第4話 姉妹

「ねえところで、関に来たの、惣蔵ですって?」

 松は目を光らせた。

(また。どうせ、そんなことだろうと思ってた)

 菊はうんざりした。

 妹が今まで、菊のすえについて論じていたのは、決して姉を案じてのことではない。松が土屋惣蔵に夢中なのは、家中の者は皆、知っている。

 勝頼の近習きんじゅう上がりの土屋惣蔵は、小柄で色白で桃色のほおをしている。誰もが認める武芸の達人で、御馬廻おうままわりの男たちを率いているので尚更なおさら可愛らしく見え、侍女たちは密かに『桃太郎ももたろう』と呼んでいる。本人も随分ずいぶん気にしていて、一時期ひげを生やしてみたりしていたが、生来せいらい毛が薄いのか、ぽしょぽしょとしか生えず、かえって見苦しいと勝頼に言われてってしまった。

 こういう時代のことだから、女に関して奔放ほんぽうなのはむしろ男の名誉だくらいに思われているのだけれど、彼は他に類を見ない程、品行ひんこう方正ほうせいで、女なんぞいくさの邪魔になるだけだと思っているところは、まるで父信玄の宿敵・上杉謙信みたいだった。当然、松のことは一顧いっこだにしない。騒いでいるのは松ばかりというていたらくであった。あわれ武田の姫も形無かたなしである。

 その惣蔵も家督かとくを継ぐ際、親類しんるい縁者えんじゃにやいやい言われて結婚し、跡取りの男の子も生まれて、松の恋はあっけなく終わりを告げた。最近では、尼になるって兄上に言ってみたらかえって縁談が増えちゃったの、などと言いふらしているが、負け惜しみにしか聞こえないのが気の毒とも言える。それでも惣蔵が来ると、その消息しょうそくを聞かずにはいられないらしい。

(共通の趣味もあるしね)

 菊から見れば性格の悪い妹だけど、たった一つ、自他じたともに認める長所がある。

 舞いである。

 名手めいしゅ、と言っていい。

 要領の悪い菊は何か習い事をしても、いっこう上達しなかった。ものになったと言えるのは、絵くらいだ。

 だが松は何をやっても飲み込みが早く、ことにその舞いは、天に遊ぶようと絶賛された。

 惣蔵も又、舞いの名手である。

 まだ少女だった松と美少年の惣蔵の連舞つれまいは何か催しがある度、必ず所望しょもうされ、人々を感動させた。でも惣蔵が結婚し、武田が落ち目の今、宴席が設けられ、かがり火の中、庭に設けられた台の上で二人が舞うこともえてひさしい。

「姉上が越後に行ってしまったら、私、仁科の兄上の元へ行こうと思っているの。新しく館を建てて下さるそうよ。」

 松がふと思いついたように言う。

 同じ母から生まれた兄の仁科にしな五郎ごろう盛信もりのぶは、諏訪すわ高遠たかとお城主だ。

 あちらに行けば監督する人も居ないから、新しい着物を作ったり、好きな舞の稽古けいこも、し放題だ。衝立ついたて代わりのドジな姉が居なくなって、当主のお小言が直接自分に届くのを嫌ってのことだろう。

 あーあ、もう、勝手にして。

(ほんっとに、気が合わない)

 二人の母が亡くなる時、一番気にしていたのが、姉妹仲良くやっていけるかどうか、ということだった。

 御心配いりませんとも、と菊は心の中でつぶやいた。

 諏訪と越後、これだけ遠く離れてしまえば、もうケンカすることもありません、一生。



(何なのよ、いったい)

 ぷんぷんしながら廊下を曲がって消えていく姉の背中を見ながら、松は負けず劣らず腹を立てている。

(あの人ってどうしてああなの、大体、あの髪からしてそう)

 姉は、四方八方にうずを巻いている茶色のくせっ毛のことをいつも気にしている。

を付ければ済む話なのに)

 当時の女たちの丈成たけなす黒髪も、実は地毛じげではない、途中からは付け毛なのだ。

 彼女たち程の身分ならば、舶来はくらいの高級品だって手に入る。

 でもいくら松が勧めても、姉は着けようとしないのだ。

「私が着けたら総になってしまうでしょ、皆は付け毛で済むけど。」

「隠すとかえって恥ずかしいように思うの、それに何だか私自身を否定してしまうような気がして。」

 松は、何さ、と思うのだ。

 たかが、ではないか。それのどこに、自分らしいとか、自分らしくないとかいう理屈を付ける必要があるのだろう。

(だから姉さまは甘いって言うのよ)

 一体この世の中のどこに、生まれたまんま、そのまんまの他人を差し出されて、喜ぶ人がいるだろうか。

(私は末っ子。しかも女。黙っていちゃ誰も見てくれないし、構ってももらえないことがわかってた、それこそ、生まれたときから)

 小さい時から周囲に目を配り、いかにして世間の関心を引くか、喜んで引き立ててもらえるか、細心の注意を払って生きてきたのだ。

 自分じゃどうすることもできないものは、もう一つある。

 彼女は背が高かった、誰よりも。下手へたすると、父の誇る歴戦の勇者たちよりも、高かった。

(惣蔵が相手にしてくれないのも)

 彼より背が高いからかなあ、と彼女は密かに悩んでいる。

 誰より女らしく振舞ふるまうことが出来るのに、このいまいましい背丈せたけのせいで、全てがになってしまう。

(彼の前ではなるべく背を丸めていたんだけど)

 駄目だった。

 彼女だって悩みの種はある。でも、それを何とかつくろおうとがんばってきた。このおめでたい姉はそんなこと、ちっともわかっちゃいない。

(そりゃ苦労するわよ、あなたじゃ、誰と結婚してもさ)

 私は諏訪に行く。こんなやり取りも、もう最後よね。

 松の関心はもう、目の前に広げられたにしきに戻っていた。

「さあて、どんな風に仕立てようかな。」

 声に出して言ってみた。

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