16.私(私は何のために何をして生きればいいの)


「ユキ、入る前にノックしろっていっつも言ってるだろ。お兄ちゃんは仕事探しでとっても忙しいんだ」

 回転椅子がまわる。


 腕組みをする兄の姿はしかし虚ろな瞳をしていて就職先どころか明日の自分さえ視えないかのようで顎は無精髭で覆われまだ顔を洗っていないだろう艶を失った皮膚に乗る髪は四方八方に寝癖が跳ねてチェック柄のシャツは皺だらけになっているのだこの変質した変質者は本当に兄なのだろうかましてや私のかつて慕っていた敬愛する兄の真の姿なのだろうかありえないありえないありえない侵蝕する現実の闇は徐々に私の眼前から喰い込み瞳を穢してゆく先から未来の光が失われ眼球が変質される。


「目がぁぁぁああ……、目がぁぁああ……」

 崩れ落ちた膝から床に木目調のフローリングを零れた穢れた涙が混じり合い此の世界を変質させる。


「ユキ、何があった。話してみ。それとも救急車が必要ならすぐに……」

「そうじゃないの」

「もしかして、人生相談のたぐいか?」


 ふらふらと歩み寄り兄のベッドに倒れこむ。タオルケットをすっぽりと被ると視界が閉ざされて幾分か気持ちが落ち着いてきた。

《バブル・バベル》が私自身に発動したのだ。自殺衝動とは聞いていたが、まさかこれほどまでに思考に混乱を来たすものとは。ミユの後催眠暗示が無ければ、私は今頃死んでいるのだ。


「おにいちゃんは、気づいた?」

 このバブル・バベル現象に。


「いや、さっぱり。なにがなんだか。目が……どうかしたのか?」


「ニンゲンってさ、変わるもんだよね」

 まだ辛うじて私の精神が僅かに残っている内に、兄に何を伝え何を託すのかを考える。


「わたしね、このまま自分はずっと変わらないんじゃないかって幻想を抱いてた。おにいちゃんがいつになっても就職先を決められないように、わたしも永遠にこのままなんだって。でも、現実は残酷だった。

……最初は戸惑った。それでも事実を受け入れるしかなかった。ヒトは、成長する。換言すると、ニンゲンは変質してしまう、心身共に。この世の絶対的真理に辿り着いたとき、わたしは、嗚呼このセカイでたったひとりで死んでしまうのだなぁ、と悲しかった。生命は変質し、やがて死に至る。諦メロ! ニンゲンは其のエントロピーの増大を《成長》という言葉で誤魔化し、死から目を背ける。結論として、わたしは変わってしまった。変わってしまったんだ。顔を洗ってなにげなく鏡を見た、目の前に居たのは《左目の覚醒した自分》だった……」


 駄目、私はもう、元には戻れない……。


「その覚醒した目とやらを見せてもらおうかあああ」


 兄は私の肩を掴んでベッドに押し倒した。

 兄のくらい双眸が私を見つめる。


「ユキ……その目……まさか……」

「ッ…………」


 もしかして、気づいたのか。未来が視えなくなってしまった私の変質した瞳に。

 私は兄に悟られたことが悲しくて視線を逸らす。もう今までの兄妹には戻れない。

 右目から涙が溢れ、頬を伝った。


「左目だけ、一重まぶたになってるじゃないか……」

「……、……」


 兄はなんのつもりか顔を近づけて来た。

 そして見当違いのことを言った。

「実はな、俺も昔は二重だったんだ。けど、成長するにつれて、片方だけ一重になり……やがて両方とも一重まぶたになった。遺伝、なんだろうなぁ。父さんもそうだったらしいし。ショックだろうが、こればかしは仕方がない」


「……知ってた」

 知ってた、兄は異変に気づける人間ではないのだ。彼はまだ、この世界を日常だと思い込んでいる。


「でもな、たとえどんなに変わっても、ユキはユキだ。大切な妹であることは変わらない」

 兄はその身体で私を抱きしめた。

 暖かくて、心臓がドキドキと脈打っていて、私はその熱がいつか失われてしまうことを思い悲しくなった。人は死ぬ。人間の存在には何の意味もない。吐き気を催すほどに存在の価値は軽い。


