第49話 梅雨

 待望の雨が降った。雨が降ると人通りも少なくなる。自然、店に来る客も少なくなった。

 だが菊は、小六に注文された扇の仕上げで忙しかった。

 ザーザーと聞こえていた雨音が急に、パラッ、パラッ、に変わった。

 顔を上げると軒下のきしたに、蓑笠みのかさを付けた信虎が立っていた。頭が大きく背を丸めているので、笠をかぶるとまるで、ちんちくりんなきのこが歩き出したように見える。

「あ、お祖父さま、こんな雨の中を……」

 菊の言葉をさえぎって、

「出かける所がある。ともせい。」

 今までめた絵も持って来い、と言い捨てて、さっさと歩き出した。

 菊はあわてて、その辺に散らばっていた扇を幾つかと、先日狩野に見せようとしてかなわずに放り出してあった絵などを手早く油紙あぶらがみで包み、笠をかぶると、その後を追った。

「あの、私、今、とっても忙しいんですけど……。」

 遠慮がちに声をかけたが、老人の足は思ったより速かった。

 この人はいったいいくつになったんだろう。子も孫もとうに死んだというのに、この元気さはほとんど化け物に近い。

 御霊会ごりょうえが近いので、雨だというのに人出ひとでの多いにぎやかな通りを北へたどる。信虎は周囲の喧騒けんそうに気を取られることなく、さっさと歩いていく。やがて二人は四条坊門にたどりついた。信虎は二重になっている立派な門をくぐった。三階建ての立派な建物、門にかかげられている、からまった帯のような紋章もんしょうは忘れようにも忘れられなかった。

南蛮寺なんばんじ

 家を世話してもらった礼を言いに一度訪ねたものの、河原を離れてからは全く交渉は無かった。

(何でこんな所に)

 立ちすくむ菊に信虎は言った。

「松から話を聞いた。そなた、絵を習いたいのじゃろう。」

(松に?松がこの人と話をするかしら?)

 後日、松に問いただしてみると、確かにそんなこと言ったわ、と言う。

「あの爺さん、私たちが踊りの練習をしているところにしょっちゅう見物にやってくるのよ。私に今度何処どこそこの家で宴があるぞとか何とか教えてくれるから……。」

 松は最近、小さな宴会に呼ばれては、舞ったり踊ったりしている。小銭こぜにかせいで、ゆくゆくは河原に小屋を掛ける資金にするつもりなのだ。色を売ることだけは断固拒否しているとのことだが、それでも酔っ払いの相手をしてさかずきを強要されることもあるらしく、夜遅く酔って帰ってきて、尻を触られたと言っては猛烈に怒っている。

 姉上はいいわよね、踊り子なんかより外聞がいぶんいい仕事に才能あって、と皮肉ひにくを言っているつもりなんだろうが、

(売ろうったって売れないのよっ!)

 扇屋をやっているのは女が多い。扇を売るために色を売る者もいる。

 松は、扇屋のほうが聞こえがいいと思っているのかもしれないが、何、世間の見方では似たりよったりなのだ。

 菊の店の女は一概いちがいに年齢が高い。加えてあるじの菊は、世間一般の常識からすると醜女しこめと言われる部類なので、向こうからお断りされてしまう。売る気は無いけど、らないと先に言われてしまうのは屈辱くつじょくだった。

 ともあれ松は、文句を言いながらも忍耐強く働いている。彼女を知る者から見れば驚くべき変化だった。

「私も、馴染なじみになれば爺さんすっ飛ばして直接呼んでもらえるかしら、と思って、出入りを許しているの。菊はどうしている、っていうから、何か弟子入りしたいって言って狩野に行って断られたみたいですって……。」

 信虎は、とまどう菊にお構いなしに、

「頼もう、頼もう。」

 大声で呼ばわった。

 中では三人の南蛮人が待っていた。

 一人は本能寺が夜討ちにあった晩に応対した司祭。あとの二人は、家を紹介してくれた、優しそうな年配ねんぱいの司祭と、日本語の流暢りゅうちょうな若い修道士。

 だが、今日は何だか様子が変だった。

 最初の司祭は、困ったような、何かおどおどした顔をしているし、優しそうな司祭は泣いた後のように目を真っ赤にらしていた。

 そして若い修道士の鼻は大きな湿布しっぷおおわれて、ほおには青黒いあざが出来ていた。

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