第29話 姫君の選ぶ道

 御坂峠みさかとうげを越えても、織田と結んだ徳川の勢力が伸びている地であり、油断はならなかった。

 これから何処へ向かったらいいのか、議論になった。

 小山田が織田の将と組んでいるということは、小夜姫の生存はもう絶望的といっても良かった。彼女が居ない以上、小田原に行っても仕方が無い。

 かといって、上杉に行くのも無理というものだった。武田を飲み込んだ織田は北へ向かい、上杉と対峙たいじするだろう。景勝や紅、兼続は、勝頼と違ってそう簡単に勝負を投げ出すことはしないだろうが、彼らの行く末には暗雲がたちこめていた。



 実際この時、上杉は、西の越中えっちゅう・南の信濃しなのから殺到さっとうする織田軍、北東からは会津あいづ芦名あしな後押あとおしを受けた新発田の軍勢に囲まれ、四面楚歌しめんそかの状態だった。

 景勝は、同盟を結んでいた常陸ひたち佐竹さたけ義重よししげに送った手紙の中で述べている。

 

 景勝はよい時代に生まれたものです。弓箭きゅうせんたずさえ、日本六十余州の敵を越後一国で支え、一戦をげて滅亡することは、死後の思い出になります。景勝ほどの者にはぶん不相応ふそうおうかもしれませんが、もしここで九死きゅうし一生いっしょうを得るようなことになれば、日本では無双むそうの英雄になれるかも知れません。死生ししょう面目めんぼくとして喜ぶべきことであり、天下のほまれといえ、多くの人々からうらやましがられることでしょう。


 書いた手紙を自ら持って、兼続の執務室に行った。

 紅が来ていて、山と積まれた書類を前に話し合っている。

「あ、殿。」

 紅が顔を上げて、笑顔を見せた。

 こんな苦しい状況なのに、いつも、

(俺の顔を見ると嬉しそうに笑う)

 側に居られて幸せ。

 全身で言っている。

 十余年待って、ようやく会えたのに。

(このままでは、俺は)

遺言ゆいごん』のような手紙を書いて、高揚こうようした気持ちが、じゅっと冷めた。

いとしい女を、むざむざ死なせてしまう)

「亭主の元へ帰れ。」

 立ったまま言ってしまった。

最期さいごまで女を手放さなかったと思われては、武士の名折なおれだ。」

「おや。」

 紅はちょっと眉を上げた。

「何をお気の弱いことを。」

 ぴしりと言った。

「大将ともあろうお方のお言葉とは思えませぬ。この命はあなたさまから頂戴ちょうだいしたもの。おささげして何の悔いがございましょう。何故、死ね、とおおせになりませぬ。私は最後までお側におります。介錯かいしゃくはお願いいたします。」

 きっぱり言い放つと又、笑顔になった。

公方くぼうさまは子供は死んではならぬと仰せになりました。でも、大人だって死んではなりませぬ。考えましょう、生きる策を。」

(あたしは死なない)

 生き生きと輝く瞳が語っている。

(あなたも死なせはしない)

 二人をじっと見ていた兼続が、ふっと目をそらした。



 そんな上杉の事情は知らなかったものの、

「京に行きましょう。」

 最後にとうとう菊が決断を下した。

「京には武田と縁続きの三条さんじょう家があるわ。他にも武田が羽振はぶりの良かった時に色々世話してやった堂上どうじょう家がある。大きな町だから、何かしら生きていくすべがあるわよ、きっと。」

 鎌倉街道には甲斐からの避難民ひなんみんあふれていた。山の中を歩いてきたおかげで、一行の着物は汚れてぼろぼろになっていた。その為、避難民に混じって少しも目立たなかったのは怪我けが功名こうみょうとでもいうべきだった。

 一行は東海道を西に進んだ。

 その間に兄たちの最期さいごの様子が伝わってきた。

 菊たちと別れた勝頼一行は笹子峠を登っていった。小山田信茂は峠にさくを構えて一行に鉄砲を撃ちかけてきた。仕方なく一行は天目山てんもくざんへの道を選んだ。

 かつて上杉禅秀の乱の際、足利幕府と戦って敗れた武田信満はこの地で自害じがいした。しかしその後、武田氏は勢力を盛り返して甲州の覇者はしゃとなった、起死きし回生かいせいの地でもある。

 勝頼父子は天目山のふもと田野たのに陣を張った。新府城を出た時、数百名いた手勢てぜいはもうこの頃には、わずか四十名ばかりとなっていた。

 織田信忠の先鋒せんぽうは滝川一益と河尻秀隆、数千ともいわれる大軍で取り囲む。

 でも武田の兵はよく戦った。

「中でも勇敢ゆうかんな若い侍がおったそうな。」

 茶店ちゃみせ親父おやじは語った。

「天目山の道は日川ひかわ渓谷けいこくに沿っていて、人一人やっと通れるくらいの幅しかねえ、下はゆきみず轟々ごうごうと流れる、目もくらむような崖っぷちの道よ。織田の軍勢が一人一人攻め上ってくる、それを上で迎え撃つその若い侍は、岩壁にへばりついて隠れながら、左手で藤蔓ふじづるつかまって、右手で剣を振るい、ばったばったと谷底に斬っては落とし、斬っては落とし、それはもう、一人で百人分の働きをしたそうじゃ。」

