02.ミユウ(海、悠久ニ潜ム、深奥ニ眠リシ精神)
俺はベッドから飛び退き、ドア横の本棚を足の小指で蹴飛ばしつつピョンピョンとスタイリッシュに部屋から飛び出た。
「痛エエエェェェェエ!!!!」
奇声をあげてミユを追いかけようとする。
ところがミユは逃げるでもなく自分から戻ってきた。 黒・紺系の短パンTシャツでショートカットの髪。ボーイッシュなビジュアルである妹は、見た目の通り一人称ボクっ娘である。
彼女はノコノコと階段を上がってきて、小指の痛みに打ち震える俺を見つけると屈託のない笑顔で言う。
「びっくりした?」
正直なところ小指をぶつけた時の衝撃の方がびっくりで、夏とはいえ靴下くらい穿いておけば惨事は避けられたのにと悔やまれる。よく見ると右足の小指が内出血して赤紫色に腫れていた。
ミユの話によると、母さんは買い物に出かけていて、俺達のほかには誰も家にいないらしい。それを初めから知ったうえで、からかったとのこと。まだ中学二年生の茶目っ気あふれる小さい方の妹には、本当に手を焼かされる。ニート(二十ニ歳)の息子が妹(十六歳)に手を出す――うちの母親なら信じかねない。
「まったく冗談じゃない、危うく社会的に死ぬかと思った……」
「えっ、おにいちゃんはもうとっくに……」
ミユは何か良からぬことを言いかけたが、突然思い出したように手を叩く。
「辞書を借りに来たんだった」
何食わぬ顔で俺の部屋に入ると、忌々しき本棚から目当ての本を物色し始めた。
「あれ取って」
ミユが指差したのは、棚の上段でホコリを被っている経済学大辞典だった。
仕方なく取って渡してやると、ミユは嬉しそうに表紙を撫でる。
ミユはうちの家系では一番頭が良く、大学教養レベルの学問はすべてマスターしたと自称する。実際に学校の成績はそこそこ良く、親戚からは神童だと期待されている。ちなみに俺もむかしは神童と呼ばれた時期があったが、幻想は儚く消え去った。
息子がこんな有り様だから、両親は末っ子に縋るような期待を向ける。そして妹を買いかぶり過ぎている。ミユはちょっと他人より賢い程度の中二病でナルシストなだけだ。大言壮語な戯言に親は騙される。
十で神童、十五で才子、二十過ぎては只の人、三十過ぎれば魔法使い。
子どものときに天才だともてはやされても、大人になれば凡人へと成り下がる。哀れな妹よ、貴様も七年後には『御社で働かせて下さい!』と頭を下げて回る日々がやってくるのだ。
妹が自己を過信し、自惚れ、道を踏み外すのは兄として阻止する必要があった。
だから、嫌味たっぷりに言ってやる。さっきの仕返しだ。
「あれれー、ここの棚の本はぜんぶ《記憶》したんじゃなかったのかなー? 完全記憶術(笑)を極めたとか言ってたミユちゃんは」
「あ、これはおにいちゃんの頭を叩く用に持っておこうと思って……」
即答だった。その発想はおかしい。
ミユは嫌味など気に介していない様子で、今度はベッドの方に目を向けた。
存在をすっかり忘れていたが、ユキはタオルケットを身体にすっぽりと被り、ハロウィンに出てくるシーツオバケのような姿でベッドの上に佇んでいた。窓から差し込む日光を浴びてシーツオバケはひなたぼっこをしているようであったが、タオルケットが薄汚れている分、よりホラー感が増していた。
「おねえちゃん……」
「そっとしといてやれ。俺のベッドが気に入ったらしい」
ミユは蔑みに満ちた一瞥を俺に浴びせたあと、タオルケットオバケの元に駆け寄って小声で呟いた。
「大丈夫だよ。ぼくはどんなことがあっても、おねえちゃんの味方だから」
タオルケットは肯定するかのようにワサワサと上下に揺れた。
「さあ、用事が終わったんなら出て行ってくれ。俺は仕事を探すという大切な……」
しかし妹は首を静かに横に振って、冷ややかな視線のままパソコンの液晶モニターを指差した。
二十一・五インチのモニターには、二次元少女たちの十八禁な画像のスライドショーが展開されているのであった。特定フォルダの画像をランダムに表示させるスクリーンセーバーは、パソコンのデスクトップ画面を右クリックしてプロパティもしくは個人設定ウィンドウを開くと設定することができる。手軽にフォルダ内の画像をシャッフルして鑑賞するときに便利であり、俺の場合、ニ十分間キーボードやマウス操作が無いと自動的に起動する設定になっていた。
「ぎゃああああああ、ち、違うんだ、これはその、そうかコンピューターウイルスだな!! 国家スパイのハッカー達め、よくもこんなひどいサイバーテロを!!!」
ミニタワーPCの電源ボタンを素早く押し、パソコンを強制終了させる。
ミユはしかし表情ひとつ変えず、淡々と言葉を発する。
「辞書を借りるついでに、夏休みの宿題を教えてほしくって」
「わ、わかった、なんでもする」
「社会学の研究レポートなんだけど……」
「ま、まかせろ!」
こうみえても俺は経済学部を卒業している。中学レベルの社会を教えるなど、お茶の子さいさいだ。それに妹に勉強を教えるという行為は、なかなかに自尊心を満たしてくれる。
「……じゃあ、赤ちゃんの作り方を教えて?」
ふぁっ!?!?!??
