18.Nihilismus(虚無感に沈む世界に投げ込まれ)

「おねえ、ちゃん?」


「ミユウ……」


 振り返った少女は柔らかに微笑んで、透き通った双眸そうぼうを見開く。


 左目は、冷凍イカの瞳。


 それは崩落した地の底から天に向けて放たれるくらき眼差しであり、人間を深淵へといざなう稲妻のような黒い光だった。


「用心してね。"君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む" 私はもう、人間には戻れないから」


 少女の着る雪のように白いワンピースが、しんしんと音無き音で嘆いていた。

 日野ひの雪葉ゆきは。ぼくの、姉だった、ヒト。


海悠みゆう、約束通りイカの眼は移植を終えた。君もはやく深淵こちらに来なさい」


 いつの間にか側に立っていたアダルベルト・バーデン博士が言う。


「人間は、変わらなくてはいけない」


 アダルベルトは約束を果たし、姉にイカの眼を与えてくれた。

 それは同時に、人間であることの喪失でもあった。 


「私達はこれから、存在霹靂エルアイクニスの嵐を起こすの」


 モモが言った。


「ミユーもはやく決心をつけて、イカになってね」


 モモの右目、アダルベルトの右目、おねえちゃんの左目。

 それぞれ片側にイカの眼球を埋め込んだ、人ならざる存在。


 直径23.8mmの眼球を持つソデイカが二体見つかり、手に入った眼は計四個。つまり今現在残された、移植可能な眼球はひとつだけ。

 助けられるのもひとりだけ。

 誰かが、犠牲にならなくてはいけない。その役割は、ぼく以外には考えられなかった。


「やらなくちゃ、いけないことがある」


「お兄さんを救うつもり? それはかえって、彼を絶望に突き落とすことになるかもよ。真実ほど、残酷なことはないのだから」


 モモの警告には答えず、ぼくはふらつく足で部屋を出た。

 最期に、姉の姿を一目見ることができて良かった。


 ぼくは兄に真実を託し、主人公の座を押し付け、そこで役目を終えるのだ。


 もしもこの世界がライトノベルの作中だったらどれほど良かっただろう。ハッピーエンドを約束された未来があり、進むべき道筋であるプロットが存在する。主人公がいて、ヒロインがいて、友人がいて、分かりやすい敵キャラが居る。

 仮にその世界の住人に自由意志が無かったとしても、此処ここよりは幾分もマシだろう。


 物語の何もかもが破綻し切った、未来の視えないこの世界より――。


 虚無感に沈む世界に投げ込まれ、人々は未来という舞台光の下で我を忘れて演技に没頭する。光が消えたとき、人間は自分たちが世界劇場で踊らされていたことに気が付く。そして、存在の耐え難い軽さに嘔吐するのだ。死へ至る存在構造に覚醒した人類は、世界終末に向けて歩み出す。


 頭が揺れる。

 包帯の巻かれた身体はあちこちが軋むように傷み、廊下の壁に手をつき、片足を引きずって、ナメクジのごとくスピードで進む。


「待って、ミユちゃん!」


 追いついた姉が、倒れそうなぼくの身体をうしろからそっと支える。


「ごめんね。痛かったよね。わたしのせいで、ミユちゃんをこんなひどい目に……」


「違うよ。悪いのはぼくだ。《催眠治療プログラム》で無理やりに自殺衝動を抑え込んだせいで、他殺衝動の方が出てきてしまったんだよ。おねえちゃんのせいじゃない」


 やはり自分には、うぬぼれがあったのかもしれない。中二病と言ったら笑われるだろうか。漫画のヒーローのように、自分の力で世界が救えると、夢見ていた。

 過信して、無茶をして、自滅した。完全に自業自得だ。


「あの日、八月八日の悲劇の日、バブル・バベルを発症したわたしは、みんなを救済しようとしたの。滅びゆくセカイを生きる地獄から、家族を助けるために、殺そうとした。

 だからわたしは、自分の意思で包丁を手にして――あなたを――、刺した。

 幻滅したよね。失望したよね。姉失格だよね。許してほしいなんて言わない。でもお願いだから、身勝手で愚かなわたしのために、――生きて――」


 姉は正面にまわり、ぼくの両肩に手をかけ、泣き顔を見せた。人間の右目だけが溢れんばかりの涙をぼろぼろと流し、イカの左目は無表情に、冷徹に、世界の裏側を覗き見ている。


