第51話 腐肉の分け前

 その頃、日本のキリスト教は布教開始わずか三十年ばかりで盛況せいきょうきわみにあった。聖堂の数は二百を数え、宣教師や修道士は百人以上、信者は十数万人にものぼったといわれる。日本の全人口が千数百万人の時代のことである。

 キリスト教がこれほど短期間で隆盛を極めたのには、わけがある。

 当時、東洋の大国・みんは門戸を外国に対して閉ざしていた。しかしキリスト教を明にもたらしたイエズス会に対してだけは、限られた範囲での貿易を行うことを許したのである。教会が貿易にたずさわるのは、当時としても妙なことだったが、本国から遠く離れ、資金援助もとどこおりがちで財政的に行き詰っていたイエズス会は、明の厚意に飛びついた。

 ようやく地球の裏側まで航海することが出来るようになったとはいえ、当時の航海技術では人の往来がやっとだったし、まだ産業革命も起こっていない当時の産業の状態では、西洋の文物を直接明と大量にやり取りするには至らなかった。

 しかしここ東洋には、明との貿易を切望する国があった。

 日本である。

 日本の領主たち、特に九州の領主たちは、地理的に近いこともあって明の品、特にそこで生産される生糸に対して熱いまなざしを注いでいた。イエズス会の方も、キリスト教を日本に広めるために領主たちの好意を得るのは得策だと考えた。当時の社会では、領主がキリスト教に改宗すると家臣、更に領民までもが一斉に改宗するのが慣わしだったためである。

 日本のキリスト教布教には最初から、政治と金が分かち難く結びついていたのだ。

 イエズス会は自ら進んで権力者に近づいた。中でも故・織田信長の好意を得たのが何より効果的だった。信者は爆発的に増えた。

(だがその為に、教会の中には不適格者が混じるようになってしまった)

 ジョアンは血の混じったつばを吐きながら思った。

(シモンがいい例だ)

 もの静かで従順で無表情なシモン。無一文の孤児で、教会に拾われ、神学院で育ち、入会して、修業に励んでいると思っていたのに。

(何でだ?何で不満があったら上長の前で率直に良心の糾明きゅうめいをしない?何で物事を曖昧あいまいにしておくんだ?神学院に入って何を習っているんだ?いや、シモンだけじゃない。日本人は皆そうだ。神父たちに入会を勧められたからって入会してくるんだが、何をしたらいいか、修道生活とはどういうものだかさっぱりわかっていない。上長たちは日本人は従順だと言うが、親や教師の言いなりになっているのが本当に従順だっていうことなのか?自分の考えというものがまるっきり無いじゃないか)

 神学院に入っているのは上級の侍の子か、さもなくば教会しか頼るもののない孤児か。しかも日本の社会は、戦が続き非常に不安定で、昨日まで殿さま、上さまと敬われていた侍や貴族が、今日は城や館を追われて無一文になっていることも決して珍しいことではない。でも教会としては、昨日まで寄進きしんをしてくれていた者が今日無一文になったからといって見捨てるわけにはいかないのだ。

(日本人たちは外国から来た珍しいものを大変喜ぶ。中国や朝鮮の人々とは大違いだ。昔から大陸の文化を取り入れて自国の文化を育んできた伝統がそうさせるのだろう。日本にキリスト教をもたらした初期のイエズス会の会員もいち早くそれに気づき、殿と呼ばれる領主たちに多大な贈り物をすることで、その好意を、関心を勝ち得てきたのだ。でもお互いそういう関係に慣れてしまった今、腐肉ふにくに群がるハイエナのように、教会の金に目がくらんで寄ってくる面々も多い……良い例がこの老人だ)

 ジョアンは、ちんまりと座っている老人を眺める。

 一体幾つなんだろう?

