24.Διόνυσος(セカイに、狂気と混沌を――)

 セカイをぶっ壊そう!と提案した妹の有言実行スピードは脱兎のごとく、これが夏休みの宿題や就職活動や連載中のWeb小説であれば早く終わらせるに越したことは無いものの、あいにく、俺らが終止符を打とうとしているのはセカイであった。


「わーい、ウイルスの培養に成功したよー」


 と、ミユが目をランランと光らせて、それこそ自由工作の宿題を完成させた小学生のような無邪気さで、ともかく禍々しいオーラを放つ試験管を持ってきた。

 まだ、眼球移植手術を終えて三日しか経っていない。あれから妹はずいぶんと元気を取り戻したようで、今では車椅子なしでもスキップできる。


 おにいちゃん見て見てー!と試験管をぐいぐい押しつけてくるものだから、俺はひぇぇ……と後ずさりして仕舞いにはベッドに尻餅をついてしまう。

 試験管には墨汁のごとく真っ黒な液体が四分の一ほど入っており、ゴム栓はしているものの、それが《バブル・バベル》の正体だと思うと末恐ろしい。


「ひぃぃい、や、やめろ。もし俺が感染したらど、どうするんだ」


「え。でも『俺なら《バブル・バベル》に余裕で勝てるぜ!』って親指を立てて決めポーズで宣言したんだよね。おねえちゃんに」


「言ってない言ってない。いや、言ったのはたしかだが、あれは話の流れというのがあってだな」


 三日前の手術の日、俺はユキにこう言った。『バブル・バベルには勝てそうな気がする』と。

 それもかなり自虐的な意味合いの篭った台詞だったはずだが、どういうわけか妹はそれを自信満々の発言と解釈したらしい。そういえばバーデン博士にも『死にませんよ、俺は(ドヤッ)』とハッタリをかましたんだっけ。


「違うよ、おにいちゃん」

 ミユはしかし、まるで俺の心を見透かした風に、言葉を続ける。


「おねえちゃんも、ぼくも、心の底から信じているんだよ。敬愛する兄ならばきっと、バブル・バベルにも打ち勝てるだろうと。だからね、おにいちゃん。に不足しているのは、自分自身を信じる意志だよ」


「自分を、信じる……」


 そんなのは買い被りだと言いたかった。二人の妹から敬愛される資格が、器が、無い内定クソ雑魚ニートの俺にあるだろうか。

 しかしそれを否定するのは、自分を信頼する妹たちまでをも否定するのと同義だ。


 ミユは目の前で、試験管をぷらぷらと振って液体を揺らす。唐突に、ミユの顔から感情が消えたような気がした。ユキもたまにこの状態になるのだが、自分のよく知るはずの妹がこうも簡単に変容してしまうのは、心が痛む。


「ぼくたちは今から、バベルウイルスを世界中に拡散する。パンデミックを加速させ、人類を滅ぼす」


 打って変わった淡々とした口調で、ミユが言う。漆黒の左目には、一欠片の光さえ残されていない。


「待て待て、ミユは人類を救おうとしてるんだよな? そのために今までずっと戦ってきたんだよな」


「残念だけどね、もう手遅れなんだ。このまま少しずつ、じわじわと人類が滅ぶ姿を見るよりかは、一気に殺してあげたほうが良心的だよ。言ったよね? パンドラのはこは、すでに開かれた。もはや人類に、希望はない」


 冷たい声だった。ミユの台詞に、俺はふとした違和感を覚える。

《パンドラの匣》は何度か耳に挟んだフレーズだ。遊園地に行ったときも、ミユはパンドラの匣とか何とか言ってはしゃいでいた。

 けれどもその言葉に対する認識が、眼球移植手術の前後では本質的にズレている気がする。何か致命的な矛盾点を見落としていると、直感が訴える。


 だが今は、暴走しつつある末妹を止めなければ。


「まあ落ち着こうぜ。考える時間はまだある」


 ベッドに仰向けに寝転がると、頭側の壁の窓から澄んだ青空と流れる雲が見える。台風一過の晴天だ。考える時間はある。行動する時間があるかは分からないが。


「そうだ。ウイルスを培養できるってんなら、ワクチンが作れるんじゃないのか? ゾンビ映画でもハッピーエンドになるパターンのやつは、たいていワクチンが決め手になっている」


