08.イキルイミ(俺ガ生キル意味ツテ何デセウカ)

 家のドアの鍵は開いていた。

 玄関に入ると証明も点けっぱなしだ。


 まず目に止まったのは、赤をさらに鮮やかにした少なくともトマトケチャップではない何かの痕跡で、痕は点々とリビングまで続いている。

 おいおい妹よ悪い悪戯はよせよ。良くできた血糊だ。


 誰もいないリビングもまた不気味なほどに明るく晃々としたLED昼白ランプに照らされて、紅緋に染まるフローリングに朱をこびりつかせたオールステンレス包丁が横たわる。


 包丁から少し離れた場所に黒い電動シェーバーのような物体が転がっている。何とはなしに拾い上げて側面のボタンを親指で押し込んでみると、バチチチチと音を立てて青白い閃光が走った。


(スタンガンか……)


 その時点でもう胸の中では不安な予感が破裂寸前まで膨れ上がっていたが、まだ床の液溜まりが溢れたトマトジュースかもしれない可能性は捨てきれない。


 存在しない希望に縋り付き、冷静な思考を失った俺は震える手を床にこすりつけ、ヌメヌメとした赤でいっぱいの指を口に突っ込む。

 吐き気で胃が脈打つようだった。

 しかしようやく感情が理解にたどり着く。

 これは――血なのだと。


 妹たちの体重は知らない。だが失血死に相当しうる量の血液が床にばら撒かれていることを理性が悟った。

 常識的な対応に思い至ったのはその後だった。


(警察だ、警察と救急車だ!)

 ポケットからスマホを慌てて取り出し、ぬめる指で110をプッシュする。うまく状況説明できたかは分からないが、緊迫感は伝わったはずだ。あとはパトカーと救急車の到着を待とう。


(いや、……救急車が来たとして)

 どうなるんだ、妹が居なければ意味がないではないか。

 違う、家の中に妹たちがいるかもしれない可能性はまだ残っていたのだ。


(俺は馬鹿か!!)

 大声で名前を叫んで家中を探し回った。といっても我が家はそれほど大きくないので、三十秒もあればすべての部屋に妹たちが居ないのを確認することができた。


(待てよ、携帯電話だ)

 すぐに、ユキの番号をプッシュする。

 呼び出し音は、ユキの部屋から聞こえてきた。行ってみるとユキの鞄の中からスマートフォンを見つけることができた。


 ユキは外出するときはスマートフォンを必ず持ち歩く。即ち、妹はやはり先ほどまで家にいたのだ。そして何か突発的なアクシデントに見舞われて家から出て行った。


 何か手がかりが見つかるかもしれないと思い、勝手にLINEのチャット履歴を探る。壁紙はプーさんだった。

 フレンドリストの一番上には『彼氏ラブ』という名前があり、恐る恐るチャットページを開けてみると『愛してるよ(ハート)』『今夜もラブラブしようね(ハート)』みたいなやり取りが延々と続いており、別のショックで気を失いそうになった。


 彼氏ラブの下のフレンドには『hitomi』という名前がある。

 開いてみると内容は一変して『死にたい』『私は変わってしまったみたい』と投稿するhitomi。そしてユキが『早まらないで』『一度でいいから妹に会ってみて』と説得する会話内容が続いていた。といっても最終メッセージは二週間も前で、事件の手掛かりにはなれど今の切迫した状況の説明にはならない。


 次にミユに電話をかけると、案の定ミユの部屋から着信音が鳴り響いた。

 ミユの部屋に入る。


 三方壁一面が本棚に囲まれて妙な圧迫感がある。本棚には文系理系問わず分厚い専門書でひしめき合っている。部屋の中央に重量感のある机があって、ノートパソコン、文房具、ノート、経済学大辞典が整頓されて置いてある。携帯電話は経済学大辞典の上に乗っていた。


