04.ブレヱキ(停止スル思考、終焉ヲ知ラヌ人類)

 次の日、七月三十一日。病院に運ばれてからまだ三日しか経っていないというのに、ユキは退院することとなった。


「さすがに早過ぎるよな。骨折ってふつう一ヶ月くらいは入院するもんじゃなかったっけ」


 信号が青色に変わり、ゆっくりとアクセルを踏み込む。国道の制限速度六十キロ近くまで車が加速し、四車線の景色が流れる。運転免許を取得して一年が経つ。今でも助手席には教習所の怖いおじさんが座っていて、自分を睨みつけているような幻覚に襲われる。


「外見に騙されてる」

 助手席に座る妹のミユが口を開いた。


 ユキのいるK大学医学部付属病院は、国道N号線を直進してA川大橋手前を左折したところにある。

 次の信号は青色だった。急いでるわけではなかったが、中途半端な走行位置で黄色に変わると判断に悩むので、このままのスピードで突っ切ることにした。


「おねえちゃん本当は……、ブレーキ!!!」

 ミユが叫ぶ。


 フラッシュバック――《はよ止まらんかボケが!!》――教習官の怒声。

 いっぱいに踏み込むブレーキ。

 シートベルトに押さえつけられる。


 車が急停止した直後、歩道から歩行者が飛び込んできた。もしも飛び出すのを確認してからブレーキを踏んだのであれば、確実に轢いていたタイミングであった。


 後継車の鳴らすけたたましいクラクションはやがて止まる。数秒遅れて前方の信号が黄色、そして赤色に変わったからだ。

 飛び込んできた女性は驚くでも震えるでもなく、焦点の定まらない視線をフロントガラス越しに見せた。冷たい瞳だった。感情無く死にに向かう人間の狂気は、一歩間違えれば人を殺していた可能性の恐怖を上書きするほどに不気味だった。


 女性は覚束ない足取りで歩道の方に引き返す。現場を目撃した通行人たちが、やや目を輝かせてスマートフォンを操作していた。ツイッタにでも書き込むのだろうか。


 ミユがドアを開ける。

「先におねえちゃんを迎えに行ってて。ぼくは後から帰るから」

 返答する間もなく、ミユは女性の消えた雑踏の方へ駆け出していった。


 後ろからまたクラクションを鳴らされる。信号は青になっていた。何事も無かったかのように、しかし何事も無い違和感に戸惑いつつ、俺はアクセルを静かに踏んだ。



***** *****



 受付で手続きを済ませ、病室にユキを迎えに行く。ユキはシーツをマントのように羽織って缶コーヒー(無糖・ブラック)を飲んでいた。


「あ、おにい、ちゃん」

 昨日は『未来が視えない』としか話さなかったユキが、久しぶりにそれ以外の言葉を発した。思った以上に元気そうだった。


「腕は、もう大丈夫なのか?」


「ああ、これね」

 包帯の巻き付いた右腕をぶんぶんと振り回し「今はだいじょうぶ」と言った。


 外見に騙されるとはこのことだ。

 担当医からさっき聞いた。腕は折れてない。ただの検査入院だと。ただし、精神安定上の大きな役割を担っているので、包帯は無理に外さない方が良いとのことだった。有料だがシーツも特別に持って帰って良いことになった。


