03.アキラ(砕ケ散ツタ日常ハ、然シ晶々トシテ)

「どうして死のうと思ったんだ?」

 三度目の試みとなる対話だった。ユキはハイライトの失った瞳で、病室の真っ白な壁をぼんやりと眺めていた。一重まぶたとなった左側の瞳には感情のひと欠片も宿されていないように見える。


 二階の窓から飛び降りたところで、死にはしない。右腕の骨折だけで済んだのが不幸中の幸いだったのかどうか分からない。問題はユキの精神状態にあった。


「未来が、視えない……」

 ユキは何度も同じことを呟き、そこから先は会話にならない。俺のベッドのタオルケットの一万倍は清潔であろう病院のシーツにくるまれてなお、ユキは幸せを感じないようであった。決定的に心から何かが欠落している。


 未来が、視えない――、予知能力をもしかすると持つ妹は視えなくなった未来に死期を悟り、自ら命を絶とうとしたのかもしれない。


 陰鬱な空想にふけっていると、スライド式のドアが開いた。


「お母さん、来れないって」

 電話で席を外していたミユが戻ってきた。


「だろうな」


「おねえちゃんの具合はどう?」


「腕の方は、明日にでも退院できるって。精神科の方は、空きがないからうちでは対応できないとさ」


「おねえちゃん……」

 左手を握って寄り添えど、ユキは妹の呼びかけにも心を開かない。


「おにいちゃんに襲われたことが死ぬほどショックだったなんて……」


「誤解だ!!……いや、はい、そうでしたごめんなさい」


「未来が、視えない……」

 ユキは同じ言葉を繰り返した。

 さっきから何を訊いてもその台詞だ。意識が回復してからというもの、一度もコミュニケーションが成立していなかった。



「あのね、おねえちゃん……」

 ミユがユキの耳元で、声を潜めて内緒話をする。ここからは単語の端々しか聞き取れない。

「だからね……おねえちゃんはこれから……、…………レートウイカ…………トーミン……、……の終わりを……、人間と……ではなく……。…………、…………それはまだ秘密。だから、今は眠って?」


「うん、わかった」

 はじめてユキが口にした意味のある台詞に、俺は目を見開く。しかし聞き返そうとした矢先、ユキは掛け布団に身をうずめ眠りだしてしまった。


「ぼくについてきて」

 ミユが小声で言う。その場で聞きたいことが山ほどあったが、無言で首肯し、静かにスライドドアを閉めて、ミユの後を追った。


 病院の向かいにある公園のブランコに、俺たちはそれぞれ腰掛けた。外気温三十六度の熱射の下では、夏休みといえど人の子ひとり遊んでいない。ヒトスジシマ蚊のメスが飛び回りミンミンゼミのオスが大合唱する他には誰もおらず、俺と妹はセカイに取り残されたように二人きり、灼熱の公園に佇むのであった。


「暑い……」

「ここなら誰にも会話を聞かれる心配がないからね」

 ミユは額に汗を浮かべつつも涼しげな口調で言った。シャツも汗で湿っていたが、ミユはいつも黒系統の色を組み合わせて着るため服が透ける心配はない。だが黒は熱を吸収する。見るからに暑そうだ。暑さが妹の理性を溶かさないことを祈りつつ、次の言葉を待つ。


「信じてもらえないだろうけど」

 ミユはそう前置きして――、

「ぼくね、世界を救うために戦ってるんだ」

 と言った。


「信じる」

 俺は即答する。さらに、

「妹を信じるのが兄ってもんだよ」

 とかっこいい台詞まで付け加えた。俺もまた暑さで理知的思考が吹っ飛んだひとりであった。いや、本当のことを言うと信じてはいなかったが、本心でなくとも『信じる』と答えてやるのが兄としての役割だと思っていた。


「良かった。じゃ、話を進めるね。人類は今、滅亡の危機に瀕している。どうしてだか分かる?」


「ほらあれだろ? それは悪の秘密結社が世界征服のための兵器を開発し、闇の組織が人間を意のままに操り勢力を拡大し、宇宙人が殺人ウイルスをばら撒き、最後にはドカーンってなるやつだ」


「ぼくの話、信じてないよね」

 凍てつく冷たい眼差しで見つめられる。

「あーあ、せっかくおにいちゃんを物語の脇役くらいには入れてあげようと思ったのに、このままじゃモブキャラCだね」


 さすがに俺も論点がズレ過ぎてやや苛立ってきた。

「それより、その話はユキと関係あるのか?」


 ある、とミユは断言した。


「じゃあ、真面目な話、学校でユキのことをいじめている奴らがいて、そいつらと戦っている……とかじゃないのか?」

 ユキが自殺未遂した原因として、家庭環境に心当たりがない以上、学校に問題があると考えるのがふつうである。


「違う。ぼくが話しているのは、あくまで地球規模の危機の話だよ。明確な敵が存在するわけではない。その意味では、この危機はスーパーマンでもウルトラマンでも、ライトノベルの主人公でも解決することは不可能なんだ。世界を救うなんて大げさなことを言ってしまったけれど、実際にぼくらがやっていることは危機を先延ばしにするだけの対処療法にすぎない。おねえちゃんの件もあるし、正直そろそろ限界かなって思う。だからおにいちゃんには助けてほしかった」


「だから! 具体的に! 何を!」


 ミユは首を横に振った。

「ダメ、おにいちゃんが自分で辿り着いて。でなければ、ただの足手まといになる。少なくともぼくは、ひとりで真相に気づけたのだから」


 唖然として、返す言葉もない。ユキの病変のショックからか、ミユまでも重度の妄想癖でおかしくなってしまったようであった。


「ぼくはおねえちゃんに話さなくちゃいけないことがあるから。おにいちゃんは先に帰ってて」

 ミユは冷たく言い放ち、その場を後にする。公園のブランコにひとり取り残された俺は、失恋したばかりの男の図によく似ていた。



***** *****



 味噌汁に入れる玉ねぎを切っていた。時刻は五時を回っていたがミユはまだ帰ってきていない。母はこのところ仕事が忙しいので、帰宅は夜十時を過ぎる。

 孤独を紛らわすためにテレビを付ける。台所から居間に向けてリモコンで何度かチャンネル変更の電波を飛ばす。アニメを見るつもりだったが、ある局番で手が止まった。


 液晶には、ワイドショーのレポーターが、先日に自殺したという某人気アイドルの真相を追って関係者に聞き込みする場面が映し出される。センセーショナルな報道のせいでファンが後追い自殺するかもしれない、といったことをテレビ局はちっとも考えていないようであった。


《――じゃあ、自殺の兆候やそういうのは一切なかった、と?》

《いつもどおりだったやねえ。朝会ったときは目がちょっと腫れていて寝不足気味かな思うたけど、それ以外はとくに……》

《――宗教団体との繋がりを指摘する声もありますが?》

《だからそれはデマやゆうとるやろ!!》


「それだ!!」

 俺は目の前の大根に包丁を突き刺した。

 新興宗教やカルト団体が背後に存在するならば、一連の妹たちの不自然な言動やユキの自殺未遂にも説明がつく。きっと妹たちは詐欺師か何かに洗脳されているのだ。


 なんとかして黒幕を突き止めなければ。

 今後の現実的作戦を練っていると、ミユがようやく帰ってきた。

 ミユは何食わぬ顔で台所までやってきて鍋を覗き込むと、

「わーい、今日はシチューだね!」とはしゃいだ。

「すまん、味噌汁だ……」


 妹の笑顔を守るためにも、戦わなければと決意した。

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