 ミユのはスマホではなく、旧式の折りたたみ式で押し込み式のダイヤルボタンがあって電波受信用の伸縮式アンテナのついている二〇〇〇年代初頭にヒットしたタイプのデザインのだ。外観は初代FOMA端末に似ていると言えば通じる人はいるのか。それも話によると自作携帯電話らしい。


 画面を開けると黒い画面に白いウィンドウが開きパスワード入力画面が表示される。赤字で書かれた『三回Passを間違えると爆発』という文字が点滅している。ミユが作ったのなら本当に爆発しそうで、俺はそっと携帯電話を折りたたんだ。


 分かったのは、ユキに彼氏がいて、ミユの携帯電話は爆発すること。そして妹の居場所を知る手段が潰えたことだけだった。


 ふと、経済学大辞典の表紙から白い厚紙のようなものがはみ出ているのに気がついた。引っ張りだしてみると、名刺のようだ。

【Adalbert Baden(FSL― Frozen Squid Laboratory)】と記載され、外国の住所と電話番号のようなものが英語で書かれてある。


「冷凍イカ研究所だって!? ふざけやがって!!」

 名刺を机に叩きつけた。


 居てもたっても居られず、考えもなしに一階へ降りて玄関を飛び出る。

 家のドアから三歩と歩かないすぐそこに、制服を着た警察官が地面に三角座りしていた。異様な光景だった。


 だが見覚えのある顔だ。思い出す。

 昨日、南高校で調査していた時に校門前で声をかけてきたあの警察官であった。

 会ったのが昨日でなければ気が付かなかったくらい、警官の顔は青ざめていて別人のようにオドオドとしていた。


「どうしたんですか、とりあえず来てくれたんですね。さっ、はやく中に入ってください」

 俺は警官を家の中に入れようとしたが、彼は三角座りしたまま俯いて、びくともしなかった。


「まっ、まさか怪我を……!?」

 近づいて覗き込むが、外傷は見当たらない。

 そのとき警官が、しわがれた声でぽつりと呟いた。

「死にたい……」


 あまりにも低く消え入る声で最初は聞き間違いだと思ったが、そのうち彼は何度も何度も死にたいと呟くようになった。


「冗談じゃないですよ!! 今、目の前で事件が起こっているんです。どうか、どうか助けてくださいよ!!」

 こちらとて妹の命がかかっている。警官の肩を掴んでぶんぶんと揺らすも、彼は顔を上げることさえしなかった。


「俺、どうして警察官になったんだろう。俺の生きる意味って何だったんだろう……」


「元気出してくださいよ。街の平和を守る、立派な仕事じゃないですか。みんな感謝してますって」


「はぁ、俺だってさ、努力してるんだよ。なのに関係のない上層部の不祥事が原因で最近では交通違反取締るだけで『税金泥棒!!』って罵られるし、目標数値はキツイし……」

 その後警察官は延々と愚痴り始めた。

 もちろん彼の職業上の苦痛話には慰めてやりたい所も多々あったが、今は状況が状況だ。


 俺はぶち切れた。

「ふざけるなよ!! 俺はな、ニートだぞ、ニート!! 無職童貞の男と比べたらお前の方がよっぽど人生輝いとるだろうが!!!」


「ふっ、ニートに、俺の何が分かる」


「尊敬してるんだよ、俺は!! 上場企業の社長だろうが、ブラック企業の契約社員だろうが、コンビニバイトだって関係ない。もちろん警察官だってそうだ。ちゃんと働いて、自分で生活費稼いで、社会人として社会のために経済を回している。そんな当たり前の立派な大人に、俺はなれなかったさ。だから心底あんた達に憧れてるし、尊敬してる。頼むからその夢を壊さないでくれよ。あなたには未来があるんだ。どんどん事件を解決して、昇進して警部にでも警視にでもなってくれよ!!」