 非対称的な表情に、安定しない感情。姉がこうなったのはすべて、ぼくのせいだというのに。


 目の前の姉を、ぎゅっと抱きしめた。胸のあたたかさが、心臓の鼓動が、たしかに生きている証。ぼくの、姉、そのものの実存。


「おねえちゃんは、おねえちゃんだよ。人間になっても、イカになっても、変わらないひとつの真実」


 それからぼくと姉は、暗い廊下で互いを抱きしめて、存在を確認し合い、こらえきれない感情のままに声をあげて泣いた。傷の痛みも、身体の軋みも、生きていることの耐えがたい喜びへと変換される。


 ◆


 ◇


 一連の事件でぼくが重症の傷を負い、姉とモモが眼を移植して、かれこれ二週間が経つ。この日、はじめて施設の外に出ることが叶った。


 結局、ぼくはまだ歩いて外に出るには身体が回復し切っておらず、車椅子に乗って、姉に押してもらう。アダルベルトとモモも後に続く。


 街に用事があった。エントランスのドアを抜けると、真夏の強烈な日光が、肌を焼き尽くさんばかりにズキズキと突き刺す。


 建物の周囲にはのどかな田園風景が広がっており、続く道の遠く向こうには霧のように霞む海が見下ろせた。人工的に造られた海岸線がうっすらと浮かぶ。


「ここは、……兵庫県のどこかの山間やまあいってところかな。よくこんな場所が見つけられたね」


「宗教法人《不死の会》の元アジトさ。皮肉なことに信者はみな死んで、廃墟となったところを先月に私が買い取った」


 隣でアダルベルトは、眼帯に隠れていない方の目を細めて言った。

 元より、人体冷凍保存クライオニクスは不死の技法のひとつであり、世界各国の宗教団体とは密接な関わりを持つ。クライオニクスそのものをカルトと結びつけて考える人も多い。


「パンデミック発生時には過疎地域の方が安全度が高い。自給自足もできる。うまくいけばこの地で十年は生き延びられるだろう」


「ヒョーゴでは、ソデイカもゲットできるしね」

 モモが補足する。


 アダルベルトの物言いは、人類に残された猶予があと僅かであることを示していた。当初の予定では、人類滅亡は二〇五〇年のはず。しかしそのシミュレーションには、アメリカや、ロシアや、イギリスや、フランスや、中国や、インドや、パキスタンや、北朝鮮のトップが核爆弾のスイッチを握っていることが考慮されていない、――致命的すぎる誤算があった。


 ゾンビウイルスよりもはるかに恐ろしいものを、人類がすでに開発している事実。


「おにいちゃんに会いに行くんだよね」


 後ろから姉が声をかける。

 世話の焼ける兄は、殺人未遂で逮捕され、留置場に入れられた。

 しかしつい今朝方のこと、兄と電話でコンタクトが取れたのだ。


「うん。遊園地で遊びたいんだってさ。おにいちゃんが」


「なにそれ」


 姉とモモが声をあげて笑って、アダルベルトが神妙に苦笑する。


 電話で一悶着あり、結果的に留置所から脱走(?)することに成功したらしい兄とぼくらは、遊園地で落ち合う約束をしていた。



 ねぇ、おしえてよ。

 未来の失われた世界で、おにいちゃんはどんな答えを出すの?



【第三章――解体篇――終】 To be continued...

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