Final episode(C)――《魂》――
ひととおり笑い転げたあと、ユキが怒ったように口を開いた。
「ねぇ、答えになってないよ。私たちは何のために生きるの? おにいちゃんは何のために生きるの?」
「その何のためにっての、もうやめようぜ」
「……っ!?!!!!」
何気なく返したつもりだったが、妹たちの驚きようにギョッとしてしまう。待てよ、これまで未来が見えないだの生きる希望がないだの、さんざんと抽象的な議論を繰り返してきた。
しかしよくよく考えてみれば、生きる『理由』や『目的』や『意味』を追い求めるのは《生》そのものの本質から目を背けることに繋がるのではないか。
つまり《何のために生きるのか》の問いを発した時点で、主従関係が逆転してしまう。《何か》のために《生きる》が従属されることとなる。
違う、違うだろ。
俺たちは抽象的な哲学論議をしに来たんじゃない。
もっと自分の抱える課題に目を向けろ。苦しくても目を逸らすな。
「なあユキ、ミユ。お前たちが本物だって言うなら、俺が在学中、何のために就職活動をしていたか分かるか?」
「会社に入るためでしょ」「内定を取るためでしょ」「将来のためでしょ」「自分のためだよね」「私たちのためでもあるよね」
妹たちが口々にたたみかける。
「そのとおりだ。だが俺は、五十社以上と面接し、百社以上にエントリーシートを送ったにもかかわらず、ひとつも内定を取れなかった。就活を通して精神的にでも成長できたら良かったが、あいにく大学卒業後はニートになって堕落していった。就活後の方が、むしろ対人恐怖は大きくなった。
俺は、妹たちの理想の兄でありたいと思った。しかし現実は、妹たちをひどく失望させる兄となった。
就職活動の目的を何一つ果たせなかった。大馬鹿者だ。
そこで、もう一度聞きたい。
俺がやってきた就職活動は、何もかも無意味だったか?」
「無意味だね」「無価値だよ」「空しいね」「悲しいね」「死んだ方がマシだったね」
妹たちが口々に罵った。
心に言葉の鋭利な刃が突き刺さり、今にも崩れ落ちそうになる。
それでも、俺は目の前のバブル・バベルを正視したまま、言葉を続ける。
「そのとおりだ。俺の就職活動に、意味なんてなかった。価値なんてなかった。空しかった。悲しかった。悔しかったし、恨めしかった。死んだ方がマシだとも思った。
だが、――――――それがどうした?」
「……っ!?!!!!???」
「俺は、就職活動をして良かったと心の底から思っている。たとえ目的を果たせなくても、意味を失っても、希望が見えなくても、俺は就職活動をした自分を肯定する」
「だからどうして! 理由もないのに肯定されるものなんておかしいに決まってる」
「おかしいのはお前らだ。何でもかんでも理由や意味や目的を求めようとする、その考えが人を絶望させる。俺は、自分の魂が生きろと叫ぶから、生きる。それだけだ。何度でも繰り返す。生きる」
「なっ」
激昂するユキの腕をミユが掴む。ミユは小さく首を横に振って、不敵な笑みを浮かべた。
「わかったよ。おにいちゃんが言っているのはつまり、生きたいから生きるってこと。それが成り立つのなら、逆もありなんだよね。死にたくなったら、ちゃんと死んでくれるんだよね」
「ふっ、やれるもんならやってみろ」
ミユが前に歩み出る。これ以上の話し合いは無駄だと悟り、実力行使に出るつもりなのだ。
抵抗はしない。受け止める。ミユは腕を突き出し、俺の左胸に手のひらを当てる。直後に心臓を鷲掴みにされたような重い衝撃が走る。
それはほとんど洗脳のように、心の奥底から沸き起こってくる。
死にたい、死にたい、という暴力的な衝動が、弾ける泡となって精神を浸食する。死への欲動は、理性だとか自制心だとかで止められるほど、生ぬるいものではない。心臓が押しつぶされると同時に、頭が死にたいで埋め尽くされる。
目の前でミユがにやりと笑った。
しかし俺もそれをトレースするように、にやりと笑ったのだった。
「俺は、死にたいを肯定する」
ミユは理解できないという顔をした。
空いた手で、ショートカットの髪を撫でてやる。ミユが困惑した表情で見上げる。
「どうして平気そうにしているの? 空元気なんて無意味なんだよ」
「無意味なのはお前の攻撃の方さ。人間はつねに死へと向かう存在だ。死は生きたことの結果に過ぎない。死にたいってのはつまり、生きたいって感情の裏返しなんだぜ」
だから《死にたい》を肯定すれば、それと同じだけの《生きたい》が肯定される。
「そんな屁理屈がまかり通ると思ったら大間違いだよ」
