第32話 河原

 恵んでもらった金も、十数名を食べさせるのに十分な金とはいえなかった。金も無く希望も見出せない一行が宿にする先は、もうかもの河原の橋の下しかなかった。

 河原には、町の繁栄からはじき出された者たちが集まっていた。

 元から河原に住んで、皮剥かわはぎその他、宗教上の理由で、人からおとしめられている生業せいぎょうに従事している河原者かわらものと呼ばれる人々もいたが、それより目立つのは、地方からの避難民だった。きゅうすると皆、同じことを考えるらしい。戦火に追われて逃げ出した結果、土地から切り離されてしまった百姓の一家も多かったが、中には菊たちと同じ、武者むしゃらしい一行もいた。

 大人たちはぎょろぎょろ目だけ光らせて、けだもののようなすさんだ顔つきをしていた。子供たちは反対に青白い顔をして頼りなく、幽鬼ゆうきのような姿だった。身体はせていて、手足は棒のようなのに、腹だけは満月のようにふくれあがっていて、鼻の穴や唇の端からたらたらと青汁を垂らしながら、うつろな目をして大人おとなしく達丸たちを見ていた。それもつかの間、いつのまにか何処かへ姿を消しているのだった。死んだのか、それとも何処かへさまよって行ってしまったのかわからなかった。

 何を見ても驚かなくなっていた菊だったが、その姿には胸が痛むものがあった。

(うちの子供たちだけは)

 達丸の手を握りながら思った。

(あんな目にあわすまい)

 でも具体的にどうしたらいいのか、菊にはさっぱりわからなかった。

 河原の生活は一般のそれより一段と低く、そこに暮らす人々は世間せけんから見捨てられた思いで暮らしていたが、世間のほうでは彼らを放っておいてはくれなかった。なぜなら川にはたくさんの橋がかっていたからだ。夜、人々が寝静まっている時でさえも、橋を踏みつけ踏みつけして通る人や荷車の音が、頭上に響いていくのだった。

 ある日のこと、菊たちの暮らす橋の上を、華やかな一行が通っていった。

 美々びびしいよろいに身を固めた強そうな大将たちもさることながら、最新式の銃を抱えたたくさんの足軽たちが目を引くその軍勢は、延々と四条の橋を押し渡っていく。

三河守みかわのかみ{徳川家康}さまと、秋田あきた城介じょうのすけ{織田信忠}さまの軍勢じゃ。」

 派手好きな信長の度重たびかさなる催しで、家中かちゅうもんをよく知っている京雀きょうすずめたちがささやききあう。

「武田討伐のご褒美ほうびとして甲斐駿河をたまわった御礼に、安土に参上した三河守さまが、京まで足を伸ばされたのじゃ。」

 人ごみに混じって菊は、父信玄の時代から敵対し、ある時は武田軍から命からがら逃げる途中、恐怖のあまり脱糞だっぷんするという屈辱くつじょくを味わい、その際の自画像を自室にかかげていましめとするといった艱難かんなん辛苦しんく挙句あげく、とうとう宿敵しゅくてき武田を滅ぼした執念しゅうねんの男の顔を見上げた。

 周りを固めるよろい武者むしゃの中、初夏の強い日射しを嫌ってか、家康はひとり涼しげな烏帽子えぼしかぶり、鉢金はちがねを締めていた。後年の肥満の影をやや見せる丸いほお、丸い目玉、額から流れる汗をしきりにぬぐい、おうぎとあおいでいる。白髪しらが交じりのひげが、ふわふわと情けなく宙を舞う。人のよさそうな田舎者いなかものといった風情ふぜいのその男の顔は、何の変哲へんてつも無いごくごく普通の人の顔だった。

 叡山えいざんの僧を何千人も焼き殺し、逆らう武将たちには決して容赦ようしゃせず、義理の弟である浅井氏の頭蓋骨ずがいこつを金のさかずきにして正月のうたげさかなにしたという大魔王信長の盟友めいゆう家康も又、おにじゃのような恐ろしい男だと信じ込んでいた菊は拍子抜ひょうしぬけする思いだった。

 こんな何処にでも居そうな平凡な男の為に、我が家は、あの武勇天下に鳴り響いていた我が武田家は、滅ぼされてしまったのだろうか。

 信長も又、色白で細面ほそおもての、女子おなごのような優男やさおとこであるといううわさを聞いたことはあるけれど、そんなはずはないと否定していたのに。では、あの噂もやはり本当なのだろうか。

 その時ふと菊は、安土の城下を通った際、聞いた話を思い出した。

 それは城下にある総見寺そうけんじという大きな寺にまつわる話だった。何でもその寺は信長をたたえるために作られたというのだ。その寺には大きな石があり、願いをかければ信長の力によって何でも願い事がかなうというのだ。寺の祭日は信長の誕生日であり、お参りをする人々がひきもきらないという。年が明ければ皆一斉いっせいに年をとるのが習慣だった時代、個人の誕生日にこだわるのは極めて異例であった。その話をしてくれた男は人ごみを指差し、あれがお参りをする人々の行列でございますよ、私も暇さえあればお参りに行っております、と言うのであった。

 信長は自分のことを神か仏のように思わせている。それは彼が、神も仏も信じないからだ、と菊は思った。

 父も兄も信心深かった。甲斐には立派な寺が幾つもあり、菊も含めて一族の人々は熱心に信仰していた、でも。

 あんなに信仰していたのに。あんなに信心深かったのに。たくさんお寺を建て、たくさん寄進きしんして、それだけでは足りず、よそからも、長野の善光寺からも如来にょらいを招いて。ああ、それなのに、我が家は滅んでしまって、神も仏も信じないばかりか、身の程知らずにも、自分が神だと公言している信長が栄えているなんて。あたしたちが一体何をしたっていうの?こんなのってない。世の中、不公平だ。ほんとに、ほんとに、神も仏も……あるんだろうか?

(あたしはもう何も信じない)

 よしんば、神仏がこの世に現れたとしても、皆がそれについていったとしても。

(あたしはもうそれを傍らで見ているだけだろう)

 何もかも思い通りにならない、人の命なんて朝日に消える露のようなこの世で、頼りとするものも無い。あたしは一体どうなってしまうのだろう。

 菊は行列をぼんやりながめながら立っていた。いつの間にか他の者たちとはぐれて一人で居ることにも気が付かなかった。

 その時、行列の中ほどで、女が絶叫した。

 何を言っているかはわからなかった。

 でもその悲鳴で我に返った菊はあわてて、ざわめく群集をき分けて進み始めた。

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