 警官はそこでようやく顔をこちらに向けた。

 闇をも呑み込んでしまうような真っ暗な瞳だった。

 そして今度ははっきりと声を出した。


「未来が、視えないんだ……」


 その言葉に俺はドキリとして、思わず後ずさる。

 そうだ、切迫した状況にあることをせめて伝えればいい。

 俺は急いで家の中へ引き返し、リビングから血のついた包丁とスタンガンを拾い上げ持って来て、再び玄関の戸を開ける。


 これを見せればさすがに彼も正気を取り戻すだろう。

 警官は三角座りの姿勢を崩すことなく、戻ってきた俺を虚ろな瞳で見つめた。


「ほら、見てください。俺の右手にあるのが血のついた包丁です。リビングにはもっとたくさんの血溜まりがあります。そしてこっちがスタンガン。どちらも床に落ちていました。妹は家にいないし、連絡も取れないのです」


「それは大変だな……」

 警察官は他人事のように言った。


「殺人か誘拐かがあったんですよ! あなたの出番です。そしてこれは事件の重要な証拠、凶器なんです!」

 俺は包丁とスタンガンを高く掲げた。


 遠くから救急車とパトカーの緊急サイレンが聞こえてきた。

 良かった、応援が来たのだ。このままではどうしようと思ったのだが救急も呼んだのが正解だった。


 そのとき、目の前の警官が不敵な笑みを浮かべた。

「なるほど、凶器か」

 明確な解を見つけたかのような、はっきりと明るい声だった。


「何か分かったんですか!?」


「ああ、分かった。凶器が必要だったんだよ」


 警官はすくっと立ち上がり、腰から拳銃を取り出すと、迷わず自分のこめかみに銃口を当てた。


「ふっ、身近なところにあったじゃないか。俺が楽に死ねる凶器がな」


 拳銃自殺するつもりか!!

 一瞬遅れて理解が追いつく。

 駄目だ、下手に刺激すべきではなかった。バブル・バベルだか何だか知らんが、彼は今、ユキと同じ自殺衝動の症状が出ている。


 救急車とパトカーの音が近づいている。あと三十秒もあれば着くだろう。

 時間稼ぎだ、なんとか時間を稼ぐ。


「お、落ち着いてください。あ、そ、そうだ知ってますよ。警官の拳銃の一発目は空砲なんでしょ。あなたが一発目を撃つ瞬間に、俺は飛び掛かって抱きついてでも止めますから、だ、だからそんな無駄なことは……」


 警官はそれを聞くと口元を歪ませたまま肩をぴくぴく震わせた。


「あっはっっはっはっはははは、ニューナンブの一発目が空砲ってのはなあ、デマなんだよおおお!!!」


 引き金に指が触れた瞬間、俺は意識より早く前に飛び出ていた。

 右手には包丁、左手にはスタンガン。

 どちらを選ぶ?


 左手を前に思い切り突き出した。

 弾けるような音、刹那の青白い閃光が迸る。


 警官は声を発することなく、前のめりに倒れこむ。


 安堵した。

 間一髪、引き金は引かれていない。気絶しているだけのようだ。

 

 一撃で相手を気絶させるようなスタンガンは国内には無い。改造品だか密輸品だか知らないが、とにかく今はこいつに助けられた。


 スタンガンをポケットに入れ、空いた左手で警官の手から銃をそっと抜き取る。

(これで安心だ。ふぅ、右手に血のついた包丁、左手には拳銃。まるで俺が危ない人みたいだな)なんて思いつつも、緊張が解けたのか顔の筋肉が弛緩し笑みのようなものが溢れる。


 そのとき、ちょうど家の門の目の前にパトカーが止まり、車の中から数人の制服を着た警察官が出てきた。少し遅れて救急車も家の前に止まった。


(やれやれ、ようやくこれで事件を解決……)


「武器を捨てて手を上げろ!!」

 新しくやってきた警官たちが、俺に銃口を向ける。


「あっ、これは違うんですよ」

 おとなしく指示に従い、包丁と拳銃、それからスタンガンを地面に落とす。それから手をあげた。


「殺人未遂容疑で現行犯逮捕する!」


 手錠をかけられてようやく、俺は自分のしでかしたミスの致命的な大きさを知ることとなった。



【第一章――冷凍篇――終】 To be continued...

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