ミユはもう片方の手で、俺の首根っこを掴んだ。すると先ほどの死にたいの衝動が収まり、まったく別種の負の感情が呼び覚まされる。
それは、――虚無感。
何もなく、空しい気持ち。
生きるのも死ぬのも億劫なくらい、喜びも、悲しみも、怒りも、あらゆる感情が心からそぎ落とされてゆく。死ぬことが無意味なのと同じくらい、生きることも無意味なんだよ。と内なる思考が囁く。
俺はその悪魔の言葉もまた、肯定してやる。
「そうだな、生きるのは無意味だ。だから俺は生きる」
「ありえない! その生への執着はどこから沸き起こってくるんだ!!」
「俺の魂が、俺に生きろと命ずるからだ」
そんなに知りたいのなら、何度でも聞かせてやろう。生きる、生きる、生きる。魂の歌声を聞け。
「くっ……、生の絶対肯定だなんて、狂った宗教と変わらない……」
ミユが歯噛みして、俺をキッと睨み付ける。
攻撃が通じないのを理解したのか、両手を離してだらんと下ろした。
「ミユちゃん、もういいよ」
ミユの後ろからユキが抱きしめる。ユキは長い髪を深海のイカのように揺らめかせて、すべてを見透かしたような、透き通った瞳を向けてくる。
「どうせ、私たちの正体を暴けなければ、ここから出ることはできない。でも……」
「気づいているんだよね、あなたは、もう」
妹たち、否、バブル・バベルはそう言った。そろそろ、この世界ともお別れしなければならない。
「お前たちの正体、そしてパンドラの匣に残った最後の災厄は、【
瞬間、世界にぴしゃりと亀裂が走る。
「バブル・バベルに感染した人は、その衝動を《未来が視えない》と表現する。だからミスリードしていたが、お前らが実際にやっていたことは未来を見えなくさせることじゃない。見えない未来を見させることだ。
はじめから幻想だったんだ。バブル・バベルは人々にありもしない未来を見せ、認知の歪みを増大させ、価値関数を操作する。
価値は、未来の可能性によって決定づけられる。
就職活動における人材の価値は、その人物が将来にどれほど会社に貢献できるかの期待可能性によって決まる。同じように、勉強の価値は、学ぶことによって得られる未来の利益の可能性によって決まる。
缶切りの価値は、缶詰のフタを開ける効用のために決まり、リンゴの価値は、それを食べて得られる栄養や美味しさによって決まる。
世界のあらゆる物事の価値は、未来からもたらされる目的であり、意味であり、役割であり、期待であり、理由であり、希望であり、指針である。
でも本当は、未来なんて存在しない。価値なんて後付けに過ぎない。
人間が希望を持ったり、絶望したり、生きたくなったり、死にたくなったり、価値があると思ったり、価値がないと思ったり、そんな感情に喜び、苦しむのは、すべて【予見】しようとするからなんだ。
だから俺は、箱のなかに未来を置いてゆく。俺たちにとって必要なのは何のために在るのかと問いかけてくる高尚な目的意識なんかじゃあ、ない。
問答無用に生きろ!と命ずる、魂の声だ」
亀裂はやがて世界の破片となって降り注ぎ、闇が薄くなるにつれて意識も遠くなってゆく。浮かび上がる感覚。
「うぬぼれないでね。あなたは質問に対する答えを出したのではなく、質問の在り方を否定することによってペナルティーを逃れただけ」
「その妄信的な魂の加護が切れたとき、今度こそ命を奪いに来るからね」
声が小さくなってゆく。
何にせよ、今度こそ終わったのだ。否、新しい戦いが始まったと言うべきか。
ピーと甲高い機械音が聞こえてくる。機器の起動音、空気の擦れ合う音、足音、声。
さまざまな雑音が現実感を伴って浮かび上がってくる。
身体が重い。手と足の痺れを感じる。
戻ってきたんだ、現実に。
「おにいちゃん」「おにいちゃん」
ひどく懐かしい、妹たちの声が耳に飛び込む。ゆっくりと目を開けると、四つの瞳と目があった。
あれだけ色々なことがあったのに、俺は手術台に仰向けに寝たまま、指一本動かしていないのだった。
「信じてたよ。だっておにいちゃんなら、こういうとき必ず――、ぼくたちがびっくりするくらい、悪あがきするんだから」
ミユが右目を涙で腫らして、覆いかぶさるように抱きつく。
その頭をユキが優しく撫でながら、さまざまな感情の入り混じった双眸を投げかける。
ユキはただ一言、「おかえり」と声をかけた。その一言で十分だった。
まだ麻酔が効いていて、思うように発声ができない。
心のなかで「ただいま」と返すと、その言葉はたしかに妹たちに通じたようで、ユキとミユは目を見合わせて笑った。
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