06.シシャノメ(死ヲ過ギ去ル者ノ、生ヲ視ル眼)
スーパーで買ってきた新鮮なイカに包丁をスーッと通す。
中のグチョグチョとした内蔵やら軟骨やらを取り出し、醤油・酒・みりん・おろし生姜に漬け込んで下味をつける。特性タレが染み込むまで三十分ほど待つので、俺は自室に戻って調べ物をすることにした。
パソコンのモニターを眺め、ため息をつく。
Googleで『レートウイカ』『冷凍イカ』などの検索ワードで調べてみるも、案の定、イカの姿焼きのレシピ集や冷凍イカのネット通販サイトくらいしか見つからない。
「おにいちゃん、いるの?」
ノックもなしに入ってきた。
ユキは、真っ白なシーツをマントに、右腕に包帯、左腕に眼帯という安定の中二病スタイルだった。ただ、着ているシャツの絵柄のプーさんと『あしたからがんばる』とプリントされたロゴからは残念な脱力感が漂う。
ユキは左手に辞書を持っていた。
『経済学大辞典』と書かれた表紙が目に入る。
「おう、辞書を返しに来てくれたのか」
「これ、おにいちゃんを叩く用なんだって。ミユちゃんが」
「多分違うと思うぞ……」
顔色は良い。
ユキの精神状態は比較的安定しているように見えた。
なるべく刺激しない形で、妹から情報を引き出そうと考える。
「そういや今日さ……」
「おにいちゃん、南高行ったんだってね」
「なぜ知ってる!?」
「LINEで不審者が出たって情報が回ってきたから。第三区内に出没する不審者なんておにいちゃん以外考えられないよ」
「そ、そうか……」
こうして会話をする限り、ユキは普段通りのユキに思える。
俺に対する毒舌は生まれ持っての天然なのだ。
「いやその、南高でさ、眼帯の女子高生を見かけたんだけど、もしかして流行ってるのか? その《イカ》ファッション」
「イカ……?」
突如殺気立った声が響く。
「どうしてイカだと知っているの?」
眼帯が床に落ちた。
「ふつうのニンゲンが気づくはずがない。場合によっては観察対象を抹消することも……」
ユキは経済学大辞典を振りかざし、無表情で間合いをじりじりとせばめる。
「まっ、待て!! 違うんだ!!!」
想定外の展開だ。
頭の中の神経細胞を秒速三十万キロメートルで電流が駆け巡り、煮込んだクリームシチューのように真っ白な思考が形成される。
(あれを使うしかない!)
就職活動時代、五十をも超える面接で鍛え上げてきた《はったり》《偽りの記憶》と続く三代究極奥義《知ったかぶり》!!
「案ずるな妹よ、
ユキの足がぴたりと止まる。
「知ってるよ。おにいちゃんが社会的にニンゲンじゃないことくらい」
即答された。
「違う違う、生物学的な意味だ。そもそも俺ら兄妹だろ。当然、俺もイカの血を継ぐ末裔なのさ」
「証拠は?」
ユキは否定しなかった、即ち俺の推測は当たった。
妹は自分を人間ではなく、イカだと思い込んでいるようだ。
近頃はヒロインが地球を侵略するイカだったり、隻眼の能力者であったり、あるいは人間社会に紛れた人喰であったりするアニメ・漫画作品が流行しているから、きっと感化されたのだろう。
俺は靴下を脱いだ。
右足の小指には包帯が巻き付いている。
先日、部屋の本棚にぶつけた小指。内出血がひどく靴を履くときに痛いので、緩衝材として包帯を巻いておいたのだ。
「くっ、右足の小指が疼く……奴が覚醒しようとしている!!」
動かぬ証拠を見せつけられてユキは目をまんまるにした。
「大変!! わたしが
ユキは容赦なく経済学大辞典を投擲した。
圧倒的質量を伴った鈍器は見事、俺の右足小指に直撃する。
「ぐあああああああああ!!!!」
頭を抱えてうずくまる。
ショックで気を失ってしまいそうな痛みが電流となって全身に広がる。
「どう、感動した?」
「するか!!」
「ということはおにいちゃんも《冷凍イカの瞳》の覚醒はまだ……自殺未遂で《死者の眼》を手に入れることはできないしやっぱり……」
「冷凍イカの……瞳?」
なんだかよくわからないことが俺の知らないところで始まっていて、俺を仲間はずれにして勝手に進んでいる。得たいの知れない、気味の悪い感覚だ。
冷凍イカの瞳とは何だ? 死者の眼とは何だ?
