恋の終わりの麻婆豆腐

ニンニクに包丁の背を当て、体重をかける。皮がずるりとむけ、芯が半分飛び出る。

使いさしの生姜を薄く切り出し、千切りにする。

豆鼓を粗く刻み、左手で包丁の先端を押さえてニンニクと生姜とひとまとめに細かくみじん切りにする。


花椒をひとつまみ手にとり、小さなすり鉢に入れる。

思い直してさらにひとつまみ足す。今日はいつもより山椒を強めに効かせて、ぴりりと辛く仕上げよう。

すりこぎ棒でつぶす。香りが立つ。しびれる風味が舌の先に思い出され、唾液がじわりとわく。


昨夜のことを思い出す。怒りがぶり返す。

ここ数ヶ月、ミキとは会うたびにケンカになる。

特に昨日は、ことのほかひどかった。せっかくの金曜のデートが台なしだった。


ニンニク、生姜、豆鼓、花椒をフライパンに移し、油をひたひたに注ぐ。

豆板醤をスプーンにたっぷり一杯分すくい、フライパンに落とす。思い直してもう半杯足す。今日は思い切り辛くするのだ。


炊飯器が蒸気口から湯気を吐いている。


空いたまな板に長ねぎをのせ、根元から十センチほどのところまで縦に切り込みを入れる。包丁を持ち直し、横に刻んでいく。


ミキにはもううんざりだ。今日という今日は。

思わず包丁使いが荒くなる。今日という今日は。

ミキとは別れる。

この麻婆豆腐を食べ終わるまでに、向こうから謝ってこなければ。


フライパンをコンロに載せ、中火にかける。

油の温度が上がり、気泡が立つ。ニンニクと花椒の香りが漂う。

木べらで豆板醤を崩し、フライパン全体に広げる。油が赤く染まる。

無数の気泡が絶えずはじけ、雨音のような音を立てる。


豚のひき肉をフライパンに落とす。

脂身の少ないもも肉を選んだ。油をたっぷり使う料理には、赤身肉が合う。

木べらでひき肉をほぐす。肉からしみ出た水分がはねて、フライパンの立てる音が雷雨のように大きくなる。


ひき肉を混ぜながら、ミキのことを考える。


中国の甘味噌、甜麺醤を大さじ一杯加える。調味料は豆腐を入れてから加えるレシピが多いが、味噌をひき肉と一緒に炒りつけた方が、香ばしさが増してうまいように思う。

甜麺醤の水分が飛んでまんべんなくひき肉に絡んだら、ねぎを加えて酒をふり、炒め合わせる。


ミキとは付き合って三年になる。

一緒に過ごす時間は楽しく、誰よりも気が合うと思っていたが、いつからか些細な言い合いがひどいケンカに発展するようになってしまった。

いつからか、ではない。ミキが結婚のことを口にするようになってからだ。ミキは俺が結婚の話題になると話をはぐらかすと言う。

はぐらかしてなんかいない。俺だって結婚する気でいたが、せき立てられるのが嫌なだけだ。


キッチンペーパーにくるんでおいた絹ごし豆腐を、皿から慎重に左手に移し替える。キッチンペーパーを外すと、豆腐は生き物のようにぷるんと震える。キッチンペーパーは豆腐の水分を吸ってしっとりと濡れている。

手の平の上で一センチ角に切り、静かにフライパンに落とし入れる。


豆腐を広げ、四分の一ほどを木べらで細かく突き崩す。見た目は悪くなるが、大豆の風味がたれに溶け込んで、味の深みが増す気がする。

白かった豆腐の表面が、みるみる赤く染まる。


水を加える。ポケットからスマートフォンを取り出す。

ミキからメッセージが届いた様子はない。


たれが煮立ち、ぽこぽこと気泡がはじける音が大きくなる。豆腐が細かく揺れる。

水を加えるまでは甜麺醤と混じり合っていた油が再び分離し、表面には赤いまだら模様ができている。醤油とごま油を回しかける。


炊飯器の電子音が響く。米が炊き上がったのだ。


火を止める。

水に溶いた片栗粉を端から細く垂らし、静かに大きくかき混ぜる。徐々にとろみがつく。

再び火をつけ、弱火でひと煮立ちさせる。黒胡椒を挽く。


オーケー、できた。


火を止めて麻婆豆腐の半量を深皿にとる。もう半分は後でタッパーにしまって、明日また食べよう。

もう一度スマートフォンを見る。ミキからのメッセージはない。


白飯に数口分の麻婆豆腐をかける。ごま油がぷんと香る。軽く白飯と混ぜてスプーンですくい、口に入れる。

まず甜麺醤の甘じょっぱさが口の中に広がり、次いでかすかに青臭い豆腐の風味が追いかけてくる。脂を含んだ豚ひき肉のコク味が咀嚼によってじわりとしみ出る。豆鼓の凝縮された塩味が断続的に舌に触れる。

一拍おいて豆板醤の唐辛子の辛みが舌から脳に伝わる。

舌の中央が痺れていることに気づく。花椒だ。

二口、三口、さらに食べる。体内に取り込まれた辛みが閾値を超え、額と首筋から汗がふき出す。

最後の一口をすくおうとして、躊躇する。この一口を食べ終えたら、ミキとは終わりだ。本当に好きだったし、今でも好きだ。

悲しみ、安堵、喪失感、いとおしさ。さまざまな感情がないまぜになって、胸がしめつけられる

でも、もう続けられない。続けない方がいい。最後の一口を口に含み、飲み込む。



--

と、鈴のような通知音が鳴って、スマートフォンがぶるんと震える。

画面の上部にテキストが表示される。


「何してる?」


ミキだった。

スマートフォンのロックを解除し、チャットアプリケーションを開く。指を滑らせて文字を入力する。


「麻婆豆腐作って食べてたとこ」


送信と同時に既読のマークがつき、すぐに返信のメッセージが表示される。


「いいな。ケンタの麻婆豆腐おいしいもんね」


ほぼ同時に、次のメッセージが現れる。


「昨日ごめんね」


ため息をつく。結局こうなると最初からわかっていたことに気づく。


「俺もごめん。麻婆豆腐、半分残ってるけど、後で食べに来る?今日のは辛いよ」



<了>

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