第52話 漣

 気がつくと、ベッドの中にいた。

 じんじんするあごを、そろそろとでてみた。

(良かった、砕けてはいないようだ) 

 この野蛮な国では、教会に居ても戦時に備えなければならないのか。

(日本人は理屈に合わないことをする者を頭が『んでいない』と軽蔑けいべつするという)

 だから、上長たちも日本人を『理知ラジオーネ』を備えた人たちと認めていたのだが。

 ラジオーネ、スペイン語ではラソンというが、これはめ言葉であり、今日こんにちでいう文明人に対して用いられる。理知りちをもった人々は秩序コンシエルト正しく生活し、王や首長を頭に戴いている。反対は『自然のままに生きる人々』、自分自身の意思に従って生きる人々で、秩序を持たず、王や首長を戴かなかった。

 文明と未開の区別、いや差別は、当時はまだ無い。

 日本人に接触した南蛮の人々は、ここにたどり着くまでに接した他の国の人々と違い、宗教こそ違え、自分たちの社会と共通するものを感じていた。

 だが彼らの表現方法は、私たちにとってわからない部分が多すぎる。

 教会の他のメンバーはただ、自分たちの知っていることを日本人に教えるだけだが、自分は日本人たちと協力しないと仕事が出来ない。

 この地に来て、日本人と初めて行った共同作業の結果がこれか。

 胸の内に暗雲がいてくるのをどうしても止めることが出来なかった。

 彼は深いため息をついた。

 もう一度布団にもぐりこもうとして、はっとした。

(そうだ、こうしてはいられない)

 ジョヴァンニは起き上がった。

 この国に来てからというもの、起きている時間よりベッドで過ごす時間の方が格段かくだんに多いのだ。こんな東の果ての国で眠っている暇などない。そうこうしているうちに、あの男が何処か東洋の辺境へんきょう頓死とんしする、なんてこともありうるではないか。

 今日は、例の怪しげな老人が絵描き志望の者を連れてくると言っていた。

 ジョヴァンニは応接室へ急いだ。

 ジョアンが大声で何か話しているのが聞こえた。

(しまった、もう始まっている)

 不意に甲高かんだかい女の声があがったかと思うと、乱暴に戸を開く音がして、駆け出してきた女が、あやうくジョヴァンニに突き当たりそうになった。

「……。」

 女の頬が涙で濡れているのに気がついて、ジョヴァンニの足が止まった。

 女はそのままバタバタと教会を飛び出して行ってしまった。

 後から老人が姿を現した。

「これはとんだ無礼ぶれいをしたの。いやはや、あいつもまだまだ修業が足りんわい。ヒヨッ、ヒヨッ、ヒョッ……。また来るわ。」

 しゃあしゃあとして言うと、立ち去った。

 後にはため息をつく上長二人と、ばつの悪そうなジョアンが残され、床には扇や絵が散乱していた。

 ジョヴァンニは足元に落ちている絵を手に取った。黙ってながめている。

「女の絵師、だってさ。」

 ジョアンがふてくされたように言った。

「見たことないだろう?」

「ああ。」

 ジョヴァンニはうわそらで言った。

「見たことない。」

 彼も絵を握ったまま、部屋を飛び出していった。

 それは聖堂に掲げられた聖母子の模写もしゃだった。

 この国で使われている絵の具を使っているので一見、漢画かんが大和絵やまとえに見える。それはしかし、元の絵を正確に模写してある、ということもさることながら、

(描き手の意思が感じられる)

ことで他に類を見ないものだった。

 聖画を書かせるために今まで何人もの日本人の絵師に会ってきた。

 でも皆、

(何か違う)

 確かに日本人は器用だ、手本を見て真似をするのは上手い、だが粉本ふんぽんを元にして描く教育を受けているせいか、どうも描写が、

(硬い)

 かつては我々もそうだったが。

(中世の頃は皆、奥行きも感情表現も無い絵を描いていたが、ジョットの頃から変わり始め、rinascimentoルネッサンスを経て、飛躍的に描写が進歩した)

 漢画や大和絵の絵師に聖画を描かせればいいと思っていたが、どうにも使い物になる者がいない。

(やはり一から育てないとだめなのか)

