20.Ereignis(我々が存在する理由)

『おにいちゃん! そこにいるんだったら返事くらいしてほしいな』


 妹、ミユの声が聞こえた。

 幻聴にしてはやけに現実感を伴った音声だ。

 警官は慌てて袋から携帯電話を取り出すと、受話口じゅわこうに耳を当てた。


「もしもし、海悠さんですか! いまどちらに……」


 ミユが何か答えると警官は青ざめて俺の方へとやってきて、携帯電話を目の前に突き出した。


「代わる。余計なことを話したら、分かるな?」


 低い声で言った。


「おい、それは証拠品だぞ! それに参考人との連絡は……」


「今すぐ兄と代わらなければ自殺すると言っています」


「ぬぅ、だがあの携帯電話は……」


「命には代えられません」


 俺は混乱する思考のなか携帯電話を引ったくった。


「ミユ! ミユなのか!」


『まったく、ぼくに心配させないでよ。おにいちゃんが行くべき場所は刑務所じゃなくてハローワークでしょ?』


「すまない、俺がお前たちを殺してしまったばかりに……」


『勝手に殺さないで』

 電話越しにミユがくくくと笑った。


『まさか誘導尋問に引っ掛けられてあらぬ自白をしてないよね? フォールス・メモリー・シンドロームだよ。偽りの記憶症候群』


 フォールス・メモリー・シンドローム。

 90年代のアメリカでは『記憶回復セラピー』なる催眠療法が流行した。そこでセラピーを受けた少なからぬ女性が「自分が幼少期に、親から性的虐待された」というトラウマの記憶を思い出す。結果として、父親たちは次々と児童虐待の罪で裁かれることとなった。

 ところが、そのトラウマの記憶は、偽りであった。催眠セラピーによって植え付けられた、虚偽記憶だったのだ。

 心理療法を悪用すれば、無実の人間にも、罪を犯したという偽りの記憶を思い出させることができる。


 ちくしょう! 純粋無垢で天使のような心を持った、ピュアでファンタスティックな俺は、警察官の卑劣極まりない誘導尋問にまんまと引っかかったってわけだ。


「ミユ、本当に、生きているんだよな?」


『ごめんね、心配かけたのはぼくの方だったね。おねえちゃんも無事。イカにはなったけどね。おにいちゃんもニートなんてやめて、イカに就職するといいよ』


「そうか、とにかく無事なんだな、……良かった」


 絶望から一転して心のなかを安堵が埋めたあと、頭を一抹の違和感がかすめた。


 良かった、たしかに良かった。それは間違いない。だがこれはハッピーエンドなのか。


 俺はまだ何も妹たちにしてやれていない。兄としての、いや俺個人の役目を果たせていないような気がした。

 バブル・バベル? 人類の終焉? 冷凍イカの瞳? 滅びゆく世界のなかで、希望のない世界で、未来の視えない世界で、どこでどのように生き延びたとしても大団円とはなり得ないのではないか。


 虚無の疑問の数々が、思考を渦巻いた。

 生きることと死ぬことの境界がひどく曖昧になっているような感覚。俺が、妹が、ここに存在して生きているという確証が欲しかった。我々がこの馬鹿げた世界に住むための大義名分を求めていた。俺が何のために生まれて何を使命として生きるべきなのかを教えてくれる神を探していた。



『難しく考える必要はなかったんだよ。ぼくは今しがたそのことに気づいた』

 妹は言った。


『言ってみれば、ぼくたちは未完原稿のなかを生きているんだ。いつどんな災難に見舞われるかも分からず、明日死ぬことだってあるかもしれない。決定論あるいは運命論のデーモンは今日こんにちではちからを失った。ぼくらは、不確定で不完全な渾沌カオスの世界に在るんだよ。ゆえに、未来が視えないことは、希望なのさ。パンドラのはこに残された人類最期の希望』


 俺はよく分かったようなよく分からないような気持ちでいた。たしかに人生に決められた運命プロットがあり、その未来が視えてしまうのであれば絶望しかないだろう。

 しかし俺たちが問題としてきた《未来》とは明日の株価が予知できるといった直接的な意味ではなくて《希望》《目標》《使命》《生の指針》等を含む《未来》ではなかったのか。


 人類はまもなく滅びるし、俺もやがて死ぬ。未来が無意味だからといって、過去の想い出にすがり付いたり、あるいは刹那の快楽に身を委ねるのは間違っている気もする。どうすればいいんだ。我々はどう生きれば……。



『ええい、まどろっこしいなあ』

 ミユは痺れを切らしたようだった。


『ともかく、まずは望むことのできる人間になりたまえ! そして、君が望むことをやれ!!』


「俺が、望むこと……?」


 そうだ、俺は何を望んでいるんだ。人類を危機から救うことか? いや、違う。こんな馬鹿げた世界など勝手に滅びてしまえ!

