14.瞳(冷凍イカの瞳は夜明けの光を待ち焦がれ)
奥の方から叫び声が聞こえる。誰かが激しく言い争っている。
ドイツ語だろうか、内容は理解できない。
怒鳴り声が廊下に反響して響き渡る。モモは顔色を変えて声のする方へ駈け出した。
私も後に続く。
私とモモは、FSL― Frozen Squid Laboratory《冷凍イカ研究所》に来ていた。
数十分に及ぶ念入りな消毒・滅菌過程を終えて、専用の服に着替え、何層もの防護壁を潜り抜けてようやく辿り着いたと思えば、騒動はすでに始まっていた。
銃声のような音が響いたかと思うと、あたりは急に静けさを取り戻した。
「モモ!」
廊下の先で、白衣姿の長身の男が両腕を広げた。
モモは男の胸に飛び込んで、声をあげて泣いた。男はモモの髪を優しく撫でて、悲しそうに視線を床に落とした。
すぐ隣、白色光に照らされて輝く冷たい床に、黒髭の男が仰向けで倒れている。頭からは血が流れ出ていて、投げ出された右手には拳銃のようなものが握られていた。
天井を向く、感情の無い瞳。
モモがしゃがみ込み、死者のまぶたを静かに閉じた。
私はただ呆然とその場に立ち尽くすことしかできなかった。
しばらくモモと白衣の男は何かをドイツ語で話していたが、やがて男が「クライオニクス」という言葉を発すると、モモは黙って頷いて、私にバイバイと寂しそうに手を振って行ってしまった。
横たわった死体はそれから集まった研究者たちの手によって担架に乗せられ、どこかに運び去られた。
最後には、白衣の男と私だけが残った。男は右目に、眼帯を付けていた。
「アダルベルト・バーデン博士ですね」
言うと、彼は右の眼帯を手で抑えて、苦笑いを作ってみせた。
「ようこそ日野雪葉さん、我が研究所へ……と言いたかったのだけれど、君はどうやら最悪のタイミングで此処に来てしまったようだね」
流暢な日本語でバーデン博士はそう言った。
***** *****
私はバーデン博士の書斎室へと案内された。
「エリックは優秀な研究者だった。私の仮説を信じて協力してくれた数少ない友であり、モモにとっての優しい先輩でもあった」
エリック、拳銃自殺を図った男の名前。そして彼が死んだ原因は、疑いようもなくバブル・バベル現象そのものだった。
バーデン博士はソファに腰を沈め、頭を抱えてうなだれる。
「いいかい、雪葉さん。BSL-3(バイオセーフティーレベル3)の研究所内で研究員が《現象》に感染し、死亡した。意味するところは、分かるね?」
「バブル・バベルの感染防御は不可能、そして私たちがすでに感染した可能性」
私は最初に博士がしたのと同じように、苦笑いを作るしかなかった。
「しかし私が此処に来たのは自己責任です。博士は気を病まないでください」
「いや、
「ミユちゃんが……」
妹よ、あなたは何者なのだ……。
しばらく呆気にとられる。
「それと……もうひとつ打ち明けるけれどね、私は、バブル・バベルでは死なない」
どういうことですかと聞くと、バーデン博士は無言で右の眼帯を外した。
右目は、すべてが真っ暗闇に包まれている、明らかに人間のものではない眼球が填められていた。
「Thysanoteuthis rhombus(ソデイカ)の眼球を移植したんだよ。23.8mm、人間とほぼ等しいサイズの眼球を見つけられたのは、奇蹟に等しい。結論から述べると、イカの眼球を人体に移植することによってバブル・バベルを無力化することができるのだけれどね、まずは順序立てて説明しようか」
バーデン博士は眼帯を再び装着し、人ならざる瞳は姿を隠した。
「いや、じつはイカの眼の方が視力は良いし、人間のより遥かに明暗を感知する能力も優れているのだけれどね、違う視界が混ざるのはあまり気分の良いものではないんだ」
博士はとうとうと語り始める。
「私がクライオニクス(超低温人体冷凍保存技術)を専門にしていることは知っているね。《死にたくない》《死ぬのが怖い》と本気で思う人間が、不老不死のために行き着く研究分野はおよそ三通りあってね。
ひとつは神経工学。人間の脳をコンピュータにコピーし、データとして保存しようとする試み。つまり肉体を捨てて機械に心を移植する。
ふたつめは、遺伝子工学。老化を司る遺伝子を操作し、老化そのものを止めようとする。
最後が、クライオニクス。現代医学では限界となる寿命、あるいは不治の病とされる肉体をとりあえず冷凍保存して、科学技術の発展しているであろう未来に解凍し蘇生する。未来に救われることを期待する。つまり、クライオニクスは人類の未来の発展に賭ける、不老不死の方法なんだよ。
といえども、現代の技術を以ってしても、人体を傷つけずに冷凍するのは極めて難しい。人体の主成分が水である以上、凍らせれば細胞膜は当然壊れてしまう。そこでまず実験材料にされたのが深海の低温域に済む深海魚やイカだ。この研究所ではイカを冷凍して仮死状態にし、解凍・蘇生する実験を行っていたんだ。