社会じゃなくて保健体育だったのか、否これはトラップだ。正解は生物学!!
「えぇーと、ヒトにおける生殖行為というのは、生殖行為というのは……」
ダメだ、これあかんやつや……。言っている自分が恥ずかし過ぎて赤面する。
刹那――。確かな質量を伴った打撃が頭頂部を直撃する。
咄嗟に身を躱そうと足を後ろに引いた瞬間、右足小指に激痛が走りよろけて尻餅をつく形で倒れこむ。
眼前には千頁超の鈍器(辞書)を片手で振り下ろすミユの姿があった。
痛ッ!!! 痛ッ!!!
「残念だな。就職率九十九パーセントを謳う私立大学に入ったのに内定が決まらなかったのは学問に没頭し過ぎたせいだ、と弁解していた天才おにいちゃんに聞いているんだよ?」
精神攻撃も痛い!!!
「もう一度聞くよ。ちょっと質問文を省略しちゃったから、おにいちゃんのために補足しよう。
前提として、中国やインドを始めとしたアジア諸国では中絶等による男女産み分けが進められ、胎児が女の子であった場合、賃金格差や家父長制の根強い社会では著しく不利なため個々の親は中絶・堕胎を決意する。結果として、一人っ子政策を推し進めてきた中国では特に性比アンバランスが顕著で、2010年時点での出生性比は121(女児の数を100とした場合、男児の数が121となる。世界平均は105)となり、これは人口動態学上異常な数値となっている。このように男女格差の解消されていない地域では性比不均衡が深刻な社会問題となっている一方で、先進諸国では女性の社会進出に伴い出生率が低下し少子化が進んでいるとされる。ただし多産多死から少産少死へと移行するのは経済発展の帰結であり人口転換理論の通りである。また女性の権利として「産まない自由」も尊重されて然るべきである。しかし問題の本質は産みたくても産めない現況にあり、我が国では以下のような諸問題がある。医療訴訟リスクの増大と産科医の減少及び出産難民の増加、経済成長と資本主義システムの限界による若年層の貧困問題、出産を理由とした不当解雇の蔓延、夫婦で育児分業するのが困難であるワーク・ライフ・バランスの定着、依然として残る男女間の三割弱の賃金格差、非正規雇用の増大……など。
上記の点を踏まえて、……赤ちゃんの作り方を教えて?」
前提となる説明文を省略し過ぎだろ!! それにテーマが重い、重すぎる。
現に無職で童貞の男に聞いて良いような質問ではなかった。しかし、もしも妹が、経済学部卒の兄を頼って訊いてくれているのだとすれば、俺は――。
表情の変化を察したのか、ミユは少し微笑んで言った。
「ぼくの兄なんだからさ、卑屈にならずにもっと自信を持ってよ」
そうか、ミユは俺に誇りを持ってもらうために、敢えてこのような質問を振ってくれたのだ。良かろう、ならば答えよう。経済学部生の名に懸けて!!!
「少子化の原因は、人々が未来に希望を持てなくなったことにある」
キリッとした口調で言い切った。
「そんな陳腐な言葉じゃ……」
「違う。難解な専門用語こそが、理解から遠ざけるんだ。それに、社会は結局のところ個々人の心理と行動が集まって成り立つ。だからまずは個人の考え方を分析しないと」
俺は話を続ける。
「未来に希望が持てない、つまり先の視えない不確実性の高い世界に人々は投げ込まれている。自分の置かれる状況の不確実性が高いと、人はできるだけリスクや損失を回避する行動を選ぶようになる」
「損失回避性……不確実性市場における意思決定の期待効用理論……」
ミユはよく分からない言葉を呟きながらも、キラキラした瞳を向けてくる。
俺は調子に乗って話し続ける。
「例に挙げられていた男女産み分けによる性比アンバランスは、格差リスクを回避したもの。産科医の減少は訴訟リスクを回避したもの。非正規雇用の増加や給与所得の減少は、企業が来たる不況や金融恐慌のリスクに備えた結果。男女間の賃金格差や産休切り・育休切りは、やはり企業が労働生産性低下リスクを回避しようとした結果に過ぎない。
だから今の人々は、リスクや損失を極度に避け過ぎているんだ。言い換えると、リスクを恐れるのは未来が不確実であり、希望が持てないから。どうしてそのようになったのかは分からないけれど、人は遠くにある未来が視えずに、目先の利益に飛びつくようになった。目先の損失に過剰反応し、遠くにある滅亡から目を逸らすようになった。その行動傾向が社会を形成する」
「価値関数の変化、感応度逓減性、参照依存性、プロスペクト理論……」
「未来にある、失われた希望を取り戻すこと。それが赤ちゃんを作る方法なんだ!!」
俺カッコイイと思いながら渾身のドヤ顔を決めた。
ミユもぱあっと表情を輝かせ、
「すごいよ! ぼくが聞きたかったのはそういう話なんだ」
とはしゃいだ。
兄と妹の幸せな時間も束の間であった。
窓の開く音と、裏庭に鈍い物音が聞こえたのはほぼ同時であったと記憶している。
迷いの一切無い行動に、止める隙もなかった。
タオルケットが強風に煽られ不吉に空を舞う。
殻になったベッドが、虚しく佇む。
「ユキ!!!!!!」
七月ニ十九日、ユキは二階の俺の部屋の窓から、飛び降り自殺を図る。
それは人類滅亡の幕開けに過ぎなかった――。
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