第76話 一つ松
その日も午後から
それなのに督姫と明姫が手を
「もうすぐ舞台が始まるというのに、どうしましょう。」
達丸や揚羽たちにも探すよう言いつけて、菊は絵筆を放り出して、小屋に駆けつけて行かざるを得なかった。
その頃松は一人、町の中をふらふらと歩いていた。
店を
何もかもつまらなく
時々男たちから声をかけられたが、無視して歩いた。だが、いつまでもしつこく追いすがる者たちもいる。
松が声をあげようとしたとき、
「珍しいな。一人か。」
頭上から声をかける者がいる。
「慶次郎……。」
弥助を連れた慶次郎が、馬上から見下ろしていた。
しつこく
慶次郎は松の手を取って、
松は、馬の首を軽く
「ほんと良い馬ね。
「『
音の清きは
松が
「よくわかったな。
「もちろんわかるわよ、それくらい。」
松は得意になって言ったが、ふと表情に
慶次郎は松の様子を
「今日は時間があるんだろう?ちょっと遊びに行かないか?」
と誘った。
「いいわよ。あたし、
松は投げやりに
慶次郎は松を、あっちこっち引っ張りまわした。
お腹が
待つ間、慶次郎は、ここの店を
我が恋は 建仁寺なる さそめむの
心ふとくも おもひよるかな
と歌った。
長いこと待ってやっとありついた
現在、素麺というと夏のものだが、この時代は、季節に応じて、冷やしたり熱くしたりして食べ分けていたようだ。
慶次郎と連れ立っていると、皆が振り返るのは何とも、こそばゆい思いだった。
今日の彼は、黄色地に、
「あなたってほんと、女も顔負けなくらい
松は首を振った。
「ああ嫌だ嫌だ、あたしは姉上のようにはなりたくない。
「十分ちゃらちゃらしているじゃないか。これ以上、どうしようっていうんだ。」
慶次郎は、松の全身を、上から下まで順に
梅の木に群れ遊ぶ
「皆、松殿を見て振り返っているよ。」
松の顔から
「違う。」
ぽつりと言って顔を伏せた。
「それは、あたしがいかにも、
慶次郎は黙って、松の次の言葉を待っている。
「あたしは……あたしは世の中全てが
松は市のたつ日など、人が集まりそうな日に、
客の入りはそこそこだった。実入りといってもたかがしれている。菊の扇屋が年々大きくなっていくのに比べ、いかにも不安定な
松が
でも、そうなったらそうなったで、松は、
わけは身分制度にある。
厳しく身分が定められているこの世の中で、河原で芸能を行う
(
(ここでは踊りを上手く踊れば踊るほど、さげすまれたり、からかわれたりする対象になってしまう)
かといって、力仕事は出来ず、針仕事をしてもすぐ
(姉上みたいに、自分の得意なことが仕事になって、しかも、さげすまれる対象にならない人は恵まれている)
松は、かつて
「あたしは普通の女よ。姉上のように、自分の信じた道を突き進むことだけが生きる目的、みたいな女とは違う。おしゃれもしたい、おいしいものも食べたい、くだらないことをしゃべって、楽しいことをして遊びたい、つらい時には……誰かの肩に寄りかかりたい。」
慶次郎は黙って馬をゆっくり歩かせている。
彼が何も言ってくれなくても、心の中に
馬は
「前田慶次郎だ、慶次郎が来たぞ!」
人々がわあっと歓声を上げた。
「遅いぞー!」
「何やってたんだ、早くやれー!」
「もうずーっと待ってたんだぞー!」
慶次郎は、何が何だか、わけがわからないようだ。
「何だ、どうしたんだ?」
「旦那さま。お忘れですか。」
慶次郎のところに来てからというもの、
「今日は『カブトムクリ』の日、です。」
「ああ、そうか。」
言われて初めて気が付いた、という
「今日だったか。すっかり忘れてた。」
「何、何どうしたの?
根が珍しいもの好きの松は、
「まあ、松殿はここで待っていてくれ。」
馬を降りると、河原へ下りていった。
河原の真ん中は
「いくら
「いや、前田慶次郎といえば、評判の力持ちだっていうじゃないか。」
「討ち果たした敵は数知れずというぞ。」
「先だって亡くなった織田四天王の一人、滝川一益の甥の子だとか。」
「どうも甲賀流忍法の使い手らしい。」
「いや、槍の名手だっていうから、槍でくるくるっと兜を巻き取っちゃうんじゃあないかい?」
口々に勝手なことを言っている群集の後ろから、松は息を詰めて慶次郎を見つめた。
慶次郎はつかつかと兜のところへ歩み寄ると、
皆、次はどうなることかと、息を止めて見つめた。
「はい、『兜むくり』はこれでお終い。」
たしかに、兜は『まくられ』て向きが変わった。
彼の言うことに
皆、あっけにとられた。
次の瞬間、うわぁーんと
「な、なんだ、何だ、何が起こったんだ?」
「なんだよー、何だったんだよー!」
「兜むくりって、何だ、これだけかよ!」
ぶうぶう言っている群集が、ざわざわと帰り
人ごみを
「全く、あなたのバカさ
松はズケズケと言った。
慶次郎は大声で笑った。
「ようく
「ええ、あなたもね。」
「でも皆、楽しんでいる。」
「そうかしら?」
「そうさ、俺も楽しい。姉上だって絵を描くのを楽しんでいるんだ。松殿だってもっと楽しんでいいんじゃないか?」
納得できないわ、と思っても彼の言葉は、ことん、と、松の胸の奥深くに届いた。
慶次郎は松を馬に乗せ、
「そろそろ帰るか。」
と言う。
冬の日は暮れるのが早い。木々は長い影を落とし、日は既に西に傾いている。
「有難う。あなたって結構いい男ね。見直したわ。」
松が言うと、慶次郎はフフン、と笑った。
「なんか、あたしたちって似ているわね。
慶次郎は又、フフンと笑った。
ちょっと胸が痛んだ。
松の表情を、慶次郎は
「おぅ、俺に
「誰が」
松は口を
「あなたみたいなヘンな人。あたしはねえ、言い寄る男に不自由はしてないの。かわいそうな姉上に譲るわ。だって、あなたしかいないんだもの。」
慶次郎は
「
「だからぁ、おごってくれる人にも不自由してないの。ただね」
松はちょっと胸を押さえた。
「
素直に言った。
「あの人は、あなたの本当の価値なんか、ちっともわかっちゃいないのにね。」
「おぅ、そこまで買ってくれるとは有難い。それ今度、本人に言ってやってくれ。ヘン、ってとこは抜かしてな。」
店に近づくと人だかりがしている。
「あら、どうしたんだろう?」
店の前には菊や揚羽、店の者から一座の者まで、全員そろって、こっちを見ている。菊は
その
「いけない……今日踊るはずだったんだ。」
「松!慶次郎!一体これはどういうこと!」
菊は今まで見たことが無いほど怒っている。
「
慶次郎はすっかり弱って、大きな身体を松の後ろに隠すようにして、
「ああ……言ってやってくれよ、なあ。」
松は
「え?あ、ああ、姉上、あなたは、この人の本当の価値をわからないんだわ……。」
「ええ、ええ、ちっともわからないわ。皆にも、全然っ、わかんないと思うわっ!」
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