第28話 山桜
「俺が兵をひきつける。」
慶次郎が何でもないことのように言った。
「その間に連中を連れて、峠を越えろ。」
さあ、早く行け、と慶次郎は猿若を追いやった。
一人になると慶次郎は、
下のほうから
(ついに
あの兵は小山田か、それとも……。
(
苦笑した。
もし、あの行列が彼の思ったとおりの兵だったら、
恐怖は無かった。
あっけなく命が消える時代だった。
その中には、自分が手を
今度は自分の番。
ただそれだけの話だ。
(『城』の夢ともおさらば、だ)
いっそ気が楽になるというものだ。
山道を
ところが息せき切って彼の元に飛び込んできた者がある。
とっさに
「慶次郎、大変!」
切迫した調子で囁いた。
「私、荷物取られちゃったから、何もご
最初は何のことやらわからなかった。
「だから、この仕事が終わった時にあなたにあげるご褒美を
押し殺した声で繰り返す真剣な菊の表情を見て、あやうく吹き出しそうになるのをこらえて、慶次郎は
「そいつは困ったな。一人で逃げるか。」
菊は泣きそうになって、ぶんぶん首を振った。
慶次郎は素早く菊を引き寄せ、口づけをした。
菊はもがいて逃れようとしたが、慶次郎はしっかりと彼女の体を抱いて放そうとしなかった。
夜風が吹いて、二人の頭や肩に、桜の花びらがあとからあとから降りかかった。
それはいつも冗談を言っては人をからかってばかりいる慶次郎とは思えないような、情熱的な
菊は、彼女を奥底まで深く深く確かめようとする彼の想いのこもった口づけにとまどったが、
彼は、布越しに女の柔らかな体の
(この女の為に死ぬというのも悪くない)
「俺が守ってやるから。」
彼は彼女の耳元で
「これをご褒美にしておこう。姫君、
さっと身を
しばらくすると、わぁっという叫び声や刃物の打ち合う音が、風に乗って聞こえてきた。
菊は
小屋の近くまで来た時、菊は小さな泣き声を聞いて、はっとした。
声を頼りに行ってみると、達丸を抱いた娘たちが
「どうし……」
最後まで言い終わらなかった。
「ああ、大人がいるなら、そっちの方がええべ。」
女一人とわかると、嫌らしい笑いを浮かべて、菊の肩を
菊はよろけそうになったが、とっさに相手の顔に手を突き出した。新府城を出て以来、切る余裕もなかった彼女の爪は伸びに伸びていて、尖った先は、相手の目に吸い込まれるようにのめりこんだ。
悲鳴を上げて、雑兵は刀を取り落とした。
菊は刀を拾い上げると、相手の
血が噴水のように飛び散って、生臭いニオイがたちこめた。
悲鳴はぶっつりと絶えた。
へなへなと崩れ落ちた菊に、子供たちがとりすがって泣いた。
猿若と揚羽が、悲鳴を聞いて駆けつけてきた。
「あ、あたしたち、達丸をおしっこに……。」
泣きながら説明する子供たちを、揚羽が
返り血を浴びて座り込んでいる菊を立たせながら、猿若が言った。
「こいつは陣を抜け出したはぐれ者でしょう。でも早く行ったほうがいい。峠を越えましょう。」
一行が峠を越えると、
夜明けだった。
夜の間に地上近くに下りてきた雲は、絹のようにたなびいて金や赤に染まっている。
みるみるうちに光の輪は広がり、扇を伏せたような富士を濃い
その麓には鏡のように静かな湖が広がっている。
空は水面に映って、湖の色を青、紫、赤と刻々と変えていく。
人々は、凍えるような冷気の中、湖へと続く道を
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