Final episode(A)――《可能性の箱》――

 結局のところ、自分は何のために生まれて何のために死ぬのか。答えをどこまでもどこまでも追い求めて、人はやがて死ぬ。


 虚無の思考が全身を蝕んでゆく。底なし沼に沈むように、体が重い。息が苦しい。


 神様が死んだ後、人々にとっての生きる指針は未来となった。つまり自分が幸せになる可能性、将来のために、俺たちは生きている。

 お金持ちになりたい、素敵な人と恋をしたい、他者から評価されたい、成功したい、自己実現したい、夢を叶えたい。

 生きる目的は、常に未来に設定される。


 世界が真っ黒に塗りつぶされる。自分の内側から声が聞こえる。破滅的な衝動は、やがて消去できない耳鳴りとなって。死にたい、死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい?かが、か……。


 泡沫バブル

 消えゆくしかない儚い命は――

 崩壊バベル

 崩れ落ち去る古塔のように。


 妹の役にも立てないニートの俺は、もはや生きる理由がない、生きる明日がない。未来が、えない。

 けれど心の奥からどれだけ死にたいと願っても、この体は動くことを許されない。

 こんな地獄を味わうのなら、ナメクジに生まれ変わった方が数段マシというものだった。

 苦しい。心が張り裂けそうな暗闇。パンドラの匣に閉じ込められた俺は、気を失うことも発狂することも許されず、ただひたすらに内なる破壊衝動と闘い続ける。

 頼む

   、ここから


    し

        て

            く



  れ


 おいテメエ知ってるんだぞ俺は、この頭のおかしい世界はどうせ、頭のおかしい作者によって書かれた趣味の悪いホラー小説か何かで、プロットはとうに破綻していて、それで俺たちは未来が視えないってことくらい。

 なあ、はやくここから出せよ、出せ、出してくれよ。


 意地悪な神様を仮定して、思いつく限りの恨み言を吐くも、虚無である。

 なぜならば、ここが虚構であるか現実であるかにかかわらず、我々はつねに世界の内側に置かれる存在であり、死ぬ以外の方法で世界を抜け出すことは不可能だからだ。

 まだ人々が心の底から、天国や地獄を信じていた頃であったら、精神的な抜け道はあったかもしれぬのに。人間は知への欲望により、自らの逃げ道を塞いだのだ。


 ゆえに、汝は、世界を直視せよ。

 たとえ眼球が腐り落ちようとも。


 俺はバブル・バベルを克服するための、最後の戦いに身を投じる決意をする。



      ◆


      反


      証


      開


      始


      ◇



【問い】私たちの生きる理由を見いだせ。但し、世界から未来は失われているものとする。


 反論その1「未来の分からないことこそが、俺たちにとっての希望である」


 未来は予知できない。未来の出来事は予め決まっていると考える決定論は、量子力学の誕生以降、古い思想となった。未来が視えるなど、戯れ言である。ラプラスの悪魔は死んだのだから。


 未来は分からない。それゆえに希望である。


 電子は位置を観測すれば動きが分からず、動きを観測すれば位置が分からない。ハイゼンベルクの不確定性原理は、未来の正体がオバケであったことを解き明かす。我々が箱を開けるまで、シュレーディンガーのネコが生きているか死んでいるかは未知である。


 未知こそが希望。先の読めない物語のように、中身の見えない福袋のように、分からないからこそ俺たちは《生きること》を期待してワクワクできる。

 将来に可能性がある限り、俺は絶対に生きることを諦めない。

 未来が視えないからこそ、可能性は常に目の前に留まり続けるのだ。


 どうだ、バブル・バベル。

 これが俺の答えだ。

 もうてめえの死にたいウイルスになんかやられやしねえよ。

 チェック、メイトだ。


 勝ったつもりでいた。しかし俺は結局のところ、バブル・バベルを舐めすぎていたのだった。この程度の反証でバブル・バベルが撃退できるのであれば、ユキが、ミユが、負けるはずがないのだから。


 目の前の真っ黒な塊が、やがて人の形へと変わってゆく。それは最愛の妹、ユキとミユの姿をかたどっていた。

 禍々しい血の色をしたユキの双眸が、こちらをギロリと睨めつける。動揺するな、くだらない幻覚だ。怯える精神を奮い立たせる。


「未来の視えないことが希望? 将来には可能性がある? 先が分からないからワクワクできる? ふっ、冗談はやめてよ。おにいちゃん」


「な、なぜだ。この世界は蝶の羽ばたきひとつで竜巻が起こる。カオス理論が跋扈ばっこする、不確実で混沌とした世界だぜ。たとえ今後どれだけ科学が発展しようとも、未来が100%予知されることはあり得ない。可能性はつねに俺たちの味方だ」


