23.Ungeziefer(変身)

 空からナメクジが降ってきた。それも一匹や二匹ではなく、数百匹のナメクジが、天から降り注ぐのだ。俺は狂気の笑みを湛え「世界の終わりだー」と空に向かって叫んでいた。


「おにいちゃん?」「おにいちゃん?」


 妹たちの声に振り向くと、地面には直径二メートルを超える大きなナメクジ二匹が、触覚をウネウネと蠢かしていた。


「おにいちゃんはまだニンゲンで消耗してるの? はやくニンゲンなんてやめて、ナメクジになろうよ」と、ナメクジはミユの声で言った。


 和太鼓を一斉に打ち鳴らすような雷鳴。目の前が何度も眩く光る。存在霹靂の稲妻に打たれたとき、自分も人間を捨ててナメクジに変質してしまうのだろうか。


「俺は人間なんだ!!!!」と大声をあげて起き上がったとき、そこはベッドの上だった。枕元に置いたスマートフォンの時刻表示を見ると、まだ午前三時を回ったところだった。

 暗がりのなか、両手、両足がちゃんと人間であることを確認し、ほっとため息をつく。


 窓の外が一瞬光ったかと思うと、ゴロゴロと雷の音が鳴った。台風が関西圏に近づいているらしい。天気が荒れる前に遊園地で遊べて良かった。


 ぼんんやりとガラス越しの空を眺めて、違和感に気づく。窓に、謎の黒い物体が張り付いているのだ。何だろう、と思いタオルケットから抜け出し、窓際に近づく。

 暗くてよく見えないなと目を細めて顔を寄せていると、また雷がピカッと光った。


「ひぃぃぃ」


 思わず後ずさる。それから床に尻餅をつく。

 一匹の大きなナメクジが、窓の外に張り付いているのだった。

 ナメクジは心なしかこちらを見て(目はあるのか?)触覚をうにょうにょと動かしている。


「おにいちゃん、なにしてるの?」


「ひぃぃぃぃ、ナメクジがしゃべったあぁ」


「さすがのわたしもナメクジにはなりたくないかな」


 振り返ると、ユキがドアを開けて立っていた。冷凍イカの左目が、暗闇のなか仄かな明かりを灯している。足元まで伸びた丈の長いワンピースの白色が、ぼうっと浮かび上がる。


「ミユちゃんの手術が終わったよ。だから呼びに来たの」


「お、おう……、そうだったな」


 そうだった。ミユは遊園地でバブル・バベルを発症し、バーデン博士のアジト(?)に戻ってからすぐに眼球移植手術を受けたのだった。

 今寝泊まりしているのはおそろしいほどのド田舎の施設で、本当に大丈夫なんだろうかと不安で仕方がなかった。

 バーデン博士の話によると、ここは元々市営の病院で、村が廃れて病院が潰れてからは《不死の会》とかいう謎の宗教団体に買い取られ、不死技術の研究設備として使われていたらしかった。その繋がりで縁があり、クライオニクスの権威であるバーデン博士が施設を買い受けたとのこと。

 このあたりは過疎化が進んだ限界集落で(自給自足さえできるのであれば)恐怖のパンデミックから身を隠すのに最適の避難場所といえた。自家発電設備も整えてある。


 俺はユキの後に続いてエレベーターに乗り、地下三階へと降りる。

 八月の熱帯夜だというのに、地階は不気味なほどに肌寒い。


「これで人間は、お兄ちゃんだけになったね」


 ユキとミユ、モモとバーデン博士。ソデイカの眼球を移植した四人は、人間であることの意識を捨て、イカとして生まれ変わった。


「どうだかな。俺も本当は、人間じゃないのかもしれない。なんつーか、無い内定で大学卒業して、晴れて無職になった朝さ、カフカの『変身』に出てくるグレゴール・ザムザになった気分だったんだ」


