第33話 末っ子
松も、皆とともに
晒し台に並ぶ首を見てからというもの、松は無口になった。
それまではうるさいほどおしゃべりし、命令し、一行の中心になって
実際、松にはどうしても事態が飲み込めなかった。
彼女は末っ子で、しかも女の子だった。山のように居る兄弟姉妹の中、普通なら埋もれてしまってもおかしくない存在だった。それが、父信玄に一番といっていいほど可愛がられる存在になったのは、ひとえに彼女の、周りの状況を鋭く見極め、それにぴったりと立ち居振る舞いをあわせていく、それでいて、自分の主張は抜け目無くさしはさんでいく能力にあったといっていい。
そう、彼女はずば抜けて
父は松を
信玄は、東海から
信玄の没後も、松は抜け目無く
こんな生活は彼女の想像の及ばないところにあった。
家が滅びるなんて。
着る物が無い。食べる物が無い。住む所が無い。
橋の下に
橋の下の一番いい場所は、古くから河原に住んでいる、いわば特権階級の河原者が代々独占していて、
仕方ないので、松たちは上流から流れてきた木を拾って組み合わせ、屋根を
着物はとうにぼろぼろになってしまい、朝晩手入れを欠かさなかった白く艶やかな女たちの肌は日に焼け、
いつも腹が
五条の河原では時々刑罰が行われていたが、それ以外のときは、様々な宗派の坊さんたちが、かわるがわる
あるとき、皆で粥をもらいにいったことがある。
ちょうどその時、鍋を出していたのは
姉の菊が、達丸を
ところが
「
とまつわりついて騒ぐ達丸のせいで取り落とし、ものの
菊は
後にはひっくり返った
南蛮寺の坊さんが急いで新しい粥をくれ、揚羽が達丸に食べさせて、その場は終わった。
菊はその夜、遅くなって戻ってきた。何も言わず、皆に背を向けて寝てしまった。
それ以来、姉は松に、自分のことは自分でしなさい、皆のために働きなさい、と口うるさく言うようになった。実際、家を治したり、食べ物を探しにいったり、魚を取りにいったり、以前にも増して皆の先頭にたって働くようになった姉だが、松にはどうしても納得がいかなかった。
働く?
働くですって?
私は生まれたときから、何でも召使にやってもらって過ごしてきたのに。そういう身分に生まれ付いているのに。
何で、自分より身分の下の者と一緒になって働かなくっちゃいけないの?
何もかも無くした可愛そうな身の上だっていうのに、何で誰も大事にしてくれないんだろう。
夜を迎え、ああ、一日生きてこられた、死ぬ者はいなかった、とほっとして眠りにつくと、あっという間に朝が来て、ああ、又つらい一日が始まる、今日、誰か命を落とす者がいるのではないだろうか、と心配する日々が続く。
菊が日ごとに何か硬い
そんな松の目の前を行列が通っていく。
彼女は最初から、たった一人の姿しか追っていなかった。
(
それは彼女のかつての婚約者、織田家の嫡男、信忠だった。
信忠は七歳の松と婚約したとき、まだ十一歳だった。幼い二人は度々文をやり取りし、贈り物を交換しあった。信忠が贈ってくる物は、上等な絹や、京の一流の職人に作らせた飾り物、美しい貝あわせの貝、絵巻物などで、いくら家柄が
豪華で美しく、平穏で楽しい日々。
(あれはまだ惣蔵に出会う前だった。私は本当の恋を知らないねんねだった)
でも素晴らしい日々だった。失ってみて、初めてわかった。信忠という若者は、あの幸せな生活の象徴のような存在だった。
あれから歳月は流れた。松との婚約を解消した信忠は側室との間に子供が生まれたとのことだが、正室はまだ置いていない。
甲斐侵略の指揮はとったものの、後ろで糸を引いていたのは父・信長だ。
(奇妙丸さまが、甲斐の人たちにあんな
松は否定した。否定せずにはいられなかった。
(奇妙丸さまは父上と仲が悪いという。きっと恐ろしい父の命令に逆らえず、嫌々なさったことなのだ。そうでなければ、あんな噂はたたない)
それは、信忠が松を探しているという噂だった。
徳川家康は姫狩りの末、『松姫』と称する女を二人までも手に入れ、ともに側室としているが、実は
(あの方ならば、私をこの苦境から救い出してくださる)
もう今では武田の家も無く、自分は既に姫君でも何でもなくなっているのをすっかり忘れて、松は信じ切っていた。
(だってあの方は、私の絵姿を見て、あれは私が舞の
その信忠が今、彼女の目の前に居る。
彼は変わらなかった。
絵姿の若者がそのまま少し年を取って、それでも相変わらず、美しく高貴だった。
ふとこちらを見た切れ長の目が自分の目と合ったような気がして、彼女は胸をときめかせたが、実際には彼の目は彼女の頭上を
若い女だった。
貴族の娘らしく、抜けるように白い細面の顔は能面のように表情は無かったが、
その瞬間、
松は夢中で叫んでいた。
「私はここ、ここよ!」
叫んでいるのは
髪はぼさぼさに伸びて、顔は赤黒く、手足はひょろひょろと
だが女はいつの間にか現れた乞食の仲間に取り囲まれ、口をふさがれ、見物の大群衆の中に引っ張り込まれて、姿を消してしまった。
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