第4話 同棲時代
僕は逃げる様に家へ向かった。
ズボンもシャツもボロボロだ。
破れて、汚れて、まるで戦場から脱出してきたかの様である。
錯乱しているのでなければ、僕はトラックにはねられた筈だ。
だからこそ衣服はこの有り様なのだろうし、けして夢や幻などでは無い……筈だ。
なのに何故自分は無傷なのか。
かすり傷一つ負っていない。
やる事は山積みなのに、何もする気なれない。
頭がパンクしそうだ。
「ああ、何なんだ。一体どうしちゃったんだ。頭がいっぱいでパンクしそうだ!」
僕は風呂場で頭からシャワーを浴びながら思わず一人で叫んだ。
『そりゃあ、オメエ仕方がねえだろ。三人も入ってりゃ実際いっぱいだし、パンクしそうにもならあな』
耳元で男の声がした。
「!?」
僕は驚いて、ビクッする。
耳元だけど外からの声じゃ無い。
何と言えば良いのか解らないが、中からの声とでも言えば良いのか。
とにかく耳で聞いた様な音声では無い。
耳にはシャワーの音と、部屋から漏れ聞こえてくるテレビの音声だけだった。
「何だ、今の……相当疲れてるのかな……」
僕はシャワーを止めて浴室の鏡を見た。
濡れた髪が額に張り付いた見慣れた自分がこちらを見つめている。
自分で言うのも何だが、冴えない男だと思う。
小さな頃から何でも中の下くらいの子供だった。
成績も運動も人気もそんな感じだった。いや、それは今でもそうだ。何も変わらない。
強いて言えば『普通の良い人』だろうか。
悪く言えばつまらない奴かも知れない。
こういうタイプが精神を病みやすいと誰かが言っていた気がする。
ただ自分でどうする事も出来ない。
これは生まれもった性分なのだ。
『……うるせえ、良いじゃねえか。いつまで隠しておく気だ。コイツが死ぬまでか?俺は御免だぜ』
また声が聞こえた。
やっぱりハッキリと聞こえる。
僕は驚きと恐怖で目を見開いた。
鏡の中の自分も同じ顔をしている。
「な、なななな、何だ!?やっぱり僕は狂ってしまったのか!?」
受け止めきれない衝撃に咄嗟に頭を抱える。
『だからお止めなさいと言うのです。彼を苦しめてどうするのです』
今度は女の声が聞こえた。
少なくとも精神に異常を来しているのは間違いなさそうだ。
それを自覚出来ている事は幸いだろうか。
『コイツの寿命まで内緒にしていても、そのままコイツが死んじまったら俺らも死ぬんだろうが。人間なんぞ高々数十年の寿命だぞ?数万年を生きる俺様がそんな虫みてえな寿命に付き合っていられるか!』
男の声がそう言った。
ハハハ、幻聴まで僕を虫扱いするとは。
僕自身が深層心理では自分の事をそう思っていたって訳か。
『何とかして出る方法を見つけなければならねえ。その為にはこの人間にも協力させるしかねえだろ。俺達はほぼ封印されてる様な状態なんだぞ。自分で行動出来ねえんだぞ?』
封印?何の事だ。
『やい人間、良く聞け。俺様は魔界じゃ、ちいとは名の知れたゲンノウってモンだ。つまり悪魔だ。解るな?』
悪魔だって。
これも僕が考え出した事なのか。これはこれで中々面白い話だ。
作家にでもなっていれば、もう少し面白い人生も有ったのかも知れないな。
僕は多少落ち着きを取り戻していた。
もう少し、この僕の生み出した幻聴に耳を傾けてみる事にした。
『さっきテメエは死にかけた。それを救ってやったのはこの俺様だ。感謝しろ』
ふむふむ。なるほどねえ。
『何を勝手な事を。勝手に入って来て出られなくなったのでしょうに』
今度は女の声だ。
どうやら僕の中には、男の悪魔と女の悪魔が居るって設定らしい。僕にしては良く思い付いた設定だ。
『山田半平。良く聞きなさい。残念ながらこれは幻などではありません。今、貴方の中には私とこの悪魔と、そして貴方自身の三つの存在が同居しているのです』
なるほどなるほど。
僕はその声を聞きながら風呂場から出ると、体を拭いてパンツに足を通した。
慣れてくれば、これはちょっと面白い体験だ。
この際、精神を病んでしまったのは仕方がない。
明日病院に行くまでは、しばしこの状況を楽しんでみようと言う気になってきた。
僕自身、こんな気持ちになるなんて不思議だった。
僕は意外と図太い神経をしていたのかも知れない。これは新しい発見だ。
『貴方が今日、女の子を救ったのは紛れもない事実。その結果貴方は死の淵に立ったのです。私は貴方を助けようと貴方の中へと入り込みました。しかし……』
『うるせえ!この男は俺が先に見付けたんだ!』
『この者は貴方が好きに操って良い類いの人間ではありません。魔の者の癖にそんな事も解らないのですか』
『こっちは急いでたんだよ!贅沢言ってられるか!』
どうもこの二人は折り合いが悪いらしい。
それに女の方はあまり悪魔と言う感じがしない。
何と言うか、もっと上品な感じだ。
僕はパンツ一丁で冷蔵庫を開けると缶ビールを取り出した。
パシュッ!
