妹の左目は、冷凍イカの瞳。

五条ダン

第一章――冷凍篇――

01.ユキハ(雪、解ケテ若葉、萌ユル刻ハ醒メテ)

【第一章 ――冷凍篇―― In the case of Akira Hino(日野晶の場合)】


 ◇ ◆


 二次元の少女に恋するのはいい。失恋する心配をしなくてよいからだ。

 同様に、ニートの俺には失業する心配がなかった。嗚呼、素晴らしきセカイ。


 二十一・五インチの液晶モニターに美少女たちのイラストを映し出し、いつものように空想に耽る。イマジネーションを創作活動にでも活かせば良いのかもしれなかったが、生憎俺は文才も画才も持ち合わせていない。さらに他者に認めて欲しいという承認欲求も希薄だった。


(というよりまず就職先を探さないとな……。いや、今は目の前の二次元に集中するんだ!)



「ぎぇぁぁぁああああああ」


 その時(より正確には二次萌画像掲示板の十二番目のスレッドを開こうとした時)、下の階から悲鳴が聞こえてきた。下といっても我が家は二階建てなので、つまりは一階の洗面所あたりから奇声が発せられたのを察知した。悲鳴が消えるとすぐに、けたたましく階段を駆け上がる音が近づいてくる。


 おっとこれはもしかするとマズイ。反射的に、ブラウザのお気に入りバーから一番上の項目をクリックし、ハローワークのページへと切り替える。さらば二次元。こんにちは現実。


 刹那――、「おにい、ちゃあぁぁああん!!!」

 先ほどの悲鳴の主が部屋に飛び込んできた。ノックもなしに!


「ユキ、入る前にノックしろっていっつも言ってるだろ。 お兄ちゃんは仕事探しでとっても忙しいんだ」

 回転椅子をくるりと回し腕組みをして、兄としての威厳たっぷりに言った。


 ユキというのは俺の妹で、しかし妹は現実に二人いて紛らわしいのでここではユキとしておこう。大きい方の妹、ユキは先週から夏休みが始まっていて、高校一年生だというのに勉学に勤しむでもなく家でゴロゴロしてばかり。まったく将来が心配なことこの上ない。


 ユキは家の中ではいつもプーさんの絵柄の入った白いシャツを着ている。やる気の無さそうなプーさんの顔の横に「あしたからがんばる」と筆文字で格言めいた言葉がプリントされているのだが、俺はそのシャツがなかなか気に入っていた。今日もユキはプーさんの「あしたからがんばる」シャツを着ていた。


 だから俺は家のなかで妹を見かけるたびに決意するのだ。そう、明日から頑張ろうと。明日から。



 さておき、今日のユキはまるで明日さえ迎えられないとでもいうような、何かに絶望した顔をしていた。


「目がぁぁぁああ……、目がぁぁぁああ……」

 そして妹は俺の目の前で膝から崩れ落ち、涙をこぼした。


「ユキ、何があった。話してみ。それとも救急車が必要ならすぐに……」

 机のケータイ電話に手を伸ばすが、そうじゃないのと止められた。


「もしかして、人生相談のたぐいか?」

 尋ねると、ユキは小さく頷いた。長い髪で隠されて、表情までは見えなかった。そして無言で俺のベッドまでふらふらと歩いてボフッと倒れこむ。薄汚れたタオルケットを顔まで被って、塞ぎこんでしまった。

 妹が兄に人生相談、現実ではなかなかあるシチュエーションではない。こんなときのために日頃から妹モノのライトノベルを読み漁っておいて良かったぜ、と心底自分を褒めた。



「おにいちゃんは、気づいた?」

 タオルケットの中からくぐもった声が聞こえた。俺は質問に対しては首を横に振ったが、それでは伝わるはずがないと数秒遅れてから気づき(ちくせう、これだからコミュ障なんだ)


「いや、さっぱり。なにがなんだか。目が……どうかしたのか?」と返す。


「ニンゲンってさ、変わるもんだよね」妹はぽつりぽつりと語りだした。

 というよりもここから先の妹は、人間というよりキャラが変わり果てていた。


「わたしね、このまま自分はずっと変わらないんじゃないかって幻想を抱いてた。おにいちゃんがいつになっても就職先を決められないように、わたしも永遠にこのままなんだって。でも、現実は残酷だった。

