第75話 騎士

 近頃、菊が連れてくるようになった男のことを、気にすまいとしてもつい、気になってしまうジョヴァンニだ。

「私は別に、連れてきたいって思ってるわけじゃありません。」

 菊が、やっきになって言い訳するのも気にくわない。

「勝手に付いてきちゃうんです。」

 Europaヨーロッパの人々の中でも背の高い方である自分とあまり変わらないほど長身ちょうしんで、それだけでも目立つのに、背の真ん中に黒々と髑髏がいこつを染めぬいた真っ赤なにしき羽織はおりに、真っ黒に染めた幅広はばひろ皮袴かわばかまいている。ちょっと大きい犬みたいな日本の馬の中では突然変異としか思えない、これまた大きい、見事みごと鹿毛かげに乗って、飄々ひょうひょうと現れる。

 彼の馬が現れると、弥助は、それまでしていた仕事を放り出して迎える。

 元々は菊サマ、菊サマ、と姫を慕っていたのに、どういうわけなんだか、最近はすっかりこの男になついてしまっている。とうとうオルガンティーノ神父に、男の従者じゅうしゃになりたいと直談判じかだんぱんしたのには驚いた。

 男が、

「俺の従者なんぞになったって、給金きゅうきんは出ないぞ。」

と言っているのに、

「構イマセン、御供おともサセテ下サイ。」

と馬のくつわを握って放さない。オルガンティーノが許すと、嬉々ききとして付いていき、馬と一緒に寝泊りしているらしい。

 朱塗しゅぬりの見事なの槍を片手に、大きな鹿毛の手綱たづなを引いたたくましい黒人の従者を従えた男の姿は、一幅いっぷくの絵を見るようで、いやおうでも人目を引いた。

 男は信者でもないのに教会に物顔ものがおで乗り込み、もの珍しく見て回る。

 今日も、ジョヴァンニが時計を修理している手元を興味深そうにのぞき込んでいる。

修道士イルマンは絵をお描きになるだけではなく、色々なことがお出来のようだ。」

「私たちの故郷はあまりにも遠く、ここには何も無い。一から全てを作っていくほかありません。」

 時計だけでなく、楽器もジョヴァンニがこの地で製作したものだ。オルガンなどはここ日本ならではの材料である竹で作った。

「ローマへ送られた使節団が戻ってくるときに色々な物を持って帰ると約束しました。そうすればもっと物が増えるでしょうが。それまではここにある物でやっていくしかない。」

 後二・三年すれば、使節団は戻ってくる。でも、それまでにやっておかねばならないことがある。今日菊を呼んだのも、そのことのためだった。

 先ほど、オルガンティーノやジョアンも居る前で、ジョヴァンニに告げられた菊は不安をあらわにした。

法王庁ほうおうちょうに贈る絵を、この私に、ですか?」

 法王庁、即ちローマ教皇の下、全世界のカトリック教会を統括とうかつする組織である。

「我々の居るここ日本は、ローマからあまりにも遠い。」

 オルガンティーノは言った。

「そのため黙っていると、存在を忘れられてしまうのです。」

 一番困るのは送金が途絶えることだった。

 本当は、法王庁や後援者のスペイン国王から送られる金で、教会の経費を全てまかないたい。でも、送られてくる金は聖画同様、地球の反対側にある日本に着くまでに、途中立ち寄る港々にある教会に抜き取られていってしまい、何処も台所が苦しいのだ、ほとんど残っていなかった。

 世知せちけたヴァリニャーノは、マカオとの中継貿易の権限を手に入れたが、教会自らが深く貿易に関わり、世俗の利益を得ることについて教会の内部からの反対もあったし、外部、つまり貿易の利益を狙う領主たちからの反発やいざこざを招くきっかけにもなった。教会は、その存在を本国に強くアピールする必要があった。それは同時に、ジョヴァンニの日本人画家に対する教育の成果を問うものでもあった。

「あなたしかいません。」

 ジョヴァンニは愛弟子まなでしを熱心に説いた。

「私なんかで本当によろしいのでしょうか。」

 菊も最初は渋っていたが、とうとう承諾しょうだくした。

「ふうん、姫君、俺が居ない間に随分苦労したんだな。俺は何の力にもなってやれなかった。」

「あなた、菊の何なんですか?」

 ジョヴァンニは、たまりかねて尋ねた。

 慶次郎はジョヴァンニの顔をしげしげ眺め、ニヤッとした。

「あきらめな、人妻ひとづまだ。俺だって我慢ガマンしてるんだ。」

「わっ、私は神に仕える身です、何をそんな……。」

「かといって木石ぼくせきって訳じゃないだろう?」

「しっ、失礼な……。」

 思わず言ってしまった。

「私が、この私が女などに惑わされるわけがない、女に惑って、ろくな結果になるわけがない!」

 閉ざされて、決して開かれることのない窓、黒いベールにおおわれた、いえることのない傷、深い闇の中に光る黒曜石こくようせきめども尽きぬ悔恨かいこんの泉。

 自らの思いにとらわれていたジョヴァンニは、慶次郎の怪訝けげんそうな表情に気づいてはっとした。このいかにも軽そうで調子のいい男は、ふとした拍子ひょうしに、他人の心を見透かすような目をすることがある。今もそうだった。

 だが慶次郎は深追ふかおいはしなかった。さらりと言った。

「上杉は、実家を失って市井しせいに暮らす妻を見捨てるような男じゃない。何かあったら彼女に手を貸すために自由にさせているのだろう、離縁りえんする気なんぞねえよ。」

「あなたこそ何なんです?」

 むっとして尋ねるジョヴァンニに、

「俺か?俺は、ただの彼女の下僕げぼくさ、身分が違う。なかなか変えられないもんだ、世間のおきてってやつは。」

「じゃあ、あなたは」

 ジョヴァンニは興味を持った。

「Cavaliereのつもりですか?」

「カバ?カバって……何だ?」

「カヴァリエーレは騎士きしです。エウロパの昔の武者むしゃのことです。彼らは勇気・敬神けいしん任侠にんきょう礼節れいせつ廉恥れんち名誉めいよ鷹揚おうようなどのとくを理想としていました。たとえ受け入れられることがなくとも、貴婦人きふじんに対しては絶対の忠誠ちゅうせい至上しじょうの愛を誓うのです。」

「ふうん。」

 慶次郎は考え込んだ。

 血を浴びてたけり立った気持ちを鎮めるために、戦の後には女遊びがつき物だった。彼だって男だ、人並みに楽しんできた。しかし菊とたわむれて遊ぶなどということは考えられなかった。

 彼女はいつも忙しかった。店をりし、子供の世話をし、使用人に指図さしずし、南蛮寺に出かけていって、生徒に絵を教え、訪ねてくる日本人の画家たちの応対をし、時には松の一座を手伝い、自分の時間があれば絵筆を取っていた。その脇を誰かれがあわたしく行きかい、指示をい、来客を告げたりしている。

 彼はただ、それを眺めているだけだった。それだけで心が安らぐのは何故だろう。

「いいことを教えてくれた。よし、決めた。俺はその、カバって奴になる。」

 ジョヴァンニは驚いた。

「だって、もうとっくの昔に滅びた人たちですよ?」

「そりゃあいい。」

 慶次郎は白い歯を見せた。

「俺は時代遅れの男なんだ。」

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