「そういう話をしているんじゃないの」


 虚像のユキは、あきれたように首を振る。その一挙一動がリアルの妹を寸分違わずトレースしたもので、妹に対する冒涜を感ずる。やり場のない怒りをなんとか押し殺す。


「世界がどうとか量子力学がどうとか、どうでもいいの。今はおにいちゃんが生きる理由の話をしているの。には、可能性があるの?」


「っ……!!!!っ……あ、あるに決まってるだろ……、み、未来は誰にも分からないんだっ」


 今度は末妹のミユが前に歩み出る。

 いつしか俺自身に架空の身体が生まれ、暗闇はひとつの世界となった。夢のなかだからか、麻酔で動けないはずの身体を動かせる。

 俺の両手が、自分の首を絞めようとしてうずうずと蠢いていた。


「本当に? おにいちゃんがこれから内定を決めるはどのくらいあるのかな。恋人ができて、結婚できるはどのくらいあるのかな」


 ミユ、否、ミユの振りをした悪趣味な殺人ウイルスが、痛いところを突いてきた。


「うっ……いや……ゼロではないだろ。それに正社員になることや、結婚することだけが正解じゃない。フリーターでも独身でも、人それぞれの道があり、可能性があるはずだ」


「おにいちゃんはこれまで、自分の可能性を潰し続けてきたんだよ。志望校には入れなかった。理系の道を諦めた。青春は戻ってこない。子どもの頃からの夢も捨てた。内定も取れなかった。あったかもしれない可能性を捨てて、捨てて、捨てて、それでニートになったんだよ」


「ぐ……や、やめろ……反省は……しているんだ……俺はだからこれからは心を入れ替えて……」


「は? 今さらもう何をしても遅いよ。お母さんとお父さんは死んだ。ぼくとおねえちゃんも、人間じゃなくなった。どんなにあがいても、絶対に避け得ない、確定している未来がある。――、おにいちゃんは、死ぬ。絶望して死ぬんだよ」


 ミユが蔑んだ目をこちらに向けて、鋭く言い放つ。たとえそれが偽物の妹であったとしても、精神が、理性が、もう限界まで壊れかけていた。

 実体のない体で膝から崩れ落ち、闇のなかで気づけばすすり泣きをしている。


「頼む。もう……許してくれ」


「おにいちゃんを許してくれる神様なんて、家族なんて、もうどこにもいないんだよ。分かったらとっとと死んで」


 みぞおちに、抉られるような鋭い痛みが響く。


 死んで、死んで、死んで、と、ミユが死の呪言を繰り返しながら、うずくまる俺を何度も何度も蹴り上げる。

 その痛みはすでに現実のものを凌駕していたが、夢の世界であればこそ、俺には気絶することも回避することも許されない。


 そう、許されないのだ。許されない俺は、死ぬしかない。思考が、感情が、何が本当で何が嘘なのか、曖昧になって、自分でも自分が何者なのか分からなくなってくる。否、可能性を捨て去って、何者にもなれなかった俺は、きっとここで死ぬ運命なのだろう。


 絶望が――、支配する。

 どこで、自分は間違ったのか。


 いや、まだ諦めるのは早いはずだ。ヨロヨロと立ち上がる。



 反論その2「他者の存在こそが、俺たちにとっての希望である」


「あはははは、あははははははははは」


 腹を抱えて俺は笑った。それは狂気じみた笑い声であったが、おかげで正気に戻ることができた。


「何がおかしいの」


「いや。どうして気づかなかったんだろうなってさ。未来があるとかないとか、俺自身の可能性があるとかないとか、どうでもよかったんだ。俺はそんなもののために生きているんじゃあない」


「どういうことかな」


 ミユが険悪な顔で目を細める。それがどれほどに憎しみと軽蔑に満ちた眼差しであろうと、怖くはない。偽物なんかに、俺は負けやしない。


「人間ってのは、自分ひとりで生きてるわけじゃねーんだ。必ず誰かと繋がりを持っている。たとえ個々人の可能性がちっぽけなものだったとしても、人と人とがかかわり合うことで、無限の可能性が世界には広がる。俺は、絶望なんてしない」


「ふっ、コミュ障ぼっちで友だちもできなかったおにいちゃんが、いまさら主人公みたいな綺麗事を吐いても無駄だよ。人類はじきに滅びる。おにいちゃんは、ひとりぼっちになる」


「いいやならない。なぜなら、ミユとユキがいるからだ! 愛する二人の妹が、幸せになる世界を守るために、俺は生きる。バブル・バベル、はやく俺の体から出て行け。もういかなる幻惑も通じない。俺は確固たる、生きる理由を見つけた。自分のために生きるんじゃない。大切な人のために生きるんだ!」


 今度こそ絶対に、死への衝動に打ち勝った。妹のことを考えるだけで、全身から生きる喜びが溢れ出してくる。結局、俺は兄想いな妹たちに救われただけなのかもしれない。何はともあれ、これで――。


 安堵の笑みを浮かべた刹那、先ほどとは比べものにならないくらいのゾッとした冷たい空気が、肉体を、精神を包み込む。


「はは」


 ユキが口を小さく開け、声を漏らす。我慢していたらしき叫びは決壊し、笑い声の渦となって響き渡る。


「アハハハッハハハハハ、アハハ、アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ……、……ハハハ」


「何がおかしい」


 今度は俺が同じ質問する番だった。


「わたしたちが幸せになる世界を守るために? ばっかじゃないの」


「おまえたちじゃない。本当の妹たちがだ」


「じゃあ、おにいちゃんにはことを教えてあげなくっちゃね」


 ユキが腕を掲げる。視線を上げると、長柄の刃物が手には収まっている。嫌な予感がして逃げようとするも、背後からミユが抱きついてくる。

「ダメだよ。セカイを直視しなきゃ」


 小柄な妹の万力のような締め付けに、身動きできない。

 ユキが包丁を手に、歩み寄る。妖艶な笑みに、背筋が凍り付く。


「パンドラの匣を開放してあげる」


 ユキはそう言って、包丁を俺の心臓に突き立てた。



 深い漆黒が、再び俺を包み込む。

 セカイは、黒から、黒へ。



 回る。


 廻る。


 輪る。



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