細かい話は省略するけれど、私はそこで眼球を壊さずに冷凍する方法を模索していて、その過程で偶々、人間のサイズにぴったり合致するイカの眼球を発見した。興味本位で、――いや、狂気の沙汰だったと思うが、私がイカの眼球を移植した経緯はまあそんなところだね。
それから、二年前になるがね、妻と娘が自殺した。原因が全く見つからなかった。けれど二人の墓の前に初めて立ったとき、雷に打たれたような衝撃で、私の頭にはひとつのフレーズが浮かんだ。
《未来が視えない》
その言葉は、二度と思考から消えることがなかった。私は未来に一切の希望が持てなくなった。そのとき直感したんだ。妻と娘の生命を奪ったのは、この悪魔のような《現象》なのだと。
その頃、海悠博士とも知り合っていて、彼女と共に統計調査や実験等を通してバブル・バベルの正体らしきものを突き止めた。《未来が視えない》という天啓に打たれた人間は、私の知る限り全て死んだ。私ひとりを除いて。
偶然にしてイカの眼球を移植した私が死の衝動に打ち勝てたこと、そして自殺する前の人間にしばしば眼の異常が現れること。分かっているのは、それだけだ。
バブル・バベルはおそらく現代の科学ではどうにもならない。それこそクライオニクスで、未来の人類に託さなければならない課題だ……が、その未来がすでに失われつつある」
バーデン博士の話を聞きながら、私はぼんやりと考えていた。
SFでは、クライオニクスは未来へ行くためのタイムマシンの役割を果たす。冷凍された人類が、幾百年の年月の間、解凍される日が来るまで眠り続けるのだ。
人類が滅亡の危機に瀕するような状況下において、クライオニクスが人類の種の保存のため《ノアの方舟》の役割を果たす可能性はある。未来が、存在しさえすれば……。
「エリックさんを、未来に託されたのですよね」
「死者を蘇らせる魔術が千年後にあることを祈っているよ。もっとも、そんな世界も恐ろしいがね」
博士は乾いた笑みを浮かべた。
「イカの眼球をクローン技術などで量産して、人間の眼に移植すれば……」
「ははは、そうだな。政府がジョークを信じてくれる日には、もう手遅れかもしれないが。しかし海悠博士はもちろん知っている。そしてそのための努力をしているようだよ。私もいろいろと手を回してはいるがね……正直、未来は全く視えていない」
「妹は、眼球移植の代替療法として、催眠暗示で人間をイカにすることを研究しているみたいなのですが、そのことは?」
「はっはっは、いや、もちろんやってみる価値はあるだろうさ。でも、私はもう」
バーデン博士は両手をあげた。お手上げと言いたいらしい。
「では、博士の見つけたソデイカの、もうひとつの《眼球》の行方は?」
「それは、秘密だ。大切な友人との約束なので、口外できない」
私とバーデン博士は、互いにソファに深く身体を預け、どんよりと静かに滞る空気のなかで沈黙を保ち、言葉に依らない意思疎通を図った。これ以上会話を続けても、前向きな議論とならないこと、そしてバブル・バベルに突破口など存在しないことが十分に分かってしまったのだ。私はただミユの身を案じていた。
私はゆっくりと立ち上がる。
「バーデン博士、今日はどうもありがとうございました。また未来で会える日を楽しみにしています」
博士も立ち上がり、私たちは最後に握手を交わした。
「力になれず申し訳ない。君の妹によろしく。そうだな、今度会うときは、いや……また《未来で》」
バーデン博士と別れ、研究所を出ると、門の前でモモが待っていた。
「なんだかごめんね」
モモが謝る。泣き腫らした痕があった。
私は首を振って、彼女に抱擁のハグをした。彼女に掛けるべき言葉が見つからなかった。
「あのね、プレゼントがあるの」
モモは背中のランドセルから紙袋を取り出し、私は彼女の手からそれを受け取った。
中には服が入っているようだった。
「ミラノで今すっごく流行ってるの。雪葉、未来を忘れちゃ、駄目だからね」
彼女を抱きしめている間、私はモモと何年も昔から親しかった友人のように、愛おしく思った。
モモとも別れを告げ、私はドイツ・ハイデルベルクの地を後にした。
彼女から貰った袋のなかには、クマのプーさんの絵柄のシャツが入っていた。『あしたからがんばる』と書かれている。プーさんの絵柄の異なるのが何着か入っていたが、そのどれもに「あしたからがんばる」の文字がプリントされているのだ。
「ふふ、なんで日本語なの……」
あしたからがんばる、は怠け者のセリフだけれども、その言葉には未来があった。明日という未来が視えているからこそ、明日の自分に期待し、託すことができるのだ。
私はもう一度、未来に通じる道を探してみようと決意した。
バーデン博士やモモと、再び未来で会う日を夢見て――。
《今の》私と、彼らが再開する日はしかし――、二度と訪れることはなかった。
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