第3話 姫君

 籠を下げた菊が、西にしの曲輪くるわにある自分の部屋へと続く廊下ろうかを曲がると、そこに立っていた背の高い人影がわらった。

「やあい、怒られた。」

「やあねぇ、待ち伏せしてたの?」

 菊は顔をしかめた。

「無神経よねぇ。兄上は父上がけむったいのよ。老臣たちに、『それは先代せんだいのやり方と違います。』、『先代ならばそんな事はなさいませんでした。』って、いつもやり込められているから。逍遥軒しょうようけんの叔父さまの事だって、父上と比べては俺の事を軽く見ているって思って、を持っているわ。それなのに怒られている最中さいちゅうに二人の名前を出すなんて。だから要領ようりょうが悪いって言われちゃうのよ。ほんっと、馬鹿よね。」

 菊の反応などお構いなしに、ぽんぽんと言いつのる。

 菊と同じ油川氏の娘で、妹の松姫まつひめである。

「あなたってば……地獄耳じごくみみ。」

 菊は怒るより先にあきれてしまう。

 何処どこで聞いていたのだろう。おおかた、侍女じじょでも忍ばせていたに違いない。

 松の陰に控えていた侍女の春日はるひは、あるじたちのやりとりなど聞こえていないかのように、つんと澄ましてうつむいている。

 全く、いけすかない女だ。

「別に嫌味いやみを言う為に待ち伏せしていた訳じゃないわ。小夜さまがお呼びよ。」

 さっき番兵ともみあった際に菊の顔についた泥を目ざとく見つけて、眉をひそめた。懐紙かいしを取り出すと、姉にぽんと放って寄越よこした。

 菊があやうく受け止めると、松は舞いの所作しょさのように優雅に身をひるがえして先頭に立った。

 西曲輪には勝頼の継室けいしつ小夜姫さよひめが居住している。

 姫は侍女たちと、部屋一杯いっぱいに、目もあやな布を広げていたが、入ってきた二人を見て、にっこりと笑った。

「お輿入こしいれまで時間が無いので急いで仕立てなくては。松さまの侍女にも手を貸すようにおっしゃって下さいましね。調度品ちょうどひんの方は、もう手配してありますから。」

 てきぱきと指示していく。

「菊さまの亡きお母上に代わって、未熟みじゅくではございますけれども、この私が責任をもってお嫁入りのお支度したくをさせていただきますからね。」

「小夜さま……有難うございます。」

 菊は感激した。

 本当は、この女性に頼めた義理ではないのに、身重みおもの体を押して気持ちよく準備を手伝ってくれる。

(ほんとにいい人)

 血を分けた生意気ナマイキな妹より、優しい義理の姉のほうが好きな菊だった。

「関の所でめたんですってね。」

 松が言う。

「そうよ、だって、今まで何も無かった所にいきなり新しい関をたてるんですもの。皆、通行しづらくて困っていたわ。仮にも一国の主ともあろう者が、民の通行を邪魔しちゃいけないわよねえ。」

 綸子りんず縫箔ぬいはく羅紗らしゃ、色とりどりのきらびやかな布を広げて、縫い物をする。

 女ばかりの気安さで菊はつい口を滑らせた。

 小夜姫は、つと縫い物の手を休めると、大人おとなしいこの人としては珍しく、たしなめるような口調くちょうで言った。

「武田ではきんの産出量が減っていて、財政が苦しいのです。先代の頃は、土地と人をより多く持つ者が勝利をおさめておりました。今では、様々な新しい武器が必要となっております。鉄砲をより多く持つ者が勝つのです。そして、その鉄砲を手に入れるのに必要なのは、ぜになのです。おかね、お金と言う風潮を嫌う人もいますが、私は、お屋形さまのお考えに間違いはないと思っております。」

 唖然あぜんとしている菊に気がついて、小夜姫はようやく口調をやわらげた。

「お屋形さまは先日、越後からお戻りになって、湯治とうじにおいでになりましたが、そこにも百姓たちがおしかけて来て、土地争いを裁いていらっしゃいました。それも、御親戚衆ごしんせきしゅう桃井将監殿もものいしょうげんどのを負けにして、百姓たちの言い分を通してやったのですよ。お屋形さまは公平なお方です。関をお造りになったのも何かお考えがあってのことだと思いますわ。」



「驚いた。あの人、何であんなにくわしいの?」

「全然わかってないのね。」

 馬鹿にしたように松が言う。

 菊の為に集めた生地だというのに、一番見ばえが良いものをせしめた松は、自分の部屋で広げて、ほくほくしている。

「あの人の事、ただ、いい人、くらいに思ってたんでしょ。とんでもない。彼女、武田の情報を集めては、逐一ちくいち、実家の北条家に御報告しているんだから。」

 菊が驚いているのを見て松は、うっとりにしき頬摺ほおずりするのを止めた。

「でも、これで小夜さまのこと、裏切り者だなんて思わないで。敵方に嫁いだ夫人は皆、やっていること、なんだから。」

 政略結婚の戦国の嫁の務めとは何か。

 それは、嫁ぎ先と実家が戦争にならないように、なるべく実家のえきになるよう考えながら、敵国で振舞ふるまうことだ。

「小夜さまって、『姫君の鏡』と言ってもいいわよね。弱冠じゃっかん十五歳、ただ大人しい可愛らしいお姫さまのようで、実は観察眼が鋭くて、しっかりした意見を持っている。それでいて兄上にぞっこんなのよね。」

 菊の結婚が決まった時点で北条との同盟はになって、本当は武田と縁を切って実家に帰ったっていいはずなのに、

「実家からの帰国命令をきっぱり断って、ああやって敵国に嫁ぐ義妹の嫁入り仕度じたく懸命けんめいに手伝ってくれるんだから。」

 言いにくいことをぽんぽん言うくせに案外、『夢見る乙女おとめ』な妹が感動している夫婦愛については、少々説明が要る。

 そもそも小夜姫は天正五年、武田と北条の同盟によって小田原から輿入こしいれしてきた。当主・北条氏政ほうじょううじまさの妹である。

 そしてこの度、越後で起きた争いの二人の主役のうち、一方は小夜姫の兄にあたる人なのだ。

 上杉家の先代の当主・不識庵謙信は、戦国武将には珍しく生涯妻をめとらず、従って子が無い。そこで三人の養子をとった。

 そのうち、自分の姉の息子・喜平二景勝きへいじかげかつと、北条家と同盟を結んだ際に人質として来た三郎景虎さぶろうかげとらとの間に争いが起きた。

 景虎は乱が起きるとすぐ実家の兄・氏政に救援を頼み、氏政は同盟をたてに取って、義弟の勝頼に出兵を要請した。

 越後は震撼しんかんした。いかに上杉の兵が勇猛であろうとも、国が二つに分かれた今の状態で、武田と北条に攻められてはひとたまりもない。諸将は、雪崩なだれをうって景虎に、いや後ろ盾の北条氏になびき、哀れ景勝の命は風前ふうぜんともしびとなった。

 勝頼は越後領内に兵を進めたが、肝心の北条軍は風評ふうひょうで越後が揺れ動いているのを知って慢心まんしんしたのか、いっこうにやって来ない。畢竟ひっきょうこれは、武田と上杉を戦わせ、その間に漁夫ぎょふの利を得ようという魂胆こんたんか、と勝頼が疑いを抱いているその時に、絶体絶命で必死の景勝側から接触をはかってきた。

 お考えあれ、と、使者は言ったという。

 ここで仮に、景虎が勝利を収めたといたしましょう。さすれば、日本海から太平洋をつなぐ広大な北の大地は全て北条のものとなる。武田は頭を抑えられ、袋のねずみとなるのではございませぬか。

 景勝の近習きんじゅうだというその若者は、言葉巧みに勝頼を説き伏せた。

 仲裁ちゅうさいしていただければ、何がしかの御礼を差し上げましょう。戦わずして、永年ながねん宿敵しゅくてき上杉家から、かように莫大ばくだいな戦果を挙げる、これぞ、お父上も成し得なかった偉業でございましょう、と勝頼の一番の急所を突いてきたという。

「まだ前髪まえがみちの、大層美しい若衆わかしゅうだったそうよ。」

 ともかく、これで勝頼はと参ってしまった。

 早速さっそく、景勝と和議わぎを結び、景虎との調停ちょうていに乗り出した。

 待てど暮らせど実家の軍が来ないばかりか、義弟に寝返ねがえられてしまって、不安になった景虎は、渋々しぶしぶ調停に応じた。

 和睦わぼくが成ると、勝頼はさっさと引き上げてしまった。

 さあ、怒ったのは北条氏である。自分の出兵が遅れたのはたなに上げて、同盟打ち切りを宣告してきた。

 双方にいいところを見せたかった勝頼としては困ったことになったが、領土と金は、じりひんの武田家としてはのどから手が出る程欲しい。主君でもないのに、偉そうに只働ただばたらきばかり命ずる北条氏と結んでいたって何の得になるだろうか。

 結果、宙に浮いてしまって哀れなのは小夜姫だった。継室と聞こえはいいが、結局人質なのだ。

 勝頼は、同盟が破棄された今、実家に帰ることを勧めた。

 ところが小夜姫は、一端いったん夫婦になった以上、私は甲斐に骨を埋める覚悟でございます、ましてや間もなく子供が生まれるのですから、とがんとして帰らないという。

「兄上もいい人だものね。」

 菊はしみじみと言った。

 兄は、喧嘩けんかぱやいけれど根に持たない、さっぱりした男らしい性格なのだ。腹違いだし、怒られてばっかりだけど、それでも兄のことは大好きだった。兄弟といえども母が違うなら他人同然、いや家督かとくを巡って不倶戴天ふぐたいてんの敵同士の家が多い中で、珍しいことかもしれない。

「ところで上杉が出してきた条件が、武田から嫁をもらうということ。でもこれは大変なことよ、北条から武田に嫁入りするよりもね。」

 武田、北条、そして今は滅亡した駿河の今川氏は、その時々に離合りごうはあったにせよ、古くから同盟を結んでは互いに嫁や養子のやり取りを行ってきた。

 ところが武田と上杉は、いまかつて同盟を結んだことのない怨恨重畳えんこんちょうじょう宿敵しゅくてきだ。川中島が一番有名だが、その時々場所をかえて争うことばかりだった。

 今回の縁組は、両家の歴史始まって以来のことなのだ。

「そんな所に嫁に行くなんて大変よぉ。私にはとっても無理だわぁ。」

 菊は松の顔をまじまじと見た。

「松、あなた……私に回したのね、この話!」

 そうなのだ、いつも。

 縁談というと、松姫をいただきたい。こればかりである。

 同じ母から生まれた血を分けた姉妹だ、そう器量きりょうが違うとも思えないのに、妹のほうがなのだ。

(松ったら、男のひとの前じゃ、くちかたからしてまるっきり違うものね。)

 口の利き方ばかりではない、目端めはしが利く妹の、話題の選び方、相手の気分を良くし、自分の利になるように仕向けるやり方、何をとってもかなうものではない。

 それに比べて、私は。

 小夜姫のことだって、今日の今日まで何もわかっていなかった。

 菊は血の気が引いていくのを感じた。

(何も考えないで縁談受けちゃったけれど、ほんとにやっていけるの、このあたしで?)

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