15.友(最愛の友は変質を遂げ崩壊の鐘を鳴らす)
高校生活も四ヶ月目に入り、兄と違って対人関係構築スキルが人並みにある私には、友人が何人かできていた。兄は相変わらずハローワーク通いの日々で、妹は研究に明け暮れていたが、双方とも進展はなく行き詰まった様子だった。
そんな七月のはじめ、あと少しで夏休みが始まろうとしていた矢先に事件は起こった。
学校から帰った私は、今夜はミユとどんなイチャラブプレイをしようかなとウキウキしながらスマートフォンを起動する。
と、友人のヒトミから、LINEのメッセージが二通届いていたことに気がつく。
ヒトミは出席番号が隣の縁で仲良くなった友だちだった。剣道部に所属している気の強い女の子だ。が、LINEに表示されるのは彼女のキャラからして想像できない文面だった。
『死にたい』
『私は変わってしまったみたい』
全身が恐ろしさに粟立つのを感じた。
ヒトミは決して、死にたいと口走るような少女ではなかった。
数秒空けて、次のメッセージがチャット画面に現れる。
『未来が視えない』
その一言は、私の恐怖を溢れさせるには十分だった。
『早まらないで』『一度でいいから妹に会ってみて』
私はよく分からない返信を打ち、家を飛び出した。
まだ陽は沈んでおらず、紺と橙とが混ざったような色をしていた。
私は学校に向けて走っていた。ヒトミの家を知らなかったからだ。
彼女がまだ学校にいて、せめて飛び降り自殺を図ることに
うちの学校の屋上への扉は決して開かない。
走りながらヒトミの携帯番号にかけるも、繋がらない。
今は走る、走ろう。
沈みかけた陽光の不気味な逆光に暗く校舎が姿を視せる。私は正門には周らず、体育館に続く裏口からそのまま駆け抜けた。体育館を覗いてみると、卓球部とバスケットボール部が下校準備の片付けをしていて、剣道部は見当たらなかった。
本校舎に入り、屋上へと続く西階段を息を切らせて駆け上る。
屋上へ通じる扉は固く南京錠で閉ざされていて、人の気配も無く静まり返っていた。呆然としたまま階段を降りる。廊下を疎らに蛍光灯がチカチカと照らしていた。
その後、教室や中庭を探してみたが、ヒトミの姿はどこにもなかった。
二階廊下の窓から外を眺める。遠くの方で、救急車のサイレンの音が遠吠えのように聞こえた。
私はハッと思い出して、ポケットからスマートフォンを取り出す。
妹のミユの番号にかける。
一秒と待たずにミユは電話に出た。たしか妹の携帯電話は長いパスワードを入力しないとロックが外れないようになっていたが、ミユはどうやって瞬時に通話に出られたのだろう――と一瞬疑問が浮かんだが、今はそれどころではない。
「もしもし、ミユちゃん!?」
『大丈夫だよ、おねえちゃん。ヒトミさんなら、私が対処したから』
ミユは落ち着いた声色で言った。
「た、対処って……」
『もっとも、このフェーズから催眠暗示をかけるとなると、少々手荒な真似をしなくちゃいけない。電子ドラッグを使うことになるかも』
「一体、何を……」
『大丈夫、一週間後には何とか学校に通えるようにするから。催眠の影響で、ちょっと中二病で痛い人になるかもだけど。あと、念のため右目には常に眼帯をつけてもらうようにはする。おねえちゃんの友だちの
ミユは一方的に話した後、電話を切った。
私はスマートフォンを片手に、しばらく呆気にとられて立ち尽くしていた。
一週間後、といっても終業式直前の日であるが、私はミユの話していた意味を悟った。ヒトミは無事だった。しかし右目に眼帯をつけて登校した彼女は、私の知る友人とは別人になっていた。
「ヒトミ、退院したんだね。良かった、具合は……」
教室に入ってきたヒトミに声をかけたとき、彼女は言葉を遮った。
「ユキ、私は覚醒したの。レートウイカの瞳にね。私は、変質したの」
それが無事を確認した友人の最初の第一声だった。
バブル・バベルの悲劇を防ぐための、ミユの施した催眠暗示であることは分かっている。分かってはいるが、私は少なからずショックを受けた。
心の整理がつかないでいるまま、私たちの学校は夏休みに入った。
ヒトミは中二病らしくなり右目に眼帯をつけるようになったこと以外は、特に差し障りの無い日常を過ごした。夏休みも剣道部の練習に参加すると言っているが、私は不安で堪らない。
ミユは、催眠は対処療法であり一時しのぎに過ぎないと言っていた。では催眠の効果が切れたとき、ヒトミは再び自殺衝動に襲われるのではないか。
頭が不安でいっぱいで、夏休みが始まってから一週間は勉強も何も手につかず、家で憂鬱に過ごしていた。ミユは研究が忙しいのか、家にいないことが多くなった。
家には兄もいて、絶賛ニート生活を送っている。たまにソファで寝そべっている私を見ると、
「今のうちに勉強はしっかりしておけよ。現代でも就活は学歴偏重なんだぜ。ユキには俺のように、後悔に満ちた人生を送ってほしくはない。なあに、悩みがあるなら相談に乗ろう」などと説教じみたことを言ってくる。
兄は、バブル・バベルについてどこまで知っているのだろうか? いや、何も知らないに違いない。兄に頼れるとも思えなかった。
来たる、七月ニ十九日。
それは起こった。
朝食を食べ終えて、髪の毛を解かそうと洗面台の鏡を除いたら、ふとした違和感を覚えた。自分の顔をよく見ると、私は普段は両方ともくっきりとした二重まぶたなのだが、その日は左目だけ一重まぶたになっていた。
目が腫れているのかな、と思った。けれど、まばたきを繰り返しても左目は変わらず、ずっと昔から一重であるような形をしていた。
鏡に映る私が『私は誰?』と訊いてきた。
驚いて注視すると、私はニヤリと笑って『何のために生きてるの?』と再び質問する。
ドッという滝壺に落とされる水の音が聞こえたかと思うと、鏡から無数の真っ白い仮面のようなものが溢れ出てきて閉鎖された空間である洗面所を一面に白で染めた。
姉としての私、妹としての私、生徒としての私、仮面には様々な私の役割が刻まれていて、そのどれもが白々しい笑みを浮かべているのであった。
仮面自己、スケーネー、ドラーマ、ペルソナ。
社会の中で演じている私。
生物として死ぬ私。
変質する私。
私は誰? 何のために生きてるの?
ぐるぐると回転する時の流れ。
踊る私。一歩足を踏み出すと死が一歩近づいた。腕を優しくしならせると死が巻き取られて迫ってきた。どんなに必死に踊りに没頭しても、死に至ることからは逃れられない。
刹那――。
《未来が、視えない……》
『氷が溶けて、熱い恋の炎が目を覚ますんだよ』
同時に頭に響いた。
変質、開始。
「ぎぇぁぁぁああああああ」
私は悲鳴をあげ、兄の部屋へと飛び込んだ。
「おにい、ちゃあぁぁああん!!!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます