Final episode(B)――《絶望の扉》――

 目が覚めたらベッドの上だった。見慣れた自室で起き上がり、うーんと伸びをする。何だかとても長い夢を見ていた気がする。


 たしか夢のなかで俺は「よーし、これからは心を入れ替えて精一杯に生きるんだぜ!!」と強く心に決めていた気がするのだが、悲しきかな。ニンゲンはそう簡単には変われない。変わらない。


 ベッドから抜け出してほとんど反射的に押すのはパソコンのスイッチで、寝間着姿のまま、ぼんやりとネットサーフィンに興じる。ツイッター、はてなブックマーク、ニコニコ動画、pixiv、まとめサイト、その他諸々。


 二十一・五インチの液晶モニターに美少女たちのイラストを映し出し、いつものように空想に耽る。ネットを使ってクリエイティブな創作活動に打ち込むでもなく、ただ自堕落に、時間を潰すためにコンテンツを消費する。


(おにいちゃんが潰しているのは可能性だよ)


 ん、いま、空耳のような声が聞こえなかったか。気のせいか。


 ともあれ、時間が無為に流れてゆく。日本では換算すると十五分にひとり、人が自殺するらしい。(変死者も含めると五分にひとりだとか、さらに恐ろしい数になる)

 俺が今ぐだぐだと怠惰な生活に身をやつしている間にも、誰かが自らの意志で命を絶ち、人生の幕を閉じている。そう、この瞬間。


 それでも人々は、脱落した死者に足を止める余裕がない。社会は何事もなく回る。ニンゲンという存在の、耐えがたき軽さ。俺もやがて、何者にもなれないままに死んでゆくのだろう。


「ぎぇぁぁぁああああああ」


 階下からユキの悲鳴が聞こえた。悲鳴はすぐに足音へと転じ、間もなく部屋のドアが開け放たれる。


 「おにい、ちゃあぁぁああん!!!」

 ミユが部屋に飛び込んできた。


 あれ、以前にも同じことがなかったか?

 頭に疑問が掠める。


「ユキ、入る前にノックしろっていっつも言ってるだろ。 お兄ちゃんは仕事探しでとっても忙しいんだ」


 以前にも言ったであろう台詞を繰り返す。

 やはりおかしい。


 違う。

 俺は。



      ループ

   ループ   ループ

  ループ     ループ

  ループ     ループ

   ループ   ループ

      ループ



 している。

 寸分違わぬ人生を、後悔を、未来を、再び繰り返そうとしている。


 このままではいけない。ユキが再び自殺を図り、両親が死に、妹たちがバブル・バベルの毒牙にかけられてしまう。未来を変えられるのは俺しかいないんだ。


 ところが、身体が、意思が、思うように動かない。まるで録画したDVDを再生するように、俺はあの日の後悔を再現してゆく。

 ループ、ループ、ループ。


「未来が視えない」

 自殺を図ったユキが、病室でうわごとを言う。すまない。この未来を引き起こしたのは俺なんだ。俺のせいだ。


「ねぇ、はやく気づいてよ。ぼくを助けてよ」

 ミユが悲痛な声で俺に呼びかける。すまない。妹ひとり救えない、情けない兄ですまない。


 目の前で繰り返される悲劇を、ただ眺めることしかできない。

 気がつけば家のリビングで、ミユとユキが殺し合いを始めていた。


 知らない光景だ。

 ミユの手にはスタンガンが、ユキの手には包丁が握られていた。


「死は救済なの。おにいちゃんを見ていたら、それがよくわかる。ミユちゃんも、わたしも、死ぬしかないの! 死んでみんなで天国に行こ?」


 包丁の柄を片手に持ち、ユキがミユに向かって突進する。刃が脇腹を掠めたところで、ミユのスタンガンが火花を散らす。電撃はステンレスの刃を伝い、ユキの左手を感電させた。

 落ちた刃の先端が、フローリングを鈍い音で刺して、横に倒れる。


「天国なんてないよ。でも、この世界にはまだ可能性がある。たしかに未来が視えない、幸せになれる保証もない、不確実性の高い世界だけれども、だからこそぼくたちには希望がある。ぼくはおねえちゃんと、幸せにんだ」


「それはできないの。バブル・バベルが、パンドラの匣の最後の災いを解き放ったのだから」


 ユキが足で包丁を蹴り上げる。

 刃は空中で二転、三転し、ミユが目を見開いた刹那には、血が宙を舞っていた。


「……っ!!!!」


 腹部に開いた傷口を庇うように、ミユがうずくまる。


「……そうか。バブル・バベルが人々にもたらすものは――、絶望――だったんだね」


 俺たちは今、深く、深く絶望している。それは理屈がどうとかじゃなく、心を真っ暗な闇が覆い尽くす。どうしようもない、やりきれない感情が、生きる気力を根こそぎ奪う。


(まさか……バブル・バベルに疾患した妹たちは、希死念慮は回避できても、心に希望を持てなくなったのか――、それじゃあ、どうあがいてもミユとユキが幸せを感じる明日は、来ないじゃないか!!!!!)