 子供の頃から教えて、大人になるまで待つ。十数年はかかるだろう。急いでいるジョヴァンニ、いや、この国にいる教会関係者にとっても気の遠くなるような話だ。

 それまでどうすれば良いのか。ジョヴァンニ一人が夜も昼も無く描き続けるしかないのか。

 九州にも居なかった、都ならば絵師がたくさん居る、せめて一人くらいは、と期待をかけてきたのに、それもむなしかった。

(でも、この絵師は違う)

 この絵の作者はどうも、正式な教育を受けた絵師ではないらしい。良く言えば自由奔放じゆうほんぽう、悪く言えば気ままでムラのある筆遣ふでづかいだ。

(でもそれは教育で直せる、いや、直さなくてもいい、この絵師の個性が生かせるよう、私なら指導できる)

 個性のある絵師、なんて、今までこの国でお目にかかったことは無い。

 驚いた。一体誰だ、この絵を描いたのは。



 ただ闇雲やみくもに駆け出してきたことを、ジョヴァンニはすぐ後悔するはめになった。都に来てから半年たつのに寝込んでいることが多いため、西も東もわからないのは情けないことだった。

 通訳代わりの同宿を連れて歩くのが規則だというのに、あんまり慌てて一人飛び出してきてしまったせいで、都大路みやこおおじの真ん中で迷子になってしまった。

 人込みにまぎれて歩くうちかもの河原に出てしまった。でもそこで、さっきの女が土手どてに立って川のおもてをぼんやりながめているのに気がついた。

 雨が降ったので川の水量は増していた。茶色くにごった水は白い泡を立てて、轟々ごうごうと音をたてながら勢いよく流れていた。大きな流木はもちろん、壊れた民家の残骸ざんがいだろうか、鍋釜なべかままでうずまれたり又浮き上がったりしながら、くるくる回って下流へと押し流されて行くのを、女は魅入みいられたように見つめていた。雨はもう止んで、日が射している。風が強く吹いて、河原に生い茂るあし刈萱かるかやらしている。その中に立つ女の衣も巻き毛もなびいている。

 見たことのある光景のような気がした。

 何処までも広がる金色のさざなみ

 が女の髪に黄色の光の矢を当てているせいだろうか、今まさしく女が、険しいマイエッラ山塊さんかいから吹き降ろす風の中、故郷キエティの麦畑に立っているように見えた。

 彼の気配に気づいたのか、女は振り返って驚いたようだった。

「あ、あの、絵……。」

 簡単な日常会話ならともかく、込み入った話には自信が無かったが、ジョヴァンニは心急こころせくまま、ぎゅっと握り締めた絵を女に差し出した。

 女はごくりとつばを飲み込むと、懸命けんめいに話し始めた。

「わ、悪うございました。あんな大声出して、お恥ずかしゅうございます。お寺には色々お世話になってましたから、あ、哀れまれるのは仕方ないことかもしれません。私、描きます、教えてください。もうお姫さまではないから、この手でかせがなければ生きていけないんです。私の肩にはたくさんの人の命運めいうんがかかっているんです。お願いします。」

 立て板に水でしゃべるので、ジョヴァンニは言葉の半分も聞き取れなかったが、彼女の勢いに押されてうなずくと、女はほっとしたように笑った。

 その笑顔をジョヴァンニは呆然ぼうぜんと見つめた。

 後からジョアンが、

「そうだろう、身なりは悪いが、彼女は美しい。」

と言うと、ジョヴァンニは真っ赤になって怒った。

「そんなんじゃない。彼女の絵の才能を見込んだんだ。」

「うん、多分、本人も自分が美人だとは思ってないだろうしね。」

とジョアンはまだ自説を曲げない。

「我々と彼らでは美の基準が違うから。」

 彼女のくるくるとした巻き毛も、高い背も、くっきりと大きな目も、化粧っけの無い肌も白い歯も、西洋では美人の条件とされるのだが。

 我々の絵を習うことは、とジョヴァンニは思った。

 彼女にとっても、新しい美の世界を切り開くきっかけとなるのではないか。

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