第三章――解体篇――

17.Decadence(世界終末、人類は頽廃しました)

【第三章 ――解体篇―― In the case of Miyu Hino(日野海悠の場合)】


 ◇ ◆


「目が覚めたかね」

「アダルベルト、来てくれたんだね」

 起き上がろうとしたけれど身体が動かなかった。


「まだ起きない方がいい。だいぶ失血している」

「迷惑をかけたね……」


 アダルベルト・バーデン博士が深く息を吐くと煙のようなものが揺らめきながら白い天井に消えていった。ピントの合わない視界のなか、それは恐らく煙草の煙だろうと思う。だとすれば、ここは正規の病院ではないのだ。


海悠みゆう……良いニュースがひとつ、悪いニュースがニ十八個ある。どれから聞きたい」

 アダルベルトの疲弊し切った声だった。


「ねぇ、ぼくも煙草吸っていい?」

「反抗期の不良中学生のようなことを言わないでおくれよ」

 たぶん彼は苦笑いをしてくれたのだろう。ぼくのやり場のない哀しさが少しはまぎれた。


「じゃあ、良いニュースから聞かせて」

「君の姉は無事だ。約束は、守った」


 熱くこみ上げてきた涙が頬を伝う。

「ありがとう……それだけ分かったら、十分。悪いニュースはゴミ箱にでも捨てといてよ」

「すまないが、私には報告する義務があるからね……」


 アダルベルトは努めて事務的な口調で、残りニ十八個のバッド・ニュースについて話した。


一、バブル・バベルの影響のためか某国の核弾頭ミサイルのスイッチが押される刻限が近づいているらしいこと。その他、世界規模の戦争の火種があちこちに発生したこと。


ニ、自分の考案した《催眠治療プログラム》は、発症者から自殺願望を消すことには成功したものの致命的な欠陥があったこと。具体的に、被験者は催眠の影響で人類を《敵》とみなすようになり、いくつかの収拾不能な暴動にまで発展したようだ。


三、自分の両親に《希死念慮》の症状が表れ、アダルベルトの手によって已む無く人体冷凍保存クライオニクス処理され、父と母が仮死状態となったこと。


四、兄が殺人未遂の疑いで逮捕され、留置場にいること。

(以下、二十四個省略)


結論:バブル・バベルが絶望的な状況を引き起こしていて、もはやどうしようもないこと。



 すべてを聞き終え、ぼくはうんざりした。

 まだ鮮明に覚えている。


 錯乱した姉と血みどろの殺し合いをした。

 改造スタンガンで何とか姉を気絶させられた時合には、ぼくも急所を包丁で刺されて死にかけていた。緊急コールを送った《組織》からいち早く助けが来たのは幸いだった。


 だが、兄は殺人者になり、父と母はほぼ助からない死人となった。姉の親友であるヒトミという少女をはじめ、ぼくが被験者らにかけた催眠暗示は失敗し、やがて死人が出るだろう。それどころか近いうちに核戦争が起こり、何十億もの人々の生命が失われることになる。絶望しかない。


「いや、核戦争はむしろ人類の希望なのかも。数十億単位で人口が減れば、環境収容力問題は解決する。仮説が正しければバブル・バベルは消えるよね」


頽廃的世界終焉デカダンス・エンディングは避けたいところだがね……」

 アダルベルトの低い声にはしかし、諦めの色が多く混じっていた。


「なんだかさ、ぼくたちはまるで出来の悪い最悪のSF小説のなかにいるみたいだよ。それも著者はイカれていて、プロットが完全に崩壊している」


「君の言う《神》ならとっくに死んださ」


「ぼくが言いたいのはもっとメタフィクション的な……そうだアダルベルト。こういう策はどうだろう。ぼくらは全裸になる。そして街を出歩くんだ」


「たしかに、奇襲をかければ著者のシナリオは崩れるだろうね。あるいは小説にR18指定がついて、偉い身分の人が作品を闇に葬ってくれるかもしれない」


「じゃ、じゃあ……」


「もうやめよう! ジョークタイムは終わりだ。何の生産性もない」

 アダルベルトは強い口調で苛立たしさを滲ませて言った。


 我ながら子供染みたことを言ってしまった自分が恥ずかしくなってきて、ぼくは布団を鼻を隠すあたりまで引っ張った。


「すまない。私も少し、頭を冷やさなくてはいけないようだ」

 アダルベルトは気まずく言って、部屋から出て行ってしまった。


 その後やることもなく、布団の中から部屋を観察するくらいしかできない。

 壁と天井は白色で、元は病室だったのだろうが清掃が行き届いておらず薄汚れている。

 窓はなく、蛍光灯が不気味に明るく照らしている。地下施設かもしれない。




 それから一週間ほど、つまらなくも絶望的な毎日を過ごした。

 大量の睡眠と点滴治療を受けたのち、ようやく立ち上がってなんとか歩くことができるようになった。


「ひっさしぶりー、ミユー!」


 モモが病室に入ってきたとき、ぼくはアダルベルトの差し入れてくれた洋書『ソフィーの世界』をベッドのリクライニングに身を埋めて読んでいた。本を閉じて脇の机に置く。


「モモ!」


 彼女の姿を目にし、ぼくは思わず立ち上がってしまい身体をよろめかせた。

 モモがふわっと抱きとめる。そして強く抱き締めた。


「良かった……無事で」

「モモ……その目は……」


 モモは身体をそっと離し、神妙な顔つきでぼくを見た。


「私、決めたの。《ノアの方舟》計画に乗る。未来は視えなくなったけど、選ばれし人類として生き残る道を進むの」


 モモの右目にはポッカリと穴の空いたような昏い眼球――冷凍イカの瞳――が収まっていた。まるで深淵がぼくを覗きこんでいるかのようであった。


「おめでとう……といってもいいのかな」


「もちろんよ! 私とアダルベルト、雪葉とミユーとで四人! イカ四兄妹になって生き延びるの! この腐りきった世界を!!」


 未来が視えないわりにポジティブなモモを前に、少しだけ元気を取り戻す。


「あと、おにいちゃんもできたら助けたいな」


 両親は間に合わなかった。兄はまだ、発症していないのならば救うチャンスがある。


「そうね、人間サイズのイカ眼球をあと一個、急いで見つけなくちゃ。だからミユーは先に移植手術を……」


 ぼくは首を横に振った。

「まずおねえちゃんに会わせて」


 モモの肩を借り、ぼくははじめて部屋を出る。

 想像していた通り、此処は核シェルターとでも呼ぶべき地下施設だった。


「数百年後の人類へ託すクライオニクス構想は、当然のことながら未来の核戦争をも考慮にいれなければならない、か……」


「そゆこと」


エレベータは地上一階で止まり、ドアが開く。

 廊下を右に曲がって一番奥の部屋へモモが案内した。


「心の準備はできてる?」


 ぼくは頷いた。

 モモが二回ノックし、扉を引く。

 窓の外を見ていた長髪の少女が振り返った。



「おねえ、ちゃん?」


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