ビールを開けて一気に喉に流し込む。
風呂上がりには堪らない。
ガラステーブルにビールを置くと、Tシャツに袖を通した。
幻聴の邪魔になりそうなテレビの音量をリモコンで下げる。
僕はフローリングに置かれたクッションの上に本格的に陣取った。
もう一度ビールに手を伸ばす。
どうせなら帰りにつまみも買えば良かったなと思う。
『……何だ、コイツ急に落ち着き払いやがって。ちゃんと話を聞いてんだろうな』
男の悪魔が忌々しそうにそう言った。
僕の事を言っているのだろうか。
これほどリアルに臨場感をもって幻聴という物は聞こえる物なのだろうか。
幻聴初心者の僕には解らないが、幻聴とは相互通信可能な物なのか。
ならば僕は幻聴と会話が出来ると言う事か。
「ひょっとして僕の事を言ってるのかい?」
僕はビールをあおりながら、おどける様にそう言った。
まさか大人になってから『ぼっち』を拗らせて、幻聴とお喋りする事になるとは子供の頃の僕は想像もしていなかった。
『そうだ、テメエだよ。ちゃんと話を聞いてるんだろうな?』
ちゃんと反応が帰ってくる。面白い。
「聞いてるよ。とても僕の深層心理が生み出した産物とは思えないくらいだ」
『この野郎……やっぱり理解してやがらねえ』
男の悪魔が苛立ちを隠しきれないと言う様子で吐き捨てた。
『無理もありません。信じろと言う方が無理があるのです』
女の悪魔は理性的だ。
『じゃあどうしろって言うんだ!コイツに理解させなければ話が先に進まねえじゃねえか!』
幻聴が僕を責めるも、所詮幻聴なのだ。
男の悪魔が怒鳴り散らすが、僕は何処吹く風と言った様子でビールを更に飲み続ける。
この分ではもう一本行けそうだ。
これは中々珍しい事である。
『クソッ!殴りたい!コイツをぶん殴りたい!殴れねえのが歯がゆい!』
男の悪魔が苛々とした口調で叫ぶ。
ハハハ、残念でした。そりゃ無理ってもんだ。
流石に幻聴に殴られる事は有り得ない。
『半平、聞きなさい。こうなってしまった以上仕方がありません。それは理解して下さい。私もこの状況を改善できる様に方法を考えます。しかし、それまでは辛抱して下さい。貴方の協力が絶対に必用なのです』
僕は、言い方ってあるよなあと思った。
こんな言われ方をすれば、幻聴相手でも少し真面目に話を聞こうと言う気になるから不思議だ。
「まあ、良いよ。どうも他に重大な症状も無さそうだし、慌てて病院に行かなくても良さそうだし。ただ幻聴が聞こえると言うだけなら僕が普通にしていれば良いんだろうし」
相手が女性だからだろうか。
僕は比較的すんなり提案を受け入れた。
いや、僕は普段から相手の提案は受け入れている。
相手が女性だからと言う事では無い……筈だ。
「ところで、幻聴が僕の名前を知ってるのは当然として……男の方は、確かゲンノウと名乗っていたね」
『ああ、そうだ』
男の悪魔が面白く無さそうに答える。
「もう一人の女の人の方は名前無いの?」
言った後で、我ながら馬鹿な質問をしているなあと思った。
幻聴に名前などある筈も無いし、有っても無くてもどうでも良いと言えばその通りなのだ。
ただ女の人に名前を聞きたかっただけなのかも知れない。
うぶ過ぎて我ながら恥ずかしい。
どうせ僕の深層心理が生み出した幻聴なのだから、僕の思い付きそうな名前が返ってくるに違いないのだろうが。
『そうでした。名前がまだでしたね。私は天願太鶯命(あまのねがいたいおうのみこと)と申す者』
へえー、なるほどねえ。
これは意外な答えが返ってきた。
本当に僕の深層心理なのか。
少なくとも僕が思い付きそうも無い角度から答えが返ってきたのだ。
片方は悪魔で、片方は神様って訳だ。
我ながら無意識とは言え、面白い話を捻り出した物だ。
しかし、聞いた事のある名前ではあるなと思った。
はて、何処で聞いたのだったか。
『天願大社の祭神です。分社である鶯神社に貴方が毎日足を運ぶのをずっと見ていましたよ』
僕は思わず、あっと声を上げた。
そうだ。毎日お参りしている、あの鶯神社の神様だ。
『毎日毎日、雨の日も欠かさず足を運んでいる貴方を死なせたくはなかったのです。貴方は自分の事では無く、いつも世の中の平和や安全を祈っていました』
確かにそうだけど……単に自分の事でお願いしたい事が無かっただけなのだ。
しかし、これも僕の深層心理が生み出した物なのだろうか。
何だか変な感じだ。
『これからしばらくの間、お世話になりますね』
神様はわずかに微笑んだ様な声音でそう言った。
「長ったらしい名前だな。とても覚えられねえし舌を噛みそうだ」
ゲンノウが悪態を吐く。
『貴方に覚えて貰う必要はありません……ですが、長いと言うのであれば鶯姫(うぐいすひめ)と呼んで下さい。むしろ人々にはこちらの名の方が知られているでしょう』
神様は少し考えてからそう言った。
確かに天願太鶯命は、俗に鶯姫と呼ばれている。
その名前の方が一般的に親しまれていると言って良い。
『解ったよ。じゃあ今日から鶯姫とゲンノウって呼ぶね。幻聴が治まるまで宜しく』
僕は何故か幻聴と知りつつ、彼らと会話をするのが楽しくなり始めていた。
幼い頃から友達は少なかったのだ。
脳内に二人も友達が出来た事は、単純に喜ばしい……と思う。
僕は新たに冷蔵庫から缶ビール二本を取り出すと、ガラステーブルの向かいに一本ずつ置いた。
「何か変な感じだけど、取り敢えず乾杯ッ!」
そう言って僕は部屋の中で一人、幻聴の二人の分も用意して乾杯した。
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