第29話 姫君の選ぶ道
これから何処へ向かったらいいのか、議論になった。
小山田が織田の将と組んでいるということは、小夜姫の生存はもう絶望的といっても良かった。彼女が居ない以上、小田原に行っても仕方が無い。
かといって、上杉に行くのも無理というものだった。武田を飲み込んだ織田は北へ向かい、上杉と
実際この時、上杉は、西の
景勝は、同盟を結んでいた
景勝はよい時代に生まれたものです。
書いた手紙を自ら持って、兼続の執務室に行った。
紅が来ていて、山と積まれた書類を前に話し合っている。
「あ、殿。」
紅が顔を上げて、笑顔を見せた。
こんな苦しい状況なのに、いつも、
(俺の顔を見ると嬉しそうに笑う)
側に居られて幸せ。
全身で言っている。
十余年待って、ようやく会えたのに。
(このままでは、俺は)
『
(
「亭主の元へ帰れ。」
立ったまま言ってしまった。
「
「おや。」
紅はちょっと眉を上げた。
「何をお気の弱いことを。」
ぴしりと言った。
「大将ともあろうお方のお言葉とは思えませぬ。この命はあなたさまから
きっぱり言い放つと又、笑顔になった。
「
(あたしは死なない)
生き生きと輝く瞳が語っている。
(あなたも死なせはしない)
二人をじっと見ていた兼続が、ふっと目をそらした。
そんな上杉の事情は知らなかったものの、
「京に行きましょう。」
最後にとうとう菊が決断を下した。
「京には武田と縁続きの
鎌倉街道には甲斐からの
一行は東海道を西に進んだ。
その間に兄たちの
菊たちと別れた勝頼一行は笹子峠を登っていった。小山田信茂は峠に
かつて上杉禅秀の乱の際、足利幕府と戦って敗れた武田信満はこの地で
勝頼父子は天目山の
織田信忠の
でも武田の兵はよく戦った。
「中でも
「天目山の道は
へえ、それでその侍の名は?と、猿若が
「なんといったっけな、そうそう、つ、つちや、
「おじいさん、それでその人はどうなったの?」
松が
「うん、最後は鉄砲で撃ち取られて、川に落ちてしまったそうじゃがのう。」
松が青ざめてへたへたとなるのを、老人は何と思ったのか、
「いや、家が滅びるのはほんに哀れじゃのう。この地も元は今川さまのものであったのに、今は徳川さまのものじゃ。」
「でもあたしゃ、武田は嫌いだったよう。あの家が無くなってせいせいしてるね。」
「お岩婆さんはそうだろうねえ。何しろ、甲斐の
「人買いは甲斐だけのものではないでしょう。」
揚羽がむっとして抗議する。
「よその国でもしていること。」
「城下に公設の市を設けてるのなんざ、甲斐くらいさ。」
女は容赦しない。
「あたしゃ、殿さまが武田に負けて、甲斐の人買いに捕まって売られてきたんだよう。」
お岩婆さんが、思い出すのも
「男は金山堀り、女は金山で働かされるか、
「わしの足を見てくれ。」
片足だけ異様に細くなっている中年男が言った。
「これは武田の『ゆる
女たちがわからないのを見て、男は説明した。武田の
「わしはまだ運がいいほうさ。死んじまう奴のほうが多いんだから。武田はやり方が
男は吐き捨てるように言った。
その後、松は三日ほど寝込んでしまった。子供たちもめそめそしてばかりで、達丸の
夜泣きが始まると、菊は達丸をおんぶしてその辺を歩き回った。
あわわ あわわ てうちてあわわ
かぶりかぶりかぶりや
めめこめめこめめこや
やんまやんま
やよ
棹になって通れ
往んで乳飲まう 乳飲まう
(これは
子守唄を歌いながら、菊は思う。
(道満丸を見殺しにした罰だ)
死に物狂いで避難してくる途中、捨てられた子供を時々見かけた。
あの時、自分の無力を思い知らされなかったら。
あの経験があるから今、こんなに必死になって、皆を連れて歩いているのだ。
すうすうと寝息を立て始めた達丸をおぶって、菊は夜道を歩いた。
桜の花はもうとっくに散って、木々は空いっぱいに葉の
(皆、武田が滅びて喜んでいる)
菊の着物には大きな黒い
あの雑兵を殺すまでは、自分だけは手を汚していないと思っていた。三郎景虎のことを情けないとそしったり、紅が道満丸を殺したことを非難がましく思っていた。でも、自分自身の生活こそ、あの華やかな
(あたしは大名の娘だ。知らなかった、では済まない)
そもそも、知ろうともしなかったのだ。
その結果がこれだ。
何処かで犬が一匹吠えている。釣られて他の犬も吠える。おおう、おおう、と狼のように、遠吠えをしている。
菊は
(弱いものは強いものに食われ、強いものは更に強いものに食われる)
人は何かを
小夜姫は死んでしまった。田野で夫とともに
北条領に入ってから、道々、彼女を
「武田に嫁いだ姫さまはお気の毒なことじゃのう。」
「お姫さまは普段は
確かに、
物語ならそれでお
でも、そういう道を選びたくない姫は?
死ぬのも、尼になるのも、勝者のものになるのも嫌な姫は、いったいどうなるの?
(生きていたい)
菊はぎりぎりと歯を
(たとえそれが『姫君』の選ぶ道でなくても、あたしは生きていたい。たとえ明日の夕刻には死んでしまうとしても、人の命なんか散る花のように
空には幾千もの星が静かに
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。