「私と同じになる前に、殺してあげなきゃいけないんだ」


「ぼくはあきらめないよ。だっておにいちゃんなら、こういうとき必ず――」


 包丁を手にしたユキがミユに飛びかかる。スローモーションの惨劇に干渉することは許されず、ただ見届けることしかできない。


「やめろおおおおおおおおおおおおお」


 叫ぶ声も虚しく、気がついたときには目の前で、二人の妹が血の海で横たわっていた。


 世界は、黒から赤へ。

 回る、廻る、輪る。


「こんな無意味で、理不尽で、救いのない世界に生きるのはやめよ?」


「世の中には始まらなかった方がいい物語もあるんだよ」


「私たちは幸せにはなれない」


「ぼくたちは幸せにならない」


「だから」


「だからね」


「おにいちゃんは、私たちと一緒に死ぬの」


 声が木霊する。

 俺はもう立つ気力さえなく、暗闇の世界で、膝を抱えて崩れ落ち、涙を流して泣きじゃくった。


 赤ん坊のように、いつまでもいつまでも泣き声をあげる。

 何のために生きるだとか、何をして生きるだとか、そんな一切合切の存在理由を剥奪されて。


 生きる理由なんてない、生きる希望なんてない、生きる目的なんてない。生きる意味なんてない。ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、――何もないんだ。


「ようやくこの世の真実に気づいたんだね」


 偽りのミユがにっこりと笑う。今の俺には目の前のそれが偽者なのか、本者なのか、そんなことさえどうでもよくなっていた。どうでもいい。意味なんてない。どうせ死ぬんだから。


「あとはおにいちゃんが死のうと強く思うだけで、楽になれるよ」


 ユキが天使のような顔で微笑む。

 そうだ、死のう。

 楽になりたい。生きるのに疲れた。今はただひたすらに、楽になりたい。


 バッドエンドにしては少々後味が悪く、カタルシスもないが、もういいや。俺は十分に頑張った。終わろう、人生を。


「そうだな。このまま生きていても良いことなんてありやしない。決めたよ。潔く俺は死……」


(ぼくはあきらめないよ。だっておにいちゃんなら、こういうとき必ず――)


 言いかけて、先ほどのミユの言葉がリフレインした。ミユはなんて言おうとしたんだ。こういうとき必ず、俺なら? 俺ならどうしたっていうんだ。


(だっておにいちゃんなら、こういうとき必ず、答えを見つけ出せるから!)


 いや、買い被りだ。俺はただの妹に格好付けたいだけの見栄っ張りで、はったり野郎なんだ。待てよ……そういえば自分はこの究極に追い詰められた局面において、まだ最終奥義のアレを試していなかったな。


 ええい、悪あがきだ。せめて冥土の土産に、生意気な偽妹をぎゃふんと言わせてやるのも悪くない。


「くくく、あははははははははは。俺がおとなしく死ぬとでも思ったかバーカ!!」


 バブル・バベルの生み出した妹たちが、虚を突かれたように目を見開く。よーし、効いてる効いてるー、と内心でガッツポーズをする。どうせ死ぬのだからと思うと、逆にポジティブな気持ちが湧いてきた。

 なあに、殺人ウイルスと対決するつもりはさらさらない。ちょっとからかって、遊んでから死ぬだけだ。


「ふん。虚勢を張ってるのはバレバレなんだよ。今更どうあがいても、おにいちゃんに生きる理由は見いだせない」


「おいおい決めつけるのはよしてくれよ。これでも幼稚園児の頃は親戚中から神童だともてはやされた俺だぜ? お前たちの正体は見切ってしまったんだなー」


「あり得ない……」


 妹たちがじりじりとたじろぐ。愉快だ。

 自分の知る本当の妹たちであれば、こんな単純な手に動揺したりはしない。


 そう。俺が就職活動において数多くの面接を経て磨き上げた三大究極奥義――《はったり》《偽りの記憶》《知ったかぶり》――まぁ、内定は取れなかったけどな……。


「それなら、おにいちゃんはこの問いに答えられるっていうの?」



【問い】私たちの生きる理由を見いだせ。但し、世界から未来は失われているものとする。希望も失われているものとする。



「ああ、もちろんだぜ。でもひとつ聞きたいんだが、その質問に答える必要性ってあるのか?」


「は? 当たり前でしょ。生の指針なくして、どうやって人が生きていくの」


「どうだかな。道ばたでモソモソと這い回ってるダンゴムシでも見てみろよ。奴らは自分が何のために生きるかなんて、これっぽっちも考えてない。それでも元気に生きている」


「詭弁だね。動物と人間は違うんだよ。もっとも、虫ケラ同然のおにいちゃんは別かもしれないけれど」

 ミユが苦し紛れの皮肉を言う。しかし毒舌に磨きのかかった本当のミユであれば、そんな陳腐な言葉は使わない。所詮は偽物。


「ねぇ。はやく答えを聞かせてよ。自信満々みたいだけど、どうせおにいちゃんお得意のはったりなんでしょ?」

 ユキが煽る。偽物といえども、こちらのユキは鋭いようだ。

 はったりが見抜かれてしまったか。


 構わない。

 死なば諸共、悪あがき。



      ◆


      反


      撃


      開


      始


      ◇



「生きる」


 シンプルに、簡潔に、三文字の言葉を言い切った。

 妹たちは目をキョトンとさせて「は?」という顔をする。


「聞こえなかったか? 俺の答えは、生きる、だ。それ以上でも、それ以下でもない」


 沈黙。そして妹たちは口から声を吐き出した。


「アハハッ、ハハハハハ、アハハ、アハハハハハハ、アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」


「あっはっははは、ははははははははは、はっはっは」


 妹たちが狂気じみた声で笑うので、俺も負けじと大声で笑う。

 笑え、笑え、笑え。もっと笑え。

 それは俺の思う壺ってやつだ。


 どう転んでも、次で決着をつけてやる。

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