第5話 師弟
足音荒く松の部屋をでてきたものの、何だかいっぺんに疲れてしまった。
小夜姫と侍女たち、松とその侍女たちに分けて、ずいぶん軽くなった籠を下げて、身も心もよれよれになった菊は力なく自分の部屋に戻ってきた。だが
「叔父上!いらしてたの!」
菊が描いた絵を
「しばらくじゃな、菊。元気そうで何より。」
老人の相手をしていた
「
「又フラフラ出歩いて、四郎{勝頼}に怒られたそうじゃな。女らしく家で花や鳥でも描いておれば良かろうに。」
「どうかきつくお叱りおきくださいまし。私が言ったって、全然聞かないんだから。」
揚羽が言う。
『老女』というのは職名で、最高位の侍女のことをさす。
揚羽は菊の
「叔父上が
菊に遠慮なく言われても、叔父は笑っているばかりだ。そもそも山歩き、街歩きを彼女に
信玄の片腕として戦に出て、活躍してきた叔父だったが、本当は芸事が得意で、中でも絵は、
「そなた、ずいぶんと腕を上げたのう。
叔父は菊の描いた絵を取り上げて眺めながら言う。
緑黄色に染まる田んぼ、仕事に精出す村人たち、その足元で季節を彩る花々、遊ぶ子供たち、家の軒先を
どの場面を切り取っても生き生きしていて、画面から飛び出してきそうな
「
「描く人の性格が表れてますよね。」
揚羽がちくりと言って、菊から受け取った籠を持って部屋の外に出て行った。
「叔父上、お忙しいんでしょ?今日はどうなすったの?」
信廉は居住まいを正して頭を下げた。
「この
「あ、有難うございます。嫌ね、私、さっき知ったのよ。知らなかったの、実は私だけ?」
菊は赤くなった。
「今度改めて正式にお祝いに参上しようと思うが……今日は、可愛い弟子が遠くに行ってしまうから、
信廉は、自分の傍らに置いてあった箱を菊に差し出した。
菊は息を
「叔父上、これ……どうして?」
それは信廉が大切にしていた
「これを私に下さったら、叔父上が絵を描けなくなってしまうじゃないの。いくら何でも、これだけはいただけないわ!」
「いや、最近忙しくて絵なぞ描いている暇が無いのじゃ。」
武田も最近落ち目でなあ、と力無く笑う。
三年前の長篠の大敗以来、叔父はめっきり
そういえば顔色も何だか悪いようだ、どこかぐあいでも良くないのだろうか。
心配そうな菊の顔に気がついて、叔父は打ち消すように手を振った。
「いや、又、描く暇ができたら、新しいのを
「ありがとう、叔父上。大切にします。」
菊は道具を抱きしめた。
叔父の気持ちが嬉しかった。
たった一人、敵国に乗り込んでいく彼女にとって、これほど素晴らしい支えは無いだろう。
揚羽が、
「叔父上、葡萄
いつの間に時がたったのか、空は
三人はみずみずしい葡萄の粒を舌に転がしながら、夕暮れのひとときを楽しんだ。
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