第5話 師弟

 足音荒く松の部屋をでてきたものの、何だかいっぺんに疲れてしまった。

 小夜姫と侍女たち、松とその侍女たちに分けて、ずいぶん軽くなった籠を下げて、身も心もよれよれになった菊は力なく自分の部屋に戻ってきた。だがふすまを開けた途端とたん、彼女の目は生き生きと耀かがやいた。

「叔父上!いらしてたの!」

 菊が描いた絵をいくつか広げて見入っていた老人は、好人物こうじんぶつらしくにこにこと笑っている。

「しばらくじゃな、菊。元気そうで何より。」

 老人の相手をしていた老女ろうじょに、菊は、

揚羽あげはったら、何で教えてくれないのよ。叔父上がいらしているって知っていたら、飛んで帰って来たのに!」

「又フラフラ出歩いて、四郎{勝頼}に怒られたそうじゃな。女らしく家で花や鳥でも描いておれば良かろうに。」

「どうかきつくお叱りおきくださいまし。私が言ったって、全然聞かないんだから。」

 揚羽が言う。

『老女』というのは職名で、最高位の侍女のことをさす。

 揚羽は菊の乳母うばの娘で、年だって一つ二つ上なだけである。幼いときから主人と共に育って姉妹みたいな存在だ。松と双璧そうへきの口うるささで、落ち着きのない主人のご意見番として控えている、いや、『控えて』はいない。

「叔父上がおっしゃる?御自分だって逍遥軒ぶらぶらさんなんてごうじゃないの。」

 菊に遠慮なく言われても、叔父は笑っているばかりだ。そもそも山歩き、街歩きを彼女に仕込しこんだのは彼なのだから。

 逍遥軒信廉しょうようけんのぶかど、信玄の弟であり、菊に絵を教えてくれた老師せんせいでもある。父が生きている間、影武者を務めていた男だが、似ているのは背格好せかっこうだけ、気の弱い優しい叔父を、菊は家族の誰よりも愛している。

 信玄の片腕として戦に出て、活躍してきた叔父だったが、本当は芸事が得意で、中でも絵は、素人しろうといきを越えている。武田の家に生まれていなければ、町絵師にでもなって好きな絵を描いて過ごすのになあ、と菊にはいつも言っている。だから菊が絵に興味を持っており、実際並々ならぬ才能を秘めていることを真っ先に知って、誰より喜んだのは、この叔父だった。

「そなた、ずいぶんと腕を上げたのう。精進しょうじんしておるのがわかるわ。」

 叔父は菊の描いた絵を取り上げて眺めながら言う。

 緑黄色に染まる田んぼ、仕事に精出す村人たち、その足元で季節を彩る花々、遊ぶ子供たち、家の軒先をかすめて飛ぶ鳥、馬に乗って通る武士たち、遠くには甲府盆地を垣のように囲む雪を抱いた山々、そして、全てを見下ろす富士の高嶺たかね

 どの場面を切り取っても生き生きしていて、画面から飛び出してきそうな躍動感やくどうかんがある。

女子おなごの描いた絵は、どうしても綺麗事きれいごとになりがちなのじゃが、そなたは違うの。男が描いた絵のようじゃ。」

「描く人の性格が表れてますよね。」

 揚羽がちくりと言って、菊から受け取った籠を持って部屋の外に出て行った。

「叔父上、お忙しいんでしょ?今日はどうなすったの?」

 信廉は居住まいを正して頭を下げた。

「このたびは御婚約おめでとう。」

「あ、有難うございます。嫌ね、私、さっき知ったのよ。知らなかったの、実は私だけ?」

 菊は赤くなった。

「今度改めて正式にお祝いに参上しようと思うが……今日は、可愛い弟子が遠くに行ってしまうから、餞別せんべつを持って来たのじゃ。」

 信廉は、自分の傍らに置いてあった箱を菊に差し出した。

 菊は息をんだ。

「叔父上、これ……どうして?」

 それは信廉が大切にしていた舶来はくらいの高価な絵の道具だった。

「これを私に下さったら、叔父上が絵を描けなくなってしまうじゃないの。いくら何でも、これだけはいただけないわ!」

「いや、最近忙しくて絵なぞ描いている暇が無いのじゃ。」

 武田も最近落ち目でなあ、と力無く笑う。

 三年前の長篠の大敗以来、叔父はめっきりけた。

 そういえば顔色も何だか悪いようだ、どこかぐあいでも良くないのだろうか。

 心配そうな菊の顔に気がついて、叔父は打ち消すように手を振った。

「いや、又、描く暇ができたら、新しいのをそろえるさ。その道具で、そなたのお祖父じいさま、お祖母ばあさま、父上の遺像いぞう出陣影しゅつじんえい{いずれも肖像画しょうぞうが}を描いたのじゃ。そなたに嫁入り道具として持っていってもらえれば、これほど嬉しいことは無い。」

「ありがとう、叔父上。大切にします。」

 菊は道具を抱きしめた。

 叔父の気持ちが嬉しかった。

 たった一人、敵国に乗り込んでいく彼女にとって、これほど素晴らしい支えは無いだろう。

 揚羽が、葡萄ぶどうを載せた高杯たかつきを捧げて室に入ってきた。

「叔父上、葡萄美味おいしそうよ。どうぞ召し上がって。揚羽もいらっしゃい。」

 いつの間に時がたったのか、空はあかね色に染まっている。山のには三日月がかかり、庭には虫の声がしきりとしている。

 三人はみずみずしい葡萄の粒を舌に転がしながら、夕暮れのひとときを楽しんだ。

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