 領国は滅び、子も孫も死に絶えて、それでも旨そうな汁の吸えそうな場所を転々としながら生き続ける……もの

 霜台そうたい松永まつなが久秀ひさひで}に殺されたさき公方くぼうの頃からの付き合いだとのことで、まるで仲間のような顔をして、自分の都合の良いときだけ教会に出入りしているが。

「なに、絵描きを探しとる?なら、いいのがおるぞ。わしに任せておけ。その代わり、礼といっては何じゃが……。」

 そう言って老人が連れてきた女を見て、ジョアンは失望した。

 これはあの、乞食こじきの女ではないか。

 確かに、以前は餓鬼がきのようにおとえて目ばかりギョロギョロ光り、着物というのも難しいほどボロボロの布切れを身にまとっていた。その頃に比べれば、やや肉がついて、みすぼらしいながら着物と呼べるものを着ることが出来るようになった、だが。

(それも私たちが家を世話してやったからというもの)

 でもオルガンティーノは断れまい。もともとイエズス会一の日本びいきで、彼の影響で巡察師じゅんさつしヴァリニャーノも日本びいきになってしまったと言われているくらいなのだ。

(イタリア人は皆、日本人に甘い)

 イエズス会に入っているのはポルトガル人、スペイン人、イタリア人などだが、自分の国の意向に沿って行動するポルトガル人、スペイン人と違い、祖国をフランスやスペインに分割されているイタリア人はって立つ国が無いせいか、妙に日本人に肩入れ味方する。

 今日のシモンのことだって、

「きっと、彼も色々悩んでいたのでしょう。そういう気持ちをみ取ってやれなかった私が悪かったのかもしれない。いや、これは私の責任です。」

と言って、オルガンティーノは泣き出してしまったのだ。

 ジョアンは呆れてしまった。

 何を言うか。

 本国では、こんなとんでもないことをした奴には即刻、宗教裁判所で厳しい裁きが下る。

(日本にも宗教裁判所を作ればいいんだ。そうだ、教会領になっている長崎に、裁判所を設けることを本国に進言してはどうだろう?)

 素晴らしい考えだ、今度手紙を持って行ってくれる船が出るのはいつだろう?

 ジョアンは自分の考えに夢中になっていたせいで、フランシスコ・カリオン司祭が自分の名を何度も呼んでいるのにも全く気がつかなかった。

「修道士、ロドリゴ修道士。はて、どうなさったか。話を聞いているのかね?」

「……は?」

「だから……ニッコロ修道士がまだ気絶したままなので、もう、話を進めてしまおうかと思っておるのだ。信者ではないとおっしゃるのだが。」

「信者ではない。」

 ジョアンは、司祭の言葉を意地悪く繰り返した。

「信者でない人に、教会で使用する聖母やキリストの絵を描かせるというのですか?お言葉ですが……。」

 後から思えば、女に対してはたりだった。でも、いったん口から出た言葉はもう止まらなかった。今朝、シモンに殴られて始まったこの一日の鬱憤うっぷんが、いや、それ以上に教会のやり方に対する不満は爆発した。

「確かに慈悲じひの心は大事です。教会は貧しい人たちに門戸を開いています。けれども限度というものがあるでしょう?金をばらくために教会はあるんですか?金目当てで寄ってくる餓鬼がきのような人々のために?違うでしょう、教会は信仰を人々に広めるためにあるのです、女の絵師、なんて。そりゃ……」 

 ジョアンは自分をじっと見つめている女と目が合った。

 蒼白そうはくな顔に大きな目が見開かれて、わなわなと震える紫の唇に気がついて、

可哀相かわいそう、だとは思いますが……。」

 ジョアンの言葉は尻すぼみに消えた。

「可哀相。」

 女はめるようにつぶやいた。

 大粒の涙がほおを伝わって後から後から流れ落ちるのを見て、ジョアンの煮えたぎった気持ちはしゅん、と冷めた。

「私……私、可哀相、なんかじゃありません!」

 女は叫ぶと部屋を飛び出していった。ひざに置いていた油紙がばたりと落ちて、床に扇子や絵が散らばった。

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