 私は、変わってしまった。

 未来が、視えない。


《だからね、おねえちゃん。未来が視えなくなったら、恋をしましょう》

《おねえちゃんは、本当はイカだったんだよ。深海に暮らすイカは、人間に恋をして地上にやってきたの》


 意識がまどろみのなかに沈む。

 ミユの声が聞こえる。

 心が眠りに落ちる。


 暗闇のなか、気が付くと兄とミユが二人で何かを話していた。

 赤ちゃんがどうのこうのと議論している。

 最後に兄が声高に言った。


「未来にある、失われた希望を取り戻すこと!! それが……」


 そうだ、未来、私には未来が視えない。

 未来のない者は、死ななくてはならない。

 死ななくては――。


 タオルケットの隙間から目を覗かせると、眼前に窓、窓の向こうに清々しい青空が広がっていた。だから私は、空を飛んで天に召されようと思ったのだ。

 神など、とっくに殺されたというのに。


 窓を開けて足を踏み出すのに何の抵抗もなかった。

 鳩が今まさに飛び立つ瞬間であるかのように自然な一連の動作で、私は二階の窓から跳躍した。空は――視えなかった。

 庭の薄汚い煉瓦色の地面が一瞬の間視えただけで、私は醜く墜落する。



――――――

――――


 病室、白い天井。

 私はただ《未来が視えない》という呪われた呪文を繰り返し唱えた。


 ミユの声が、どこからか聞こえた。


「あのね、おねえちゃん。もう人間であることのカルマを抱えて苦しまなくてもいい。だからね、人間ではなく、おねえちゃんはこれからイカとして生きるんだよ。深海に封印された冷凍イカは永い冬眠から目覚め、世界の終わりを見届ける使命を持つ。人間としてではなくイカとして。世界を観察する者には、死、以外の救済が与えられる。死者の眼が覚醒すれば、未来が無くとも今この瞬間のせいが絶対的に肯定される。でもそれはまだ秘密。だから今は、《眠って》?」


 催眠暗示。


 私はイカ。

 人間に恋をして地上に辿り着いた漂泊者。

 観察者として、人間とこの世界の終焉を見届ける使命を持つ。

 だから生きていなくてはならない。


 朦朧とした意識に時間感覚を失い、どれほど経ったのか分からない。


「ごめんね、おねえちゃん」


 再びミユの声が聞こえ、頭に何かが装着される。

 左右別々に音楽が聞こえ、脳のなかを音が波打った。

 身体がゆらゆらと揺れ、上下左右の方向感覚がなくなる。


 私はイカ。

《未来が視えない》《恋ヲシマセウ》

 地球を侵略する? 人類を偵察する?


《未来が視えない者は、死ななくては》《終ワリヲ見届ケルタメ、生キナクチャ》

 人間は、死ななくては。


《死のう》《生キテ》

 人間を殺す?


《殺す》《生キル》

 死



『人間が異形に変質する』


 それは変身譚においては始まりであると同時に、悲劇にしか到達し得ない点で人生の終焉を意味する。アンデルセン童話の人魚姫では立場が逆となるが、王子に恋する人魚姫が辿ったのは悲惨な末路であった。人魚姫は人間に変身するべきではなかった。人魚のまま、恋を成就させるべきであった。


「人間になれば、王子様と結婚できる」という願望は「人魚である私」を全否定することになる。


「美少女に生まれていれば幸せだったのに」

「社交的な性格だったなら友だちができたのに」

「生まれ持った文才があれば小説家になれたのに」


 このような、「○○に変われたら夢が叶うのに」といった実現不可能な願いは、今の自分だけでなく未来をも否定してしまう。不可能な願いを無理やり叶えれば、人魚姫のようにバブルとなって消えてしまう。


 では、人類にとっての願望バベルとは何だったのか。


 貧困のない世界? 平等な世界? 自由な世界?

 人々は「変わりたい」と願った。しかし願いは世界に歪みを齎した。


 私、日野雪葉は変質を遂げ、終焉に向かう一歩を踏み出す。



【第ニ章――解凍篇――終】 To be continued...

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