「つまり、自分がどうしようもないクズで、ヒトデナシで、醜いクソムシになってしまったってこと?」


「いや……そこまでは言わないが……。嗚呼、俺は社会人になれなかったんだな。まっとうな人間になるためのイニシエーションから脱落してしまったんだなって。就活失敗しただけなのに、どうしようもない喪失感だ。まぁだからってわけじゃないが、俺は少なくとも《バブル・バベル》には勝てそうな気がする。未来なんて、元から無かったんだしな」


「でもね、おにいちゃん。虚無主義でも刹那主義でも快楽主義でも、きっとバブル・バベルには勝てないと思うの。神様や未来に代わる、生きる指針を見つけないことには」


「生きる指針、か……」


 ユキ、いわく。ソデイカの眼球移植手術は、問題の根本的な解決方法ではなく《逃げ》の手段なのだと。自分が人間であるという認識から逃避し、発症を免れるだけの対症療法。

 ゆえに人類絶滅を避けるためには、我々は気がつかなければならない。新しい価値観に、生きる理由に。


 最奥の部屋に辿り着く。廊下を緑色のランプが照らしている。

 蛍光表示には『第三生体実験室』と書かれてあった。


「覚悟はいい?」


 頷くよりほかない。

 ユキがドアの右下にある窪みに足をかざすと、金属製のドアが横にスライドして開く。中ではバーデン博士と白衣を着た四人の男たちが、立って談笑していた。

 早口の英語でとても聞き取れないが「アンビリバボー」「オマイガー」と不穏な単語が耳に入ってくる。


 バーデン博士は俺たちの姿を認めると、他の四人の男に二言三言、何かを指示した。男たちはジェスチャーで了承の意を示し、実験室から出て行った。

 それからバーデン博士は小さくため息をついて「待たせたね」と流暢な日本語で俺たちに言った。


「あの、ミユは大丈夫なんでしょうか」


 実験室の中央には手術台らしきものがあるが、もぬけの殻だ。いくつかあるモニターもすべて電源が切られている。


「心配いらない、手術は成功した。彼女は今、着替えに出ているだけだ。モモが一緒についている」


「そうですか。本当に、ありがとうございます」


 安堵の息をついて、深々と頭を下げる。バーデン博士は落ち着いた表情のまま、首を横に振った。


「いや、礼なら先ほど出ていった彼らに言いたまえ。ケイシー、ブルーノ、ヘンリー、ウォーレン。なんとも物好きで、子供じみた、それでいて非常に優秀なドクターだ。彼らがいなければ眼球移植手術は成功しえんよ。ただの生物学者に過ぎん私は、見ていただけさ」


「さっき、アンビリバボーとかオマイガーとか言っていたのが聞こえたのですが」


「ああ。あれは眼球移植で拒絶反応が出なかったことに驚いていたのさ。うまくいけば副作用のない免疫抑制剤の開発に繋がる。実現するならノーベル生理学・医学賞は間違いないだろう」


 もっとも、その頃まで人類が生き残っていればの話だがね。と、バーデン博士は皮肉の笑みを浮かべて付け加えた。

 とある忍者漫画では衣服を交換するような気軽さで《眼球の交換》が行われていたが、角膜だけならばともかく眼球丸ごとの移植は、現代の医学ではまず不可能と考えられている。移植手術には拒絶反応と適合性の問題がつきまとう。ましてやイカの眼球を移植しようなど、狂気としか呼べない領域。

 バブル・バベルが学会でトンデモ扱いされる理由が分かった気がした。馬鹿げているのだ、何もかも。


「じゃあその馬鹿げたセカイをぼくたちでぶっ壊そうよ、おにいちゃん」


 心を読んだようなその声は、ミユのものだった。

 ドアに目を向けるとスライドが開き、ミユが入ってくる。

 ユキとは対照的な、漆黒のワンピース(それは魔女装束と呼んだ方が正確であるが)を身につけて、ミユはくるりと回って妖艶な笑みを浮かべる。


「パンドラのはこは開かれた。セカイに、狂気と混沌を――」


 妹の左目は、冷凍イカの瞳。

 どこまでも冷たく、未来よりも遥か遠くを見通す。

 すべてを諦めたように絶望し、それでいて死者が蘇って光を浴びたときのような輝きで満ちた、この世のものとは思えぬ瞳だった。

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