 その場しのぎの思いつきで発言したのだが、それは妹をかえって不機嫌にさせてしまったようだ。ミユは先よりも一段と低い声で、鋭く返す。


「もう気付いてるんだよね。無駄話はしたくない。部屋に戻る」


 ミユが踵を返し、それからドアを閉める音が聞こえる。俺は仰向けに寝転がったまま、ひたいに手の甲を乗せた。


(駄目だな……俺は……)


 ワクチンが作れないことくらい、薄々勘づいていた。

 バブル・バベルに感染しても、おそらく免疫作用が働かないのだ。むしろウイルスが免疫抑制ならぬ《免疫無効》的な効果をもたらすからこそ、眼球移植をしても拒絶反応が一切生じない。ゆえにワクチンで免疫を獲得するなど、はなから不可能な話。

 あくまで素人の推論なのでどこまで当たっているかは知らないが、もしもワクチンに希望があるのなら、それをバーデン博士やミユが知らないはずがない。



 チョコ味のシリアルで昼食を軽く済ませ、アジトを出て、周辺をぶらぶらと散歩する。といっても周りは山と畑しかない。


 雨上がりの炎天下で、白マントの男たちがくわで畑を耕していた。


 彼らはバーデン博士やミユが《組織》と呼んでいる謎の宗教団体のメンバーである。ユキの説明によると、彼らは皆《催眠治療プログラム》によって、自分のことを冷凍イカの末裔だと思い込んでいる。


「冷凍イカの瞳に祝福あれ!」

 男達は喜びに満ちた声を上げ、リズム良く鍬を振り下ろす。頬にたくさん汗を滴らせる顔はしかし、労働の喜びで満ちているようにも見える。


 マインドコントロールによってバブル・バベルの発症を遅らせるための、悪く言えば人体実験。

 ソデイカの瞳さえ手に入れば、彼らにも眼球移植の権利が与えられる。《ノアの方舟》に乗ることができる。ユキはそのように話してくれた。


 世界が危機にあるってのに、俺だけが未だにぐーたらニート生活に身をやつしているのは大層居心地が悪い。少しでも気を紛らわすために、このシュールで狂気な農業祭に俺も参加しようかしらん。


「あの、俺も手伝わせてもらっていいですか?」


 白装束のひとりに恐る恐る声をかける。

「これは! 我らが女神、海悠様の御賢兄ごけんけい! アキラ様ではありませんか。なんと畏れ多きこと……」


 白マントを身に纏った、屈強な赤ひげの大男が、深々と頭を下げる。

 想像の斜め上のオーバーリアクションに慌てる。


「い、いや俺はそんなたいしたものでは。そんなお構いなく」


「では、アキラ様にはこれを献上いたします。限りある生命を摘む行為は、神に最も近しい者にのみ赦される特権ですからな」


 大仰な言葉と共に手渡されたのは、何の変哲もない軍手とゴミ袋であった。どうやら俺は、その辺の雑草を引っこ抜いてゴミ袋に捨てる係をすれば良いらしい。物は言い様である。

 その後一時間ほど、俺は組織の男たちと夏の農作業に勤しんだ。ひたすらに草むしりをしていただけだったが、不思議と心地よい達成感だ。嫌なことも忘れて、楽しく汗を流せた。


