25.Πανδώρα(パンドラの匣、あるいは希望とは何か)
「ああ。それは地下の第三実験室の鍵ね。どうして
ブロンドのロングヘアの少女、モモが言った。彼女もまた、右目に冷凍イカの瞳を移植している。
妹のユキと同い年とはいえ、女性と話し慣れない俺は、ドイツ人の美少女を前に緊張してしまう。廊下ですれ違ったとき、彼女の方から「グーテンモグモグ!」と声をかけてきたのだ。
「アキラは催眠治療プログラムを受けなくてもいいの? 少しは死までの時間が引き延ばせるわ」
モモは英語でそんな意味合いの質問を投げかけた。
催眠治療プログラム。自分をイカだと思い込むことによって、ニンゲンを対象とするバブル・バベルの呪いから外れる。その場しのぎの、対症療法。
「ははは、さすがに実の妹に催眠術をかけてもらうのは抵抗がありますからね。もっとも、世の中には妹に催眠をかけられてあんなことやそんなことをするシチュエーションに興奮する性的嗜好の人もいるようですが。あ、いや俺、そういう催眠ボイスには全然詳しくないですよ。風の噂で聞いただけですゲフンゲフン」
早口で弁解するも、モモは首をかしげてよく分からないといった表情をした。しまった、うっかり日本語で答えていた。しかし今の自分の語学力では、返答に適した言葉が出てこない。
くそう、ボキャブラリーの重要性! ボキャブラリーの重要性!
仕方がないので
「No Problem. I will never die. Because, I love my sisters.」
と言って決め顔でナイスガイポーズをする。
モモはかすかに微笑んで「そう。それなら試練を乗り越えなくちゃね」と言った。
試練、それは就職活動で挫折を味わった俺がクリアできるものなのだろうか。ともあれ、モモとはそこで別れ、エレベーターで地下三階へと降りる。教えてもらった『第三実験室』を探していると、今度はバーデン博士と出くわした。
バーデン博士は壁にもたれかけて立ち、咥えタバコから灰色の煙を揺らめかせていた。右目には黒い眼帯をつけている。
「実験台になる覚悟はできたかい」
左目で鍵を一瞥し、バーデン博士はタバコの煙を吐き出した。何の話か分からずキョトンとしていると、博士は言葉を続ける。
「なんだ。
「いえ。正確には、妹たちが幸せに生きられる世界を守りたいんです。ただ、それだけです。全人類を救えるとは思っていません」
「謙虚さを褒めたいところだが、あいにく難しい望みだね。眼球移植を終えた今となっては、彼女らが生きる世界はないよ」
バーデン博士は一度言葉を切って、それから右目の眼帯を取り外した。
「我々が《冷凍イカの瞳》と呼んでいるこれは、その名のとおり、自分が人間であるという認識を捨てさせ、バブル・バベルを回避する。その結果として、現実世界に没入することができなくなる」
「
離人感・現実感消失症。解離性障害の症状のひとつとして分類される。『自分が自分である』という認識の消失、そして現実感覚の喪失。移植手術の性質上、それが自己認識に少なからぬ変容をもたらす可能性は、もちろん覚悟していたが。
「ふむ、やはり体験してみないことには分からぬか。その鍵で、ここの扉を開けるといい。君は否が応でも、パンドラの匣の中身を見なければならない。それがバブル・バベルの正体であり、君に課せられる試練となるだろう」
パンドラの匣。この世のありとあらゆる災禍を封じ込めた箱とされ、ギリシア神話の最高神、ゼウスの計略により箱の中身が世界へと降り注いだ。すなわち伝染病が、飢餓が、戦争が、悪事が、この世に広がることとなる。
しかしパンドラの箱には最後に《希望》が残った。だから人類は未来に絶望せず、心に希望を持ち続けられたのだった。
ミユとユキが言い残した「パンドラの匣は開かれた」はゆえに、バブル・バベルによって人類から《希望》が奪われた事実を指し示すものだと理解した。
しかし、だから何だと言うのだ。
それが果たして、試練とやらと何の関わりがある。
何か、大きな見落としがある。
俺はバーデン博士に礼を言って、鉄製ドアの鍵穴に、ユキからもらった鍵を差し込んだ。鍵はガチャリと音を立て、左に回る。
「健闘を祈るよ、少年。生きて戻れたなら、
二十ニ歳は少年に入るのだろうかと思いながらも、バーデン博士と別れの握手を交わす。というか、まるで俺がこれから死にに行くような雰囲気だが、やめてくれよ。肝試しは苦手なんだ。
部屋の中に入ると、 背後でひとりでにドアがしまった。天井の蛍光灯が一斉に光り、眩い白に目を細める。
「 来ちゃったんだね。おにいちゃん」
「ああ。試練とやらを受けに来たぜ」
部屋にいたのはミユだった。死神のような黒衣をまとった妹だった。
ミユはこちらに視線を向けて、少し微笑みを作ったが「あ」と小さく呟いて、手を頬に持っていく。
右目からは 今もとめどなく涙が流れ落ちているのだった。
「最期に、遺言を聞かせてほしいな」
「悪いが言い残すことは何もない。ここで死ぬつもりも、妹たちを泣かせるつもりもないからな」
「ふっ、そうだね。くだらない茶番は、とっとと終わらせてしまおう。ぼくはこれから、おにいちゃんにウイルスを投与し、殺す。世界を救いたかったら、生きて戻ってきてね」
