恋の終わりの麻婆豆腐
森いるか
時効前夜のチキンカレー
玉ねぎを縦半分に切り、皮をむいて両端を切り落とす。
繊維に沿って薄切りにする。包丁を斜めに滑らせるように切れば、硫化アリルが目に入って涙が止まらないなどということはない。
ニンニクと生姜をおろし金ですりおろす。
鷹の爪のヘタをとり、種をかき出す。
時刻は夜の八時。
あと四時間で時効が成立する。
鍋に油を注ぎ、ニンニクと生姜、クミンシード、ローレルの葉を入れて火をつける。
ふつふつと気泡が上がり、森の葉ずれのような音が立ち始める。
鷹の爪を加え、鍋を回して油にくぐらせる。
逃亡生活は十五年になる。
いろいろなところに住み、いろいろな名前を使ってきた。
今はウエノと名乗って、工事現場の警備の仕事をして暮らしている。
このアパートは住み始めて二年になる。
古い安普請の部屋で、冬は隙間風が冷たいが、家賃が安いのと据え付けのガスコンロの火力が強いのは助かる。
まな板ごと持ち上げて、玉ねぎを鍋に流し入れる。玉ねぎの断面からしみ出た水分が瞬時に高温の油と反応し、雨がトタン屋根を打つような音を立てる。木べらで軽く広げ、蓋をする。音が遮断される。
小鍋に湯を沸かす。
トマトのへたを取り、底に十字の切り込みを入れる。
十五年間、目立たないように、親しい人間関係を作らないように、ただひっそりと暮らしてきた。元々人付き合いが苦手で一人で過ごすことが好きだったので、苦にはならなかった。
それでも、自分が指名手配犯であることは片時も忘れたことがない。
警察が踏み込んでくる夢を何度も見て、そのたびに夜中に飛び起きた。
警官を見かけるだけで鼓動が早くなった。
そんな生活も、あと数時間で終わる。
蓋をとる。玉ねぎが透きとおり、自らが出した水分に身をひたしてくったりとしている。水分が蒸発して減っていく。鍋底に薄く広がるくらいの水を足し、木べらで混ぜる。水を少しずつ加えて炒め蒸しにすると、玉ねぎを早く飴色にできると最近知った。
水気が減ったらまた水を足し、木べらで混ぜる。繰り返す。
小鍋の湯が沸く。トマトを入れる。底の切れ目から皮がめくれていく。
火を止めてトマトを器にとり、水にひたして粗熱をとる。
縦に四つ切りにし、横に細かく刻んでいく。
まな板から果汁がこぼれないよう気をつける。トマトのうま味を余さず使いたい。
玉ねぎが蜂蜜色に色づいた。
カレー粉の赤い缶の蓋を開け、振り入れる。カレーの香りが立ちこめる。
日本の食品会社のカレー粉は、ターメリックが多く黄色みが強い。インド産の黒っぽいスパイスミックスも使ってみたことがあるが、日本製の方が風味は優れているように思う。
カレー粉が油と水分を吸って玉ねぎに絡み、粘り気が出てくる。
料理は、生活費を切り詰めるためと、外食で馴染みの店や知り合いができるのを避けるためにやむをえず始めたのだが、今ではすっかりその楽しさに魅了されてしまった。唯一の楽しみと言ってもよい。
捕まって刑務所に入ったら料理はできない。
逃亡生活を続けているのは、刑から逃れるためなのか、料理を続けるためなのか、時折わからなくなることがある。
トマトを加える。
木べらで粗く身を崩す。
ヨーグルトを加える。
ぶつ切りの鶏もも肉を加える。
塩を加える。
蓋をする。煮込みながら、明日からのことを考える。
明日からは、少し外食を増やそう。外で食べた料理を真似て作れば、レパートリーが増えて楽しい。商店街に気になる洋食屋がある。隣町で評判の中華料理屋にも行ってみたい。小ぎれいな店でも気後れせずに入れるよう、服を新調するか。鍋と包丁も良いものに買い換えようか。
とりとめもなく想像を巡らせていると、炊飯器のスイッチが音を立てて切り替わる。米が炊き上がったのだ。
鍋の蓋をとる。
煮崩れずにかすかに形を残したトマトの身が、黄褐色の中にところどころ赤く浮き沈みしている。
鶏肉は肉汁の大部分をルーに移し取られて、鍋に入れたときよりも小さく縮んでいる。
味を見る。少しだけ塩を足す。もう一度味を見る。オーケー、いいだろう。火を止める。
皿に白飯とカレーをよそう。
缶ビールを開ける。
酔って不用意なことをしないよう、酒はできる限り避けてきた。
今日はいいだろう。祝杯だ。
ビールを口に含む。
苦みと麦のコク味が広がる。
カレーと白飯をスプーンですくって口に入れる。
複数のスパイスの風味が舌と鼻腔に立体的に広がる。よく炒めた甲斐があって、玉ねぎは甘く香ばしい。メイラード反応がしっかりと引き出されている。トマトとヨーグルトの酸味の合間に、生姜の存在をほんのり感じる。辛みがじわりと舌全体を刺激する。鶏肉はほんの少し歯に力を加えただけでほろりと崩れる。
ビールを飲む。同じビールでも、カレーを食べる前の一口目と、カレーを食べた後の二口目では、もはや別の飲み物であると感じる。
多幸感が湧き上がる。うまい。そして、俺は自由だ。
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洗いものを終えると、ちょうど待っていたかのように呼び鈴が鳴る。
事態を理解する。この部屋を訪ねてくる知人などいない。しかもこんな夜更けに。
ドアを開ける。
男が二人立っている。
右の男が、黒革に警察と印字された手帳を示して口を開く。
「 ── さんですね」
十五年ぶりに本名を呼ばれる。
<了>
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