第77話 恋や恋

 烈火れっかごとく怒っている菊に、出入りを差し止められた慶次郎は珍しくへこんでしまって気の毒だったが、松は又、踊る気になった。

 寒風が吹き付ける河原の小屋だけど、都の周囲の農村から、市に収穫物を売りに来たり、買出しに来たりで、往来はせわしなく、興行こうぎょうをうてば、何がしかの収入になる。

 子供の成長は早いもので、すっかり踊りが上手になった督姫と明姫に『ややこ』を踊らせ、松は大人の色気をにじませた『かか踊り』を踊る。

 雨が降って実入りが悪くても、座員の間でめ事があっても、しつこい酔っ払いにからまれても、どんな嫌なことがあっても、一端いったん踊りだすと、松は全てを忘れてしまう。


   花の都の経緯ゆくたて

   知らぬ道をも こころしてへば 迷わず

   恋路こいじなど かよれても 迷ふらん

   こいこい われ 中空ちゅうくうに なすな恋


 だが今日の松は、客席の中に見知った顔を見つけて、少し動揺どうようしている。

(春日……)

 べっとりと白く塗った顔、真っ赤な唇、高価そうな小袖のえりを大きく抜いて、それでも春日は華やかで、目立つ存在だった。正面の二列目のところで、金回りのよさそうな老人にしなだれかかり、扇で顔を隠しながら見ている。

 松は猛烈に腹がたった。

 あんな前で、これ見よがしな格好をして。

 申し訳程度に顔を隠して、あれで誰だかわからないとでも思っているのだろうか。

 松はなるべくそちらを見ないようにして、はるか後方に視線をやりながら踊った。

 黒いりの笠をかぶって、ひっそりと座っている男の姿に目が留まった。

 その姿。形。

(見覚えある)

 誰、だろう?

 次の瞬間、松は雷に打たれたように踊りをやめた。

 言葉にならない叫び声を挙げると、舞台から飛び降りた。

 観客は仰天ぎょうてんした。

 松は人々をき分けながら進もうとする。

 その前に立ちふさがったのが、春日だった。

「何が悪いんですか、ちょっと踊りを見に来ただけじゃないですかっ!」

「うるさいっ!そちなんかに用は無いっ!」

 松は春日を押しのけて、尚も進もうとした。

 春日も負けてはいない。

 いになり、手が出、足が出た。

 華やかに着飾った女二人が、着物の前をはだけ、白いはぎをむき出しにして取っ組み合いを始めると、観客は大喜びで喝采かっさいした。踊りなんかより数倍面白い見世物みせものに、外からも、どやどやと人が押し寄せてくる。騒ぎは、笛や太鼓を放り出した座員たちが、次々に舞台を飛び降りて、割って入るまで収まらなかった。

「どうしたんです。あんな女、放っておけばいいじゃありませんか。そりゃ、これ見よがしで、悔しいのはわかりますが。」

 座員たちに取り囲まれて、たしなめられながら、松は男が座っていた方を見た。

 勿論もちろん、さっきの騒ぎで、あの男はとっくに姿を消している。

(死んだと思った人が生きていたっていうのは、姉上と慶次郎のためしにもある)

 松は一人、確信している。

(あたしの場合も、きっと)



 菊が絵を教えているのは、セミナリオの子供たちに対してだけではない。南蛮画なんばんがき方を教えてほしいと言ってくる日本人の絵師たちにも、手ほどきをしてやっている。南蛮画に興味を持つ客もいるので、漢画かんが大和絵やまとえを描いている絵師たちも、描き方を知りたがっているのだ。

 教会は、こんなきっかけで信者が増えることを期待している。

 菊は、自分が苦労して習得した技法も、借しげもなく披露ひろうしている。彼女も又、ジョヴァンニに大切に育ててもらったことを感謝しているからだ。

 ただ、人それぞれだ。

 自分のやり方と違うものに対して、無条件に受け入れる者がいる一方、自ら望んで来たはずなのに、南蛮の文物ぶんぶつに対して最初から反感を抱いている者も居ないわけではない。

 その日も、四、五人の絵師を前に万国ばんこく絵図えずを見せていた。

「これがSpagnaスペイン、そちらがPortogalloポルトガルの街です。それから……。」

「あんた、ほんとに行ったことあるのかね。」

 一番前に居た絵師が言った。

「ありません。」

 菊は大人しく答えた。

 からまれるのにも慣れている。

 絵師の中には、女に教えられている、というだけで反感を覚える者もいる。

 その男は勝ち誇ったように言う。

「本当に見たことじゃないのに、よく描けるな。私なら、見たことのあるものじゃないと描けないね。」

 菊が黙っていると、皆、わらった。

 一番後ろに居た男を除いて。

 ごつごつとした体つきで、粗末そまつな身なりのその男は、皆の後ろに大きな身体を縮めるようにして座っていたが、誰よりも一番、熱のこもった目で絵を見ていた。

「それは違う。」

 その男が、今日初めて口を開いた。

「見たことが無くても描ける。わしは仏画を描いているが、仏だって龍だって本当に見たことは無い。でも、わしは本物よりも上手く描けている自信がある。絵師とはそういうものだ。逆に言えば、その自信が無ければ、その者は絵師と名乗るのをやめたほうが良い。」

 皆、ばつが悪そうに黙ってしまった。

「有難うございました。」

 男たちがほうほうのていで逃げるように帰って行った後、菊はその男に頭を下げた。

 男は怒ったように手を振った。

「当然のことをしたまでだ。礼など言われるに及ばぬ。」

 帰ろうとするので、あわてて追いすがった。

「あの、せめて、お名前を。」

 足が速い。もう角を回って、消えていた。

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