バブル・バベルに感染し、いわゆる《死にたい》という衝動を体験すること。そして、精神の力でそれに打ち勝つこと。
ワクチンも治療薬も作れない状態で、唯一の望みとなり得るのが、そんな無茶苦茶な力技しかない。
人間そのものの持つ、僅かな可能性に賭けるのだと、ミユは説明してくれた。そしてバブル・バベルを知る者のなかで被検体となれるのは、未だ人間である俺しかいない。
ゆえに、強制的に俺をバブル・バベルに疾患させる。拘束し、自殺できないようにした上で。
覚悟ができていたと言えば嘘になるが、予感はあった。遅かれ早かれ、俺はやがてバブル・バベルを発症するのだ。ならば今此処で、試練を乗り越えるしかない。
なあに、元より未来なんか見えなかったニート人間だ。《未来が視えない》ウイルスになんて負けやしない。
拳を固く握り、覚悟を決める。
何よりも、目の前で泣いている妹のために。
ミユが説明を続ける間にも、実験の準備が着々と整ってゆく。
まず俺は、固いベッドに仰向けに寝かされ、胴体、両腕、両脚を革製の拘束具で縛られる。こうでもしないとすぐに自殺しちゃうから、とのことらしい。
次に、ゼリー状の液体を流し込まれる。舌と喉を麻痺させる薬らしい。
最後に静脈注射を注入されると、全身から力が抜け、指先さえ動かない。舌にも力が入らず、話すことすら叶わない。だらしなく開いた口元から、唾液が流れ出る。
「これでおにいちゃんは、舌を噛み切って死ぬこともできなくなった。でも油断しないでね。たとえ身体が動かなくても、人はその気になれば死ねるのだから」
あとは純粋に、精神との闘いになる。ミユはそう付け加えた。
初めのうちこそ(シスコンも泣いて羨む妹とのSMプレイだぜ!)とか(バブみの境地、お医者さんごっこだぜ!)とか思考して、気を奮い立たせていた俺だったが、今や膨張しすぎた不安に失禁してしまいそうだ。
少し待ってほしい、と声をかけようにも、麻酔の効いた俺は口を動かすことができない。心なしか意識もぼーっと霞んでいく。
「眠ってはダメだよ。二度と目が覚めなくなるから」
ミユは物騒なことを言って、大きな試験管を取り出す。真っ黒な液体のなかに、ちらりと浮かんだのは、見間違いでなければヒトの眼球であった。
「さあ。おにいちゃんにはこれを飲んでもらうよ。ぼくの左目から摘出した、ぼくの眼球を」
医療用手袋で掴むそれは、紛うことなき人間の眼球。
かつてニンゲンだった、妹の左目。
驚愕し、混乱し、錯乱し、軽いパニックに陥る。おい待てそれはいくらなんでも。目をいっぱいに見開いて、必死に抵抗しようとしても、体はぴくりとも動かない。
ミユは冷凍イカの左目で俺を覗き込んで、笑みを浮かべる。右目には未だたくさんの涙を溢れさせたまま、不釣り合いに笑うのだ。
「おにいちゃん、ツイッターに呟いていたよね。『眼球舐めには頽廃的美学がある。ジト目キャラの○○ちゃんの眼球ペロペロしたいぜ』って。良かったね。おにいちゃんはこれから、眼球ペロペロどころか、妹の眼球をモグモグゴックンできるんだよ」
ま、待てどうして俺のツイッターアカウントが特定されているんだ。そもそもあれはネタであって……ってそうじゃない。やめてくれ。俺はそんなフェティシズムは持ち合わせていない。
口を閉じて対抗しようとするも、その力さえ奪われている。今の俺は、ベッドの上で涎を垂らして、妹が眼球を食べさせてくれるのを待っている、どうしようもなく救いようのない、愚かな愚かな兄であった。
「どうしようもなく、救いようのない? それはおにいちゃんじゃなくて、この世界の方だよ」
覚悟ができていないなら本当に死んじゃうよ、とミユは低い声で言った。
俺の心を読んでいるのか!? どういうことだ、冷凍イカの瞳を移植すると、テレパシーに目覚めるのか?
バーデン博士の言葉が思い出される。移植後は『現実世界に没入することができなくなる』と。つまり現実とは異なる世界が存在しており、妹たちはそこからの電波か何かを受信し――。
「自分の生きる世界から目をそらすな!!!!!」
それは初めて聞く、ミユが本気で怒った声だった。
思考が真っ白になる。何も考えられなくなる。
視界が滲み、妹の姿がぼやけてゆく。
それが自分の涙のせいであることを理解できない。
ミユは抱きつくようにベッドに乗りかかり、俺の胸のうえで小さな声をもらす。
「ごめんね。必ず、生きて帰ってきてね」
最後にそう言って、左手に持っていた眼球を俺の口へと押し込んだ。
熱い。舌が
眼球はまるで吸い込まれるように、奥へ奥へと吸い込まれてゆく。
心臓が爆発するかと錯覚するほどに、鼓動が早くなる。
ゴクン。
と、自動的に、機械的に、喉が眼球を飲み込んだ。
「ごめんね」
自分の耳がミユの声を認識したのは、それが最後だった。
刹那、視界が暗転する。
否、これが最後であって良いはずがない。
最後が「ごめんね」などという悲しい言葉であって良いはずがない。
そのような言葉を言わせる兄で、あって良いはずが、ない、のだ。
しか、し――。
黒に染まる世界のなかで、もうひとつの思考が、悪魔が、囁きを始める。
未来が、視えない。
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