「腕の方はミユちゃんの封印のおかげで静まっているし、あとは眼帯ももらったし」

 眼帯をつけて左目を隠すと、ユキはほっとしたような顔をした。

「こないだは驚かせてごめんね。空を泳ごうと身を乗り出したら落っこちちゃったの」


 その発言の方がびっくりだが、下手に刺激しない方が良いと思い、俺は肯定とも否定とも取れる曖昧な返事をした。


「とにかく、帰ろう。今夜はシチューにする」

「やったー」


 帰り道、必要以上にスピードを落として安全運転を行い、周囲に歩行者のいるときはいつでもブレーキを踏めるようにした。

 後になってショックがじわじわと蘇ってきて、全身を恐怖で震わせるのだった。もう本当に車を運転したくない。


 後部座席でシーツに包まったユキが嬉しそうな笑みを浮かべているのがせめてもの救いだった。



 ミユはまだ帰ってきていない。昨日の味噌汁の残りにシチューのルーと牛乳と新しい具材を混ぜて、味噌風クリームシチューを作りながらも、帰りの遅い妹を案じる。


 ユキは居間でシーツを被ってテレビを見ている。報道番組はベストセラー小説家の突然の自殺をショッキングに伝えていた。


(この頃多いな……、いや……)

 恐らく、ミユが対峙している人類の危機とは、自殺に関連した何かであることが予想された。ユキの自殺未遂といい、バックにカルト団体がいるにせよ、何故かこのところ身近に自殺が多い。


 ユキと二人きりの夕食を終え、自室に戻ると、さっそく関連する情報をネットで調べることにした。



 日本では年間三万人の自殺者がいるとされる。自殺にカウントされない変死者数を加えると、少なくとも年間十二万人近くの人間が自殺しているとする見解もある。それが本当ならば、一ヶ月に一万人、一日に三百人が自ら命を絶っている計算になり、どこかホラー世界に紛れ込んでしまったような、現実感が色褪せる。

 たしかに、都会にいれば人身事故で電車が遅延することなど日常茶飯事で、我々の感覚の方が麻痺してしまったのかもしれない。


 直近ではリーマン・ショック後の平成二十一年(2009年)の自殺者数が32,845人(警視庁発表統計)とあり、それ以降は減少に転じ平成二十四年(2012年)以降はじつは自殺者数は三万人を割っている。しかし年間十五万人ほどの死因不明異状死体についてはブラックボックスであり、警察や国家でさえ正確な自殺者数は把握できないのだろう。


 自殺の方法は各国によって特色があり、日本では首吊りが約六割を占め、中国では農薬の摂取による服毒死、高層ビルの乱立する香港やシンガポールでは飛び降り自殺が半数以上、銃社会であるアメリカやスイスではもちろん銃火器を用いた自殺が最も多い。


 自殺の主たる動機は万国共通であり、健康問題が筆頭に挙がり、次に経済問題が続く。他にも家庭・仕事の問題、日本では特に過労があるが、全体を見ると人間を死に追いやる原因は病気と貧困に行き着く。


 このところ自殺が多いと感じるのはマスメディアによる報道の影響であり、そこから想起されるのはやはりウェルテル効果であった。ドイツ文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテによって書かれた代表作『若きウェルテルの悩み』は当時ヨーロッパで大ブームを引き起こし、ウェルテルを真似た若者の自殺が社会現象となるほどだったとか。

 ウェルテル効果では、具体的に以下の統計的傾向が見られることを示した。


 一、マスメディアによる自殺報道の後に自殺率が上昇する。

 ニ、自殺が大々的、煽情的に報道されるほど自殺率が上がる。

 三、自殺の記事が入手しやすい地域ほど自殺率が高い。


 今ではツイッタやブログ、ネットメディアであっと言う間に自殺情報が拡散される。ウェルテル効果を信じるならば、一定量の規制が必要なのかもしれない。



(ネット情報で分かるのはこの程度か……。手詰まりだな)

 探していた自殺を蔓延させる怪しいカルト団体の情報は結局見つからず、ネットに頼るしかない自分の非力さが悲しくなった。


 ぼーっとしていると、玄関の開く音と「ただいまー」という声が聞こえた。

 ミユが帰ってきたのだ。

 俺はシチューを温めに一階に降りる。


 ライトノベルの主人公のようにはいかない。しかし自分にできることを為さなければと思った。


 明日からは現地調査をしよう。

 不意に「あしたからがんばる」と書かれたプーさんのシャツが脳裏に浮かんで消えた。

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