第50話 南蛮寺

 あの日はむし居所いどころが悪かったんだ、とジョアンは後々まで、菊に弁解するはめになった。

 実際、ひどい一日だった。

 その日は、朝早くジョアンが泥棒を見つけたことから始まった。

 薄暗い聖具室せいぐしつで何やらがさごそ音がするので、何の気なしにのぞいてみると、『摂津せっつのシモン』と呼ばれている日本人の修道士だった。シモンは広げた風呂敷ふろしきの上に高価な聖具を手当たり次第積み重ねている。

 ジョアンはどきっとしたが、心を鎮めて、なるべく軽い口調で呼びかけた。

「おい、今日の礼拝れいはいにはその聖具は使わないんだ。後、きちんと片付けておけよ。傷つけでもしたら、司祭さまからお小言をくらうぞ。」

 事を丸く治めようとするジョアンの努力を無視して、シモンはふてくされたように言った。

「俺は教会をやめる。これくらい、餞別せんべつに呉れたっていいだろう。今までずっとただ働きしてきたんだ。」

 勿論もちろん、聖具をかき集める手を休めようとはしない。

 音を聞きつけて、同宿どうじゅく{教会で使われる下働きの信者}たちも集まってきた。

「何を言う。そんなこと、させるものか。」

 かっとなったジョアンは、シモンの手をつかんで聖具を取り返そうとした。するとシモンは、もう一方の手でジョアンのほおを思いっきり引っぱたいた。よろめくジョアンの鼻に、シモンは更にこぶしを打ち込んだ。

 吹っ飛んだジョアンに、興奮したシモンは、

「俺はずっと我慢してきたんだ、もうこんなところに居られるかっ!」

 怒鳴りながら更に襲い掛かろうとした。

 その拳は、騒ぎを聞きつけて割って入ろうとした修道士のジョヴァンニ・ニッコロのあご炸裂さくれつした。ジョヴァンニは壁に叩きつけられ、気を失なってしまった。

(ああもう、思い出したくない)

 息が出来ない。ほおがズキズキする。

 どうやらまだ鼻の奥のほうで流れ続けているらしい生臭い血の混じったつばを時々布でぬぐいながら、ジョアンは顔をしかめた。

 ジョアンとジョヴァンニが仲良く並んで伸びてしまった後、ようやく摂津のシモンは同宿たちに取り押さえられ、所司代しょしだいに引き渡されていった。教会を呪う言葉をわめきながら……。

 ジョアンは比較的早く目が覚めたが、ジョヴァンニはまだ人事不詳じんじふしょうのままだ。

(大丈夫だろうか。あいつ、身体弱いからなあ。又、起き上がれなくなってしまうんじゃないか)

 ジョアン・ロドリゴとジョヴァンニ・ニッコロは天川マカオ修練院しゅうれんいんで知り合った。

 年が同じだからだろうか、ポルトガル人にしてはおしゃべりなジョアンと、イタリア人にしては無口なジョヴァンニは最初から妙に馬が合った。もっとも北ポルトガルの寒村かんそんに生まれた孤児みなしごで、十三歳で故国に別れを告げ、宣教師せんきょうし小間使こまづかいとしてアジアに渡ったジョアンと、ナポリ王国の裕福な貴族の家に生まれ、ローマで画技を習得したジョヴァンニとでは、生まれながらの境遇はだいぶ違ったものだったが。

 中世以来、芸術家が上流階級から出ることはまれだった。画家たちは職人階級であって、名誉ある市民の子弟にとってそんな職業を選ぶのは、身を落とすことと同じだった。ルネサンスに至り、市民の子弟であるミケランジェロやダ・ビンチが出て、画家の地位は大いに引き上げられることになったが、それでも画家になるのは貧しい平民が大部分であった。

 より良い生活のために故郷を離れる道を選ばざるをえなかったジョアンと違って、ジョヴァンニが何故なぜ、恵まれた身分を捨てて画家をこころざし、それだけでは足りず、遠い異国へと旅立ったかは謎だった。無口なジョヴァンニは自らの人生について多くを語らなかった。それでも二人は友達だった。

 ジョヴァンニは日本に着いて以来、健康がすぐれない。九州で一年、日本語を習いながら養生ようじょうしていたが、水や風土ふうどが合わないのか一向に良くならない。本人もあせって、無理をして起きては更に長く寝込むといった有様ありさまで、上長うわやくたちは相談して、彼を上京させたのだった。

 しばらくは絵のことは忘れて養生するがよい。都には良い医者がる。何よりもそなたの一番の友達のジョアン・ロドリゴが居るからな。

 でも、養生しようと思って上ってきた都でも羽を休めているわけにはいかなかった。宣教師たちは目の回るような忙しい毎日を過ごしていたからだ。

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