……最初は戸惑った。それでも事実を受け入れるしかなかった。ヒトは、成長する。換言すると、ニンゲンは変質してしまう、心身共に。この世の絶対的真理に辿り着いたとき、わたしは、嗚呼このセカイでたったひとりで死んでしまうのだなぁ、と悲しかった。生命は変質し、やがて死に至る。諦メロ! ニンゲンは其のエントロピーの増大を《成長》という言葉で誤魔化し、死から目を背ける。結論として、わたしは変わってしまった。変わってしまったんだ。顔を洗ってなにげなく鏡を見た、目の前に居たのは《左目の覚醒した自分》だった……」



 なんなんだ、妹が、中二病に!! それはそれはもう鳥肌が立つどころか全身をナメクジが這うような恐ろしい感覚だった。おいやめろそれ以上の黒歴史を遺すんじゃない!!!


 問答無用でタオルケットを引っぺがすとユキは小さく悲鳴を上げた。


「その覚醒した目とやらを見せてもらおうかあああ」

 丸い肩をわし掴みにし、正面からベッドに押し倒す。


 反抗と戸惑いの色を混ぜた双眸が俺を見つめる。否、問題なのは覚醒した左目だ。


「ユキ……その目……まさか……」


「ッ…………」


 妹は気まずそうに視線を逸らす。正常な右目から涙が溢れ、頬を伝った。

 ショックを受けるのも無理はない。


 だが俺は非情にも、事実を宣告する。

「左目だけ、一重まぶたになってるじゃないか……」


「……、……」


 顔を近づけてまじまじと見る。たしかに片方だけ一重になっている。

 ユキはくっきりとした二重まぶたがチャームポイントだったのだ。下の妹(名をミユと言う)は一重まぶただったから、ユキをたいそう羨んでいたっけ。自慢の二重まぶたがある日突然、片方だけ一重まぶたに変わる。年頃の女の子としてはさぞかしつらいだろう。


「実はな、俺も昔は二重だったんだ。けど、成長するにつれて、片方だけ一重になり……やがて両方とも一重まぶたになった。遺伝、なんだろうなぁ。父さんもそうだったらしいし。ショックだろうが、こればかしは仕方がない」


「……知ってた」


「でもな、たとえどんなに変わっても、ユキはユキだ。大切な妹であることは変わらない」

 キザなセリフを言いつつも、頭の半分で俺は(わ り と ど う で も い い)と冷めた気持ちであった。二重が一重に変わることがそれほど重大なことだろうか。ただ少なくとも、泣いている妹に共感しようと努力することは大切であると感じられた。


 ユキはきっと、世界で誰よりも心細いはずだ。

 たとえば髪を切った翌日の学校、メガネをかけることになってからの初登校日――、そんなものとは比べ物にならないほどの戸惑い。今まで二重まぶたで生きてきたのが、ある日突然一重になる。これまでの人生が一変する。


 現実は受け止めるしかない。

 俺にできることは、目の前にいる女子高生の妹を抱きしめることくらいだった。


 実際にむぎゅーっとしてみると、触れ合う肌はサラサラとしていて、どこかくすぐったい感覚が妄想とは乖離していて意外だった。


 そのとき――、「おにいちゃん、辞書貸し……あっ……」

 小さい方の妹、ミユが呆然と、開け放たれたままだったドアの前で立ち尽くしているのだった。

 もはやユキの目などどうでも良くなった。一重まぶたなんて可愛いもんだ。

 ミユのそれはまさに《ゴミを見るような瞳》だったのだから。

 否、ゴミよりもっとひどい。ゴキブリの死骸を見るときのようなおぞましい瞳だった。



「ちっ、違うんだ。これは不可抗力で……」



 小さい妹は踵を返し、全速力で階段を駆けていった――であろう音がした。

 それから数秒と経たず、


「お母さん!!! おにいちゃんがベッドで!!! おねえちゃんを襲ってる!!!!!」



「ぎぇぁぁぁああああああ!!!!!」

 叫び声をあげたのは俺だった。

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