 では、就職活動を成功させることか? いや、違う。俺は働きたくない!!


 仮象や虚飾ではない、心のうちから沸き起こる欲望を探せ、理性の耳を研ぎ澄ませるのだ。


「俺は、俺は……」


『なに?』


「遊園地に行きたい!!!」


 俺は大声を出した。心の底から出た叫びだった。


 そう、遊園地だ。妹たちを遊園地に連れてってやるのがひそかな夢だったのだ。


 だが行こう行こうと思っているうちに、妹はすっかり成長してしまい遊園地を純粋に喜ぶような年頃ではなくなってしまった。俺はずっと気に病んでいた。死の間際に(ああ、あのとき妹と遊園地に行っていれば)と後悔するかもしれないことを。


『よし決まりだね。ぼくも遊園地に行きたい』

 ミユが明るい声で言った。


 俺もすっかり嬉しくなって、浮足立って取調室を出ていこうとした。


「おいどこに行く」

 扉の前に立っていた警官に腕を掴まれた。


「遊園地に行くんです」


「ふざけてるのか」


「俺はもともと無実の罪だ。俺には妹と遊園地で遊ぶ権利がある」


 腕を振りほどこうとすると、その場にいたもう二人の警察官が逃がさないようにと取り囲んだ。だが俺は不敵な笑みを浮かべ、警戒する彼らに顔を向ける。


「ふっ、所詮貴様らでは俺を捉えることなどできない」


 就職活動における幾多もの面接を経て磨き上げた究極スキル《はったり》を発動させる。

 空いた方の腕でミユの携帯電話を眼前に突き出し、叫んだ。


「今すぐ離れろ!!」


 警官たちは互いに顔を見合わせ、頷いた。じりじりと後退し俺から距離を取った。


「知っていたのか……」


 ひとりが悔しそうに歯噛みした。


「当然だろ。携帯電話こいつは爆発する。起爆スイッチには俺の指が触れている。少しでも近づけば、ここは木っ端微塵となるだろう」


「ちくしょう」


「くくく、馬鹿め。きちんと爆弾処理しておかないからこうなるのだ。さては中のデータが物理的に消去されるのを恐れてパスワードの解析に時間を食われたな。起爆を回避して携帯のロックが解けるならそれに越したことはない。だから貴様らは妹の仕掛けたダミーの暗号にまんまと引っかかったのだ」


「ダミーだと?!」


「ミユの携帯電話は知っての通り、画面を開くと4ケタのパスコード入力画面が表示され《三回Passを間違えると爆発》の文字が点滅する。そして試しにデタラメな数字を入れてエンターキーを押すと《あと二回間違えると爆発》の表示に切り替わる。

 だがこのカウンターは、電源を切ってもう一度入れ直すと三回にリセットされる。つまり事実上、何回でもパスワードを試すことができる仕組みとなっているのだ。

 これは携帯電話を盗んだ相手がなるべくパス解析に時間を割くようにするためのミスリードだ。ボタンがわざわざダイヤル式になっているのも、相手の時間を奪うことのみを目的としている」


 意気揚々と解説するもしかし、半分以上は憶測に過ぎなかった。


「そもそも俺の偉大なる妹が、たった四桁、一万分の一の確率で突破されるようなセキュリティを作るわけがないだろう。携帯電話は静脈・指紋・声帯・虹彩等の生体認証システムを掲載しており、おそらくミユ自身の手によってしか起動できない。そして携帯電話がミユの手元にないときは、それは発信機・盗聴器・遠隔爆弾の役割を果たすことになる。

 こちらからはいかなる手段をもってしても内部情報を覗き見ることはできず、逆にミユの側からはいくらでも外部情報を探知できかついつでも物理的にデータを消去できるようになっている。ふっ、さすがは俺の妹だな」


『えへへ、おにいちゃんにしては上出来かな。じゃあ一足先に例の遊園地に行って待ってるからね』


 ミユは嬉しそうに言って通話を切った。


「じゃ、失礼します」


 構っている暇はない。

 取調室を出て、廊下を進む。


 追ってくる者は、いなかった。



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