だがユキは質問には答えず
「おなかすいちゃった。夜ごはんまだ?」
「あ……、ああ、すぐ作るよ」
狐につままれたような訳の分からなさを抱えたまま、右足を引きずり台所へ向かう。下味をつけたイカを蒸し焼きにするために。
待てよ、イカ――、万が一を考えるとイカを食卓に出すのは危険だろうか。いや、むしろリスクを冒して妹の反応を確かめてみるべきではないのか。先ほどの仕返しではないが、今は《冷凍イカ》とやらの正体を明かすことを優先しよう。
夕食は普段は兄妹三人で食べる。今夜はミユがまだ帰ってきていないため、先にユキと二人で食べることにした。
イカの姿焼きと、焼き鮭とご飯、あさり味噌汁の和風シーフードメニューだ。
「おにいちゃん、これは?」
ユキは席に座らず、包丁を片手に静止している。
眼帯と腕の包帯も、マントのシーツも外したユキは、ふつうの女子高生に戻っていた。いや待て、その左手の包丁はなんだ。
「ああ、イカの丸焼きだよ。タレごとフライパンで蒸し焼きにすると味が染み込んでなかなか美味い。お好みで生姜、塩コショウ、七味唐辛子、マヨネーズ、ネギなどでトッピングすると味のバリエ」
「……ッコロス」
既に間合いを詰められていた。
包丁の切っ先が一閃、服を掠める。
「ユキ!! 目を覚ませ!!!」
(しくじった!! やはり試すべきではなかった!!!)
ユキは包丁を逆手持ちに変え、頭の高さまで掲げる。
眼がコロスと語っている。
激しく後悔した。
とあるギャルゲーをプレイしながら『ヤンデレな妹に刺されて死ぬのも悪くないな』と考えてしまった一ヶ月前の自分を殴り飛ばしたい。
縦に振り下ろされる刃先を斜め方向に避け(恐れるな、リーチは短い……)後方に思い切り跳躍する。
刹那――、
張り裂けるような鈍痛が足先に走る。
着地バランスを崩した俺は床に叩きつけられ転がる。
右足の小指が、ジャンプするときに椅子にぶつかったのだった。
涙目で見上げる。
ユキが真上にいた。
トドメを刺そうとする妹の瞳は突き通る程に暗く、冷たい。
(俺は、馬鹿だ……)
今までの何の変哲も無い日常がどれほど幸せだったかを、そのときようやく自覚した。
眼前に迫る刃――、自分は死――。
「たっだいまー! あれ、何それ新しいプレイ?」
ミユが絶妙なタイミングで帰ってきた。
賢明な末妹はテーブルの料理を見てすぐに悟った。
「ふーん、冷凍イカにまで辿り着いたか。おにいちゃんにしては上出来だけどね。でもやっぱり、外見に騙されてる。本質は分かりやすさの内にはないよ?」
そして一瞬動きが硬直したユキの手をそっと掴み、後ろから囁きかける。
「さん、にー、いち、ぜろ、……眠って」
瞬間、操り人形の糸が切れたようにユキから力が抜けて崩れ落ち、ミユが抱きとめた。手のひらから零れ落ちた包丁が、すぐ耳元で低い金属音を立てる。
気づくとミユは目に涙を浮かべていた。
「ねぇ、はやく気づいてよ。ぼくを助けてよ……」
ミユの悲痛な訴えに、俺は何も答えることができなかった。真相を知るべく質問を何度も投げかけるもしかし、ミユは何も教えてはくれなかった。
自分で気が付かなければ意味が無いのだと。
人類の手には、それを解決できる手段など何一つ無いのだと。
冷凍イカの瞳、死者の眼、人間の変質――。
意味を持たない言葉が、頭のなかを何度もループしていた。
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