 赤ひげの男と雑談(昨日見た巨大ナメクジの話)に興じていると、ユキが手を振ってこちらにやってきた。片手には大きなバスケットを持っている。


「みんなー、おつかれさま。モモと塩おにぎりを作ったの。休憩にしよっ」


 夏の空に、白ワンピースがとてもよく似合っている。俺たちはアジトの裏側にある屋根のあるテラスで、食事休憩を取ることになった。


「なんとありがたきこと。天使様のお恵みだ」


 大男が嬉し泣きをしながら塩おむすびを頬張っている。ミユが女神様で、ユキが天使様と呼ばれているらしい。ユキはともかく、黒衣をまとったミユはイメージ的には死神か魔女のほうが近いような気もするが、口が裂けてもこの場では言えまい。


「あ、おにいちゃんも来てたの? 食べる?」


 バスケットをこちらに向けてくれたので、ありがたく塩おにぎりを戴くことにする。


「おう、サンキュー」


 口に入れてみるとたしかに、塩味が素晴らしい塩梅で効いている。天使の恵みという比喩も、あながち大げさではない。

 パンデミックだかゾンビウイルスだか知らないが、こうして過ごす分には至って平穏で、俺たちは幸せなのかもしれない。


「ミユは培養したウイルスをばらまいて人類を滅ぼすつもりらしいぞ」


 そばにいるユキに、小声で耳打ちする。ユキは小さく頷いて、俺に左目を向ける。


「知ってる。それは人類に対する救済措置なの。私たちはこれから、存在霹靂エルアイクニスの嵐を起こす。どのみち何もしなくても、人は滅ぶの。じきに第三次世界大戦が始まる。人間と人間が殺し合い、たくさんの血が流れる。だったらバブル・バベルを一刻でも早く拡散して、無駄な争いを早々に終わらせた方がいい。私たちはノアの方舟に乗って新人類の誕生を待つの。死に至る病を克服した《超人》の誕生を」


「でもな。まだ先のことも分からないのに、ちょっと死に急ぎすぎじゃねえか」


 俺はなるべく慎重に言葉を探す。ユキもミユも察しが良い。虚言やはったりはすぐに見抜かれる。俺は俺自身の、本当の気持ちで妹と向き合わなければいけない。今度こそ。


「たしかにユキの言うとおり、人は滅ぶのかもしれない。戦争が起こるのかもしれない。バブル・バベルも、きっと止められないんだろう。でもな、少し考えてみてほしいんだ。だから、何なんだってことを。

 つまり、バブル・バベルがあろうがなかろうが、条件は変わらないんだ。

 俺はもしかしたら、あした交通事故に遭って死ぬかもしれない。心臓発作で倒れるかもしれない。未来は不確定で、不完全で、何が起こるかは誰にも分からない。

 だからこそ希望を捨てずに、今を精一杯生きることが大切なんじゃないか。仮にバッドエンドが避けられないのだとしても、俺たちは《演技》してやればいい。自分が死ぬそのときまで、楽しく踊り続けるんだ。それが、幸せってやつなんだと思う」


 ついさっき、組織の男達と農作業をしていて分かったのだ。たしかに彼らは催眠療法によって、自分を冷凍イカの末裔だと思い込んでいる。けれども彼らはそのことを心底楽しんで、演じているのだ。演じて、没頭している。だから幸せでいられる。


 俺らは生まれた瞬間から、世界という巨大な劇場に投げ込まれた役者に過ぎず、日常生活を演じている。

 演劇には必ず、終わりが訪れる。そのとき人は皆死ぬのかもしれないが、演じる間は忘れてやればいいのさ。気の利かない死神のことなんて。



 今ここにある《生》に集中せよ――。



 少なくとも、これが俺の見つけた、たしかな答えらしき指針だった。

 ユキは目を伏せて、静かな声で言う。


「イカの眼を移植する前のミユちゃんだったら、おにいちゃんの考えには賛同したと思う。でも」



 パンドラの匣が開かれたのだから、わたしたちは授けなければいけないの。セカイに、狂気と混沌を――。


 ユキは最後に言い残して、俺に銀色の鍵を手渡した。おそらく、人類が開けない方が良いであろう、秘密の鍵を。

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