第28話 山桜

「俺が兵をひきつける。」

 慶次郎が何でもないことのように言った。

「その間に連中を連れて、峠を越えろ。」

 さあ、早く行け、と慶次郎は猿若を追いやった。

 一人になると慶次郎は、がけの上から山のふもとを見下ろした。

 満開まんかい山桜やまざくらが、夜の中静かに咲いている。

 じん篝火かがりびに照らされて、一面霧のように白くかすんで見える。まるで花見に来たようにえんな眺めは、とてもこれからその下で命のやりとりが行われるとは見えなかった。

 下のほうから松明たいまつが上ってくるのが見えた。先ほどの騒ぎを聞きつけて、見回りに来たのだろう。幾筋いくすじかの列になって山道を登ってくる。

(ついに年貢ねんぐおさどき、か。)

 あの兵は小山田か、それとも……。

みょうめぐわせだが、仕方しかたない)

 苦笑した。

 もし、あの行列が彼の思ったとおりの兵だったら、葬式そうしきでは{行われるとしたら、の話だが}、最期さいごまでだった、と弔辞ちょうじが読まれるだろう。

 恐怖は無かった。

 あっけなく命が消える時代だった。

 その中には、自分が手をくだして絶った命もある。

 今度は自分の番。

 ただそれだけの話だ。

(『城』の夢ともおさらば、だ)

 いっそ気が楽になるというものだ。

 山道をりようとした。

 ところが息せき切って彼の元に飛び込んできた者がある。

 とっさにやりを突きつけると、菊の姿がそこにあった。

「慶次郎、大変!」

 切迫した調子で囁いた。

「私、荷物取られちゃったから、何もご褒美ほうび、持ってないの!」

 最初は何のことやらわからなかった。

「だから、この仕事が終わった時にあなたにあげるご褒美をくしちゃったんだってば!」

 押し殺した声で繰り返す真剣な菊の表情を見て、あやうく吹き出しそうになるのをこらえて、慶次郎は真面目まじめくさって応えた。

「そいつは困ったな。一人で逃げるか。」

 菊は泣きそうになって、ぶんぶん首を振った。

 慶次郎は素早く菊を引き寄せ、口づけをした。

 菊はもがいて逃れようとしたが、慶次郎はしっかりと彼女の体を抱いて放そうとしなかった。

 夜風が吹いて、二人の頭や肩に、桜の花びらがあとからあとから降りかかった。

 それはいつも冗談を言っては人をからかってばかりいる慶次郎とは思えないような、情熱的な抱擁ほうようだった。

 菊は、彼女を奥底まで深く深く確かめようとする彼の想いのこもった口づけにとまどったが、たくましい男の腕にしっかりと抱きしめられる心地ここちよさに、全身の力が抜けてしまった。

 彼は、布越しに女の柔らかな体の感触かんしょくを味わいながら、思った。

(この女の為に死ぬというのも悪くない)

「俺が守ってやるから。」

 彼は彼女の耳元でささやくと、ぱっと体を離して明るく笑った。

「これをご褒美にしておこう。姫君、達者たっしゃで暮らせよ。」

 さっと身をひるがえして、空にんだ。

 はるか下の方に降り立つと、駆け下りて行った。

 しばらくすると、わぁっという叫び声や刃物の打ち合う音が、風に乗って聞こえてきた。

 菊はわれかえると、皆の待つ小屋へと駆け戻っていった。

 小屋の近くまで来た時、菊は小さな泣き声を聞いて、はっとした。

 声を頼りに行ってみると、達丸を抱いた娘たちがやぶかげにしゃがんで泣いている。

「どうし……」

 最後まで言い終わらなかった。

 不意ふいに目の前に、刀のさきが突きつけられて、菊は悲鳴をあげそうになるのをこらえた。

「ああ、大人がいるなら、そっちの方がええべ。」

 雑兵ぞうひょうらしい。一人だ。

 女一人とわかると、嫌らしい笑いを浮かべて、菊の肩をつかんで押し倒そうとした。

 菊はよろけそうになったが、とっさに相手の顔に手を突き出した。新府城を出て以来、切る余裕もなかった彼女の爪は伸びに伸びていて、尖った先は、相手の目に吸い込まれるようにのめりこんだ。

 悲鳴を上げて、雑兵は刀を取り落とした。

 菊は刀を拾い上げると、相手の喉下のどもとめがけ、全身の力を込めて身体ごとぶつかっていった。

 血が噴水のように飛び散って、生臭いニオイがたちこめた。

 悲鳴はぶっつりと絶えた。

 へなへなと崩れ落ちた菊に、子供たちがとりすがって泣いた。

 猿若と揚羽が、悲鳴を聞いて駆けつけてきた。

「あ、あたしたち、達丸をおしっこに……。」

 泣きながら説明する子供たちを、揚羽がなぐさめた。

 返り血を浴びて座り込んでいる菊を立たせながら、猿若が言った。

「こいつは陣を抜け出したでしょう。でも早く行ったほうがいい。峠を越えましょう。」

 一行が峠を越えると、一筋ひとすじの光が闇から差した。

 夜明けだった。

 夜の間に地上近くに下りてきた雲は、絹のようにたなびいて金や赤に染まっている。

 みるみるうちに光の輪は広がり、扇を伏せたような富士を濃いあい色に染めていく。

 その麓には鏡のように静かな湖が広がっている。

 空は水面に映って、湖の色を青、紫、赤と刻々と変えていく。

 人々は、凍えるような冷気の中、湖へと続く道を足早あしばやに下っていった。

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