなければ。


「へ、へえ、そうなんですか。恐いですね」


 僕は作り笑顔でしらばっくれる。


「あ、もうそろそろ時間ですね。じゃあまた後で」


 遥先生は腕時計を見ると、大変大変と良いながらパタパタと小走りに走り去って行く。

はっきり言って可愛い。

だがそれは置いておくとして、僕もそろそろ教室に向かわなければ。


 今日のもも組はお絵描きの予定だ。

もも組と言うのは僕のクラスの事である。

父の日が近いのでお父さんに絵を描こう!と言う事になっている。


「みんな、お父さんにプレゼントするんだからねー。上手に描いて一緒にありがとうって伝えるんだよ」


 そう言って僕は園児達の周りを歩きながらそれぞれの様子を覗きこんだ。


 その時。


「えーん!」


 園児の泣き声が聞こえた。

見ると女児が両目に手をやって盛大に泣いている。絵に描いた様な子供の泣き方だ。


「ちょ、どうした?何があったの?」


 僕は慌てて女児の側へと割り込んだ。

みんな手を止めてこちらを注目している。

保育園では良くある光景だが、子供達は誰かが泣くのに敏感だ。

時には隣の教室から覗きに来る子だっている。


「あのねえ、健斗くんがねえ、心美ちゃんの絵をねえ、宇宙人みたいだって言っていじめたの」


 隣の席のポニーテールの女児が教えてくれた。

この子はきっと大きくなったら、ご近所の噂に詳しい奥様になりそうだ。


「健斗、そうなのかい?」


 僕は健斗の顔を覗きこむ。


「だって変なんだもん。髪の毛青いし、目は緑だし、ズボンだって穿いてないし、宇宙人だよ」


 健斗が心美ちゃんの描いたお父さん絵を指差す。

見てみると確かに健斗の言う通りの姿がそこにはあった。


 まあ、子供にとっては良くある事でもある。絵の上手い下手意外にも独自の解釈や表現と言う物がある。

子供は特に『普通はこう表現する』と言う決まり事には囚われない。

自由な発想こそが子供の持ち味でもある。


 お母さんの絵が怪獣みたい何てのは珍しくも無いし、単に大人の意見に過ぎないのだ。


「健斗、そう言う意地悪を言っては駄目だぞ」

「意地悪じゃないよ、だって本当の事だもん」


 それはそうなんだが……参った。

子供の正論は残酷だ。

思いやりや常識などと言うフィルターは通用しない。

どう説明したものか。


「……おい、お前この女が好きなんだろ?」


 突然あの声がした。

そう、僕の幻聴であり、僕の深層心理が生み出した想像の産物。

悪魔ゲンノウだ。


 でも、昨日とは違う。

頭の中と言うよりも、もっと直接的に聞こえる。

そう、耳に聞こえる感じだ。


「ち、違うよ!はんぺん先生の馬鹿あー!」


 突然、健斗が叫び出す。

まるで僕の幻聴に健斗が答えたみたいに聞こえた。


「ククク。隠すなよ、別に悪い事じゃねえ。男が女を欲しがるのは当然なんだ。もっと欲望に忠実になれ。自分の物にしてみろ」

「はんぺん先生……?」


 健斗が呆然と僕の顔を見つめる。

何だ?この展開は。


 ん……?

これ……僕が喋ってる……


 僕は青ざめた。

園児に対して僕は一体何を口走っているのか。


「良いか、もっと体を寄せろ。全身でアピールするんだよ。そうしねえとお前の気持ちは伝わらねえ。触れろ、抱き寄せろ、耳元で囁け」


 僕の口は、僕の意思を無視して勝手に話し続ける。

とても子供にして良い様な話では無い。

それどころか、僕さえそんな恥ずかしい真似をした事なんて無いのに。


 園児達は皆、ぽかーんと口を開けて僕の顔を見ていた。

話の内容を理解出来ているのかは解らない。


 僕は、いや、僕の口はいよいよ滑らかに持論を捲し立てる。

当然僕の持論では無いのだが、口は勝手に喋り続け止める事が出来ない。


 僕はパニックになっていた。

こんな所を園長や父母に見られでもしたら。

そう思うと気が気では無かった。


 だが、良くない予想は当たる物だ。

教室の入り口から見知った顔がひょっこりと顔を覗かせた。


 遥先生だ。


 お絵描きの時間に演説めいた僕の声を聞き付けて、不思議に思ったのだろう。

不思議そうな顔で様子を伺う。


 そして案の定、その表情は固まった。

遥先生の目にした光景は、まさに異様としか言い様の無い物だったろう。


 もも組の男児達は隣の女児にぴったりと寄り添うと肩を抱いていた。

匂いを嗅ぐほど顔を近付けて耳元で何か囁いている。

明らかに男女の雰囲気を放っていた。

教室中がである。


 女児達は恥ずかしそうに頬を赤らめ、モジモジしている。

ある意味、仲良しクラスであるには違い無かった。


「心美ちゃん。僕、心美ちゃんが欲しいよ」

「健斗くん……」


 健斗と心美はそう言いながらお互いを見つめ合った。


「あ……ああ……あわわわ」


 遥先生は腰を抜かしてその場に座り込む。

理解不能な状況が目の前に広がっているのだ、無理も無い。


 しかし、そんな事を言っている場合でも無かった。

この状況を一体どうやって収集すれば良いのか。僕にもさっぱり解らない。


 僕はとにかく遥先生に歩み寄った。

何とか誤解を解かなければならない。


 床にへたりこむ遥先生の目の前に僕はしゃがんだ。

心配そうに顔を覗きこむ。

遥先生の目は、この混乱した状況の説明を求めていた。

僕の口からこの状況が何かの間違いである事を聞きたい、そんな目である。


 解っているとも。

こう見えても、僕は自他共に認める常識人だ。

あまりの常識人ぶりに人は僕をつまらない奴と言うのだ。


 ああ、そうさ。

それがどうした。つまらない奴の何が悪い。

常識と言う最強の理論武装こそが、現代社会では最強の武器なのだ。


 僕は大きく深呼吸をする。

そして自分を落ち着かせてから、第一声を静かに放った。


「遥先生」

「は、はい」

「……愛してる」

「……え」


 遥先生の空気が変わった。

僕の思考も停止した。

一体僕は何を言っているのか。

頭の中が一瞬でホワイトアウトする。


 僕は慌てて遥先生の肩を両手で掴まえると、言い聞かせる様に力を込めて揺さぶった。


『違うんです!』


 と叫んだつもりだった。


「遥先生……好きです!好き過ぎて胸が苦しい。ずっとです!」


 実際にはそう口走っていた。

遥先生の目は大きく見開かれていて、その目の中に僕が映り込んでいるのが見える。

何て綺麗な目なんだろう。

いや、そんな事言ってる場合か。


 遥先生の首がカクンと落ちた。

いかん。予想外過ぎて遥先生がショート寸前だ。

僕は慌てて遥先生を揺さぶる。

ガクンガクンと遥先生の頭が前後に揺れる。


「起きて!起きて下さい遥先生!遥先生!」


 僕は必死で遥先生の名前を呼んだ。


「う……うう……ん」


 遥先生はかろうじて正気を保った。

そして、ぼーっとした目で僕の顔を見る。


「あ、良かった遥先生!愛してます!」


 かくして遥先生は無事気を失った。

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