第3話 姫君
籠を下げた菊が、
「やあい、怒られた。」
「やあねぇ、待ち伏せしてたの?」
菊は顔をしかめた。
「無神経よねぇ。兄上は父上が
菊の反応などお構いなしに、ぽんぽんと言い
菊と同じ油川氏の娘で、妹の
「あなたってば……
菊は怒るより先に
松の陰に控えていた侍女の
全く、いけすかない女だ。
「別に
さっき番兵ともみあった際に菊の顔についた泥を目ざとく見つけて、眉を
菊があやうく受け止めると、松は舞いの
西曲輪には勝頼の
姫は侍女たちと、部屋
「お
てきぱきと指示していく。
「菊さまの亡きお母上に代わって、
「小夜さま……有難うございます。」
菊は感激した。
本当は、この女性に頼めた義理ではないのに、
(ほんとにいい人)
血を分けた
「関の所で
松が言う。
「そうよ、だって、今まで何も無かった所にいきなり新しい関をたてるんですもの。皆、通行しづらくて困っていたわ。仮にも一国の主ともあろう者が、民の通行を邪魔しちゃいけないわよねえ。」
女ばかりの気安さで菊はつい口を滑らせた。
小夜姫は、つと縫い物の手を休めると、
「武田では
「お屋形さまは先日、越後からお戻りになって、
「驚いた。あの人、何であんなに
「全然わかってないのね。」
馬鹿にしたように松が言う。
菊の為に集めた生地だというのに、一番見ばえが良いものをちゃっかりせしめた松は、自分の部屋で広げて、ほくほくしている。
「あの人の事、ただ、いい人、くらいに思ってたんでしょ。とんでもない。彼女、武田の情報を集めては、
菊が驚いているのを見て松は、うっとり
「でも、これで小夜さまのこと、裏切り者だなんて思わないで。敵方に嫁いだ夫人は皆、やっていること、なんだから。」
政略結婚の戦国の嫁の務めとは何か。
それは、嫁ぎ先と実家が戦争にならないように、なるべく実家の
「小夜さまって、『姫君の鏡』と言ってもいいわよね。
菊の結婚が決まった時点で北条との同盟はおしゃかになって、本当は武田とすっぱり縁を切って実家に帰ったっていいはずなのに、
「実家からの帰国命令をきっぱり断って、ああやって敵国に嫁ぐ義妹の嫁入り
言いにくいことをぽんぽん言うくせに案外、『夢見る
そもそも小夜姫は天正五年、武田と北条の同盟によって小田原から
そしてこの度、越後で起きた争いの二人の主役のうち、一方は小夜姫の兄にあたる人なのだ。
上杉家の先代の当主・不識庵謙信は、戦国武将には珍しく生涯妻を
そのうち、自分の姉の息子・
景虎は乱が起きるとすぐ実家の兄・氏政に救援を頼み、氏政は同盟を
越後は
勝頼は越後領内に兵を進めたが、肝心の北条軍は
お考えあれ、と、使者は言ったという。
ここで仮に、景虎が勝利を収めたといたしましょう。さすれば、日本海から太平洋を
景勝の
「まだ
ともかく、これで勝頼はころりと参ってしまった。
待てど暮らせど実家の軍が来ないばかりか、義弟に
さあ、怒ったのは北条氏である。自分の出兵が遅れたのは
双方にいいところを見せたかった勝頼としては困ったことになったが、領土と金は、じり
結果、宙に浮いてしまって哀れなのは小夜姫だった。継室と聞こえはいいが、結局人質なのだ。
勝頼は、同盟が破棄された今、実家に帰ることを勧めた。
ところが小夜姫は、
「兄上もいい人だものね。」
菊はしみじみと言った。
兄は、
「ところで上杉が出してきた条件が、武田から嫁を
武田、北条、そして今は滅亡した駿河の今川氏は、その時々に
ところが武田と上杉は、
今回の縁組は、両家の歴史始まって以来のことなのだ。
「そんな所に嫁に行くなんて大変よぉ。私にはとっても無理だわぁ。」
菊は松の顔をまじまじと見た。
「松、あなた……私に回したのね、この話!」
そうなのだ、いつも。
縁談というと、松姫をいただきたい。こればかりである。
同じ母から生まれた血を分けた姉妹だ、そう
(松ったら、男のひとの前じゃ、
口の利き方ばかりではない、
それに比べて、私は。
小夜姫のことだって、今日の今日まで何もわかっていなかった。
菊は血の気が引いていくのを感じた。
(何も考えないで縁談受けちゃったけれど、ほんとにやっていけるの、このあたしで?)
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