第33話 末っ子

 松も、皆とともに美々びびしい行列を眺めていた。

 晒し台に並ぶ首を見てからというもの、松は無口になった。

 それまではうるさいほどおしゃべりし、命令し、一行の中心になって振舞ふるまっていたのが、静かに一番後ろからついて歩くようになって、すっかり存在感が無くなってしまった。

 実際、松にはどうしても事態が飲み込めなかった。

 彼女は末っ子で、しかも女の子だった。山のように居る兄弟姉妹の中、普通なら埋もれてしまってもおかしくない存在だった。それが、父信玄に一番といっていいほど可愛がられる存在になったのは、ひとえに彼女の、周りの状況を鋭く見極め、それにぴったりと立ち居振る舞いをあわせていく、それでいて、自分の主張は抜け目無くさしはさんでいく能力にあったといっていい。

 そう、彼女はずば抜けて利口りこうだった。

 父は松を溺愛できあいした。風邪かぜをひいたといっては寺社に祈願文きがんぶんを送って祈祷きとうさせた。娘が舞いに夢中になると、京からわざわざ取り寄せた最高級の見事な扇を贈った。壮大な宴を何度も開いては、愛娘まなむすめの舞を披露ひろうする場を設けた。

 信玄は、東海から台頭たいとうしてきた織田家の嫡男ちゃくなんと彼女を婚約させたが、それは、この新興しんこうの家が当家にとってなかなか馬鹿にならない勢力となるのを見破っていたふしがあった。彼はその手駒てごまの最強の者を目付役めつけやくとして派遣はけんしようとしていたのだ。だが手放すには娘はあまりにも幼く、彼は彼女を可愛がりすぎていた。そうこうするうちに織田家と手切てぎれになってしまい、新しい婚約者を決めないうちに父は亡くなってしまった。

 信玄の没後も、松は抜け目無く振舞ふるまって、の生活を続けた。最大の不幸は思い通りにならない『恋』くらいだった。そうだ、今思えば、彼女の『不幸』はそれくらい、だったのだ。

 こんな生活は彼女の想像の及ばないところにあった。

 家が滅びるなんて。

 着る物が無い。食べる物が無い。住む所が無い。

 橋の下にもぐっていると、頭上からはぽたぽたしずくが垂れ、どんどんと頭の上を通っていく物音が夜中でも響いていたが、まだ屋根があるだけましなほうだった。

 橋の下の一番いい場所は、古くから河原に住んでいる、いわば特権階級の河原者が代々独占していて、新参者しんざんものは雨風のあたる暮らしにくい場所で肩身狭かたみせまく暮らすしかなかった。

 仕方ないので、松たちは上流から流れてきた木を拾って組み合わせ、屋根をいただけの小屋とも呼べぬ代物しろものに寄りかかるように暮らしていた。そんなみすぼらしい建物でも夜露よつゆをしのげるだけましとはいえたが、あばれ川で名高い鴨川かもがわのこと、雨が降ってちょっと水かさが増せば、あっけなく流されてしまって、松たちは夜中、川岸に上がって、自分たちの哀れな小屋が水かさを増した川の中に没していくのを、濡れそぼって震えながら見守っているしかなかった。

 着物はとうにぼろぼろになってしまい、朝晩手入れを欠かさなかった白く艶やかな女たちの肌は日に焼け、のみしらみに噛まれて、赤黒くガサガサして艶も無く、しょっちゅうボリボリいているので硬くなってしまった。皆、しわやシミや白髪しらがが増えてしまったと松は思っていたが、自分にもいつの間にか白髪が生えているのには気が付かなかった。

 いつも腹がいていて、何か食べる物は無いか、それしか頭に無かったからだ。

 五条の河原では時々刑罰が行われていたが、それ以外のときは、様々な宗派の坊さんたちが、かわるがわる大鍋おおなべを持ち出しては貧しい人たちにかゆ振舞ふるまっていた。

 あるとき、皆で粥をもらいにいったことがある。

 ちょうどその時、鍋を出していたのは南蛮寺なんばんじの坊さんたちだった。南蛮寺というのは蛸薬師たこやくし柳馬場やなぎのばんばにある異国の宗教を信じる人たちの寺だ。京では新顔のこの人たちは、信長の寵愛ちょうあいの元、今もっとも羽振はぶりの良い勢力だという話だった。金や茶色の巻き毛、青や緑や茶色の目、高い鼻の背の高い異国人たちが、片言かたことの日本語で話しかけながら、粥を振舞っていた。

 姉の菊が、達丸をかたわらに、列の先頭に並んでいた。

 ところが折角せっかっくもらった粥のわんを、

頂戴ちょうだい、頂戴。」

とまつわりついて騒ぐ達丸のせいで取り落とし、ものの見事みごとにひっくり返してしまった。

 菊はあわててこぼれた粥を椀に戻そうとし、それが無理と知ると、土のかかっていない上辺うわべを手ですくって、せがむ達丸の口に持っていこうとして、はたと手を止めた。しばらくそのまま、がっくりとうなだれて動かなかったが、ふいに立ち上がると、こぼれた粥もそのまま、一人走り去ってしまった。

 後にはひっくり返ったわんと、きょとんとして座り込む達丸がとり残された。

 南蛮寺の坊さんが急いで新しい粥をくれ、揚羽が達丸に食べさせて、その場は終わった。

 菊はその夜、遅くなって戻ってきた。何も言わず、皆に背を向けて寝てしまった。

 それ以来、姉は松に、自分のことは自分でしなさい、皆のために働きなさい、と口うるさく言うようになった。実際、家を治したり、食べ物を探しにいったり、魚を取りにいったり、以前にも増して皆の先頭にたって働くようになった姉だが、松にはどうしても納得がいかなかった。

 働く?

 働くですって?

 私は生まれたときから、何でも召使にやってもらって過ごしてきたのに。そういう身分に生まれ付いているのに。

 何で、自分より身分の下の者と一緒になって働かなくっちゃいけないの?

 何もかも無くした可愛そうな身の上だっていうのに、何で誰も大事にしてくれないんだろう。

 夜を迎え、ああ、一日生きてこられた、死ぬ者はいなかった、とほっとして眠りにつくと、あっという間に朝が来て、ああ、又つらい一日が始まる、今日、誰か命を落とす者がいるのではないだろうか、と心配する日々が続く。

 菊が日ごとに何か硬いからのようなもので身をおおっていくのに対し、松の中では何かが静かに崩壊ほうかいし始めていた。

 そんな松の目の前を行列が通っていく。

 彼女は最初から、たった一人の姿しか追っていなかった。

奇妙丸きみょうまるさま)

 それは彼女のかつての婚約者、織田家の嫡男、信忠だった。

 信忠は七歳の松と婚約したとき、まだ十一歳だった。幼い二人は度々文をやり取りし、贈り物を交換しあった。信忠が贈ってくる物は、上等な絹や、京の一流の職人に作らせた飾り物、美しい貝あわせの貝、絵巻物などで、いくら家柄が由緒ゆいしょ正しくとも所詮しょせん山家やまが育ちの松をうっとりさせるには十分な物だった。婚約者とはいえ、一度も会ったことの無い二人なので、松がせがんで互いの絵姿えすがたを交換したことがあった。信忠は、父・信長譲りの細面ほそおもてがった目の、色白く華奢きゃしゃ若衆わかしゅうで、面食めんくいの松は満足し、興奮したものだった。

 豪華で美しく、平穏で楽しい日々。

(あれはまだ惣蔵に出会う前だった。私は本当の恋を知らないだった) 

 でも素晴らしい日々だった。失ってみて、初めてわかった。信忠という若者は、あの幸せな生活の象徴のような存在だった。

 あれから歳月は流れた。松との婚約を解消した信忠は側室との間に子供が生まれたとのことだが、正室はまだ置いていない。

 甲斐侵略の指揮はとったものの、後ろで糸を引いていたのは父・信長だ。

(奇妙丸さまが、甲斐の人たちにあんな残酷ざんこくなことをなさるなんて……きっと何かの間違いよ)

 松は否定した。否定せずにはいられなかった。

(奇妙丸さまは父上と仲が悪いという。きっと恐ろしい父の命令に逆らえず、嫌々なさったことなのだ。そうでなければ、あんな噂はたたない)

 それは、信忠が松を探しているという噂だった。

 徳川家康は姫狩りの末、『松姫』と称する女を二人までも手に入れ、ともに側室としているが、実は多摩たまの山奥に本物の松姫が隠れ住んでおり、姫を迎えに信忠が使者を使わした、ということだった。菊はその話になると、フンとばかりに口の端をゆがめ、相手にもしないが、松にとっては聞き捨てならぬ話だった。何の縁も所縁ゆかりも無い家康が、ただ家柄目当てで自分と結婚しようとしているのはぞっとするほど嫌だった、でも、信忠ならば話は別だ。

(あの方ならば、私をこの苦境から救い出してくださる)

 もう今では武田の家も無く、自分は既に姫君でも何でもなくなっているのをすっかり忘れて、松は信じ切っていた。

(だってあの方は、私の絵姿を見て、あれは私が舞のかたを決めているところを描いてもらったものだったけれど、『いま天女てんにょ』とおっしゃったというじゃないの)

 その信忠が今、彼女の目の前に居る。

 彼は変わらなかった。

 絵姿の若者がそのまま少し年を取って、それでも相変わらず、美しく高貴だった。色々糸いろいろいとおどした華やかな伊予札いよざねよろい羽織はおった金地に牡丹ぼたんの花柄の陣羽織じんばおりが、細身の身体によく似合っていた。

 ふとこちらを見た切れ長の目が自分の目と合ったような気がして、彼女は胸をときめかせたが、実際には彼の目は彼女の頭上を素通すどおりして、後ろに従えた女物の輿こしの上に止まった。すると、輿の引き戸がわずかに開いて、そこからちらりと女の顔が見えた。

 若い女だった。

 貴族の娘らしく、抜けるように白い細面の顔は能面のように表情は無かったが、馬上ばじょうの彼と目が合うと、結んだ薄い唇はかすかに解かれて、笑みを作った。それにつられたかのように、信忠の口元にも笑みが浮かんだ。

 その瞬間、路傍ろぼうから叫び声が上がった。


 松は夢中で叫んでいた。

「私はここ、ここよ!」


 叫んでいるのは乞食こじきの女だった。

 髪はぼさぼさに伸びて、顔は赤黒く、手足はひょろひょろとせていた。ぼろぼろの着物のすそを地面に引きずっている。甲高かんだかい声で叫んでいて、何を言っているのやらわからなかったが、ただ事ならぬ様子に、信忠をねらう気狂いかと、あわてた足軽たちが、ばらばらと駆け寄って、叫ぶ女を取り押さえようとした。

 だが女はいつの間にか現れた乞食の仲間に取り囲まれ、口をふさがれ、見物の大群衆の中に引っ張り込まれて、姿を消してしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る