07.バブル・バベル(弾ケタ消エタ崩レタ散ツタ)
「ニートになりました」と報告すると、山吹教授はさも愉快そうにけらけらと笑った。
山吹大悟。私立M大学経済学部教授、専門は金融工学。
友だちがひとりもいないキャンパスライフで唯一気兼ねなく話せる人だった。
ユキに殺されかけた翌日、俺は事態を軽く見過ぎていたことを深く反省する。
そして卒業した母校に赴き、思い切って恩師の山吹教授にすべてを打ち明けて相談することにしたのだ。俺は人に頼ることが昔から苦手だった。だが自分だけで物事を解決できるほど優秀ではないことを知っている。
山吹教授は、ただ一介の元生徒に過ぎない俺の話に熱心に耳を傾けてくれた。
関西弁なまりで怖がられているが根は心優しい。もし自分が女性であったなら惚れていただろう。
「冷凍イカのなんちゃらってのは俺も知らんわ。だが、『人類滅亡の危機』については心当たりが無くは無い」
山吹教授は歯切れ悪く言葉を切り、しばらくあご髭に手をやって何かを思案した後、話を続ける。
「まずな、日野君よ。自殺増加っちゅう単独現象やなくてな、死亡数が増えとるんだわ。日本で目立つのがたまたま自殺やっただけで。あと本当の意味で深刻なんは出生数の世界的減少や。生まれる赤ちゃんの数が激減しとる」
「出生数、ですか……」
そう言えばミユが赤ちゃんの作り方を聞きたがっていた。あれは何らかのメッセージだったのか。
「マルサスは当然知っとるやろ?」
「ええ、『最大多数の最大幸福』ですよね」
「そらベンサムや!!」
「神の見えざる手!!」
「アダムスミスや! あと『神の』とは言うてない」
「万国の労働者よ、団結せよ!!!」
「それはマルクスな! 遡及して単位取り消すぞ馬鹿もん!!!」
「すみません冗談ですよ。人口論くらいさすがの俺でも知ってます。食物は算術数的にしか増えないのに、人間は幾何学的に増殖する……」
「……人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが生活資源は算術級数的にしか増加しない」山吹教授はこほんと咳払いをする。
「ええ加減に本題入ろうや。世界人口はここ百年で五十億人増えとる。今が七十二億人か? 環境収容力をはるかにオーバーしとる。生物学的にも人間ははっきり言って異常なんや。
二十一世紀末には百億人を突破するとも言われとるけど、地球資源に限りがある以上、必ずどこかで頭打ちになる。人口爆発は人口崩壊を引き起こす。今がちょうどその転換期やという仮説が出とる」
「でも日本や他の先進国では食料が余って捨てられてますよね。まだ当分は心配ないのでは?」
山吹教授がまずは話を聞けと手でストップをかけた。質問は後回しらしい。
「生物には共倒れにならんように増殖を抑えるシステムがあるんやな。例えばキイロショウジョウバエを瓶の中に閉じ込めて育てると、瓶の環境収容力を超えるあたりで死亡数が増え出生数が激減する。そして個体数を減らすことで生息環境を改善させる。
対して人間は、環境収容力の壁を知恵で無理やり突破するんやな。農地改革や品種改良、あるいは産業革命などによって人類はキャリングキャパシティーを乗り越える。そして人口は波を描くようにして巨大な上昇トレンドを形成してきた。まるでバブル時の株価チャートのようにな。
ここ百年の人類発展の根幹を成すのが『ネットワーク』や。鉄道網、電話網、流通網から始まり、果てにはインターネットによる情報革命が起こる。世界中の時間と空間が緊密に繋がってしまった今の人類が抱える問題が『過剰結合』やとされる。
例えばアメリカの証券会社の経営破綻が全世界に大不況をもたらしたリーマン・ショックや、インフルエンザ等の感染症が国境をまたぎ爆発的に広がるパンデミックなどが過剰結合の典型的問題。
つまり、世界を超えて繋がり過ぎた人類にとっては、地球そのものがハエにとっての小瓶なんや。地球に対して人類の環境収容力がオーバーしていれば、人類全体に人口抑制装置が作動する。
人と人とが繋がり繁栄し、神の怒りを買い崩壊する。まるでバベルの塔や。だから世界的な人口自然減を引き起こす一連の不可解な現象は、研究者たちの間で『バブル・バベル』と呼ばれとる」
「バブル・バベル……」
「日野君の末っ子の妹さんが言っている人類滅亡の危機は、俺の直感ではそれを指すのではないかと思う」
地球規模の危機の話で、明確な敵が存在するわけではない。そしてスーパーマンでもウルトラマンでも、ライトノベルの主人公でも解決不可能なこと。
確かに、辻褄が合わなくはない。
じゃあミユはどうやって世界を救うつもりなんだ。
「きっと宗教やろ」山吹教授は見透かしたふうに言った。
「バブル・バベルのうち、国内の自殺を防ぐことのみにフォーカスするのであれば、それが最も可能性がある。人間の価値観を変えようとしてるんちゃうかな」
山吹教授との会話で、得られたことはあった。
人口爆発の反動で引き起こされる人口の強制的な抑制装置バブル・バベル。
だが本当にそのようなものがあるのだとすれば、ニートの俺にはどうにもできないし、例え俺がライトノベルの主人公だとしてもやはり絶望するしかない。
殴る敵がいなければ、倒すべき悪の組織もない。見つけるべき犯人もいなければ、解決に至る道筋もない。
俺にどうしろと言うんだ。
妹二人を助けたいだけの俺にとっては、バブル・バベルはあまりにも絶望的で、自分はあまりにも無力であった。
家に帰ると、妹は二人ともいなかった。
残されていたのは、おびただしい量の――、
――血の跡だった。
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