 へえ、それでその侍の名は?と、猿若がいのを入れる。

「なんといったっけな、そうそう、つ、つちや、土屋つちや何とか、と言ったっけ。」

「おじいさん、それでその人はどうなったの?」

 松がつかみかからんばかりに尋ねる。

「うん、最後は鉄砲で撃ち取られて、川に落ちてしまったそうじゃがのう。」

 松が青ざめてへたへたとなるのを、老人は何と思ったのか、

「いや、家が滅びるのはほんに哀れじゃのう。この地も元は今川さまのものであったのに、今は徳川さまのものじゃ。」

「でもあたしゃ、武田は嫌いだったよう。あの家が無くなってせいせいしてるね。」

 茶碗ちゃわんを片付けている老婆が言う。

「お岩婆さんはそうだろうねえ。何しろ、甲斐の人買ひとかいにひどい目にあわされたんだからねえ。」

 常連じょうれんらしい女が口をはさむ。

「人買いは甲斐だけのものではないでしょう。」

 揚羽がむっとして抗議する。

「よその国でもしていること。」

「城下に公設の市を設けてるのなんざ、甲斐くらいさ。」

 女は容赦しない。

「あたしゃ、殿さまが武田に負けて、甲斐の人買いに捕まって売られてきたんだよう。」

 お岩婆さんが、思い出すのも忌々いまいましいと言わんばかりに、きいきいわめく。

「男は金山堀り、女は金山で働かされるか、女郎じょろうにされる。あたしはまだ運が良かった方さ、金山に売られた連中はひどい目にあって二、三年でくたばっちまったはずだからね。」

「わしの足を見てくれ。」

 片足だけ異様に細くなっている中年男が言った。

「これは武田の『ゆるやじり』でやられたもんだ。」

 女たちがわからないのを見て、男は説明した。武田の雑兵ぞうひょうゆみは、矢のつまりやじりを、矢柄やがらつまり矢のみきにゆるく巻いて放つ。矢柄を抜いても矢の根は残って、そこから肉が腐っていく。

「わしはまだ運がいいほうさ。死んじまう奴のほうが多いんだから。武田はやり方がむごい。後々まで人を苦しめる。」

 男は吐き捨てるように言った。

 その後、松は三日ほど寝込んでしまった。子供たちもめそめそしてばかりで、達丸の夜泣よなきもひどかった。

 夜泣きが始まると、菊は達丸をおんぶしてその辺を歩き回った。


  あわわ あわわ てうちてあわわ

  かぶりかぶりかぶりや 

  めめこめめこめめこや

  やんまやんまさおの先に止まり

  やよ 雁金かりがね通れ

  棹になって通れ

  往んで乳飲まう 乳飲まう


(これはばつだ)

 子守唄を歌いながら、菊は思う。

(道満丸を見殺しにした罰だ)

 死に物狂いで避難してくる途中、捨てられた子供を時々見かけた。赤子あかごを売る女たちもいると聞いた。でも子供たちを手放す気はなかった。たとえ死にかけていても、完全に死ぬまでは、引きずってでも連れて行くつもりだった。

 あの時、自分の無力を思い知らされなかったら。

 あの経験があるから今、こんなに必死になって、皆を連れて歩いているのだ。

 すうすうと寝息を立て始めた達丸をおぶって、菊は夜道を歩いた。

 桜の花はもうとっくに散って、木々は空いっぱいに葉の天蓋てんがいを広げている。

(皆、武田が滅びて喜んでいる)

 菊の着物には大きな黒いみが付いている。どんなに洗っても取れることはない。彼女が殺した雑兵ぞうひょうの血の跡だった。

 あの雑兵を殺すまでは、自分だけは手を汚していないと思っていた。三郎景虎のことを情けないとそしったり、紅が道満丸を殺したことを非難がましく思っていた。でも、自分自身の生活こそ、あの華やかな躑躅つつじさきやかたの生活そのものこそ、大勢おおぜいの人々の犠牲ぎせいの上に成り立っていたのだ。

(あたしは大名の娘だ。知らなかった、では済まない)

 そもそも、知ろうともしなかったのだ。

 その結果がこれだ。

 何処かで犬が一匹吠えている。釣られて他の犬も吠える。おおう、おおう、と狼のように、遠吠えをしている。

 菊はうつむいて自分の考えを追う。

(弱いものは強いものに食われ、強いものは更に強いものに食われる)

 人は何かを犠牲ぎせいにしないと生きていけないものなのだ。

 小夜姫は死んでしまった。田野で夫とともに自害じがいしたのだ。

 北条領に入ってから、道々、彼女をいたむ声を聞いた。

「武田に嫁いだ姫さまはお気の毒なことじゃのう。」

「お姫さまは普段は贅沢ぜいたくな暮らしをなさっていても、城が落ちる時は哀れなものじゃ。自害するか、助かっても尼になるか、勝った者のかこわれものになるかしかないからのう。」

 確かに、琵琶びわ法師ほうしかなでる哀れ深い平家物語に出てきた姫たちは、平家が滅ぶとき、だんうらに身を投げるか、尼になるしか道は無かった。

 物語ならそれでお仕舞しまいとなる。

 でも、そういう道を選びたくない姫は?

 死ぬのも、尼になるのも、勝者のものになるのも嫌な姫は、いったいどうなるの?

(生きていたい)

 菊はぎりぎりと歯をめた。

(たとえそれが『姫君』の選ぶ道でなくても、あたしは生きていたい。たとえ明日の夕刻には死んでしまうとしても、人の命なんか散る花のようにはかない、こんな世の中でも)

 空には幾千もの星が静かにまたたいて、一人地上に立つ女を見下ろしていた。

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