第20話 夫婦

 翌朝起きて鏡を見ると、目のまわりが赤黒くなっていた。眠りながら泣いていたらしい。何もする気になれなかったが、ふと、同じ屋根の下に慶次郎も寝ていたのだ、と思い出した。れぼったい顔を、彼に見せたくはなかった。

 いつもより濃い目の化粧をし、段替だんがわ色紙しきし短冊たんざくを散らした水色のはく打掛うちかけを着た。

 彼は、えんから雪の積もった庭をながめていたが、菊の姿を見ると、

「なんか、つまんない女になっちまったな。」

と、にべもない。

「んまあ、失礼ね。」

「厚化粧はあの御愛妾ごあいしょうに任せておけばいいさ。そういえば、最近絵はいてんのか。」

「……あんまり。」

「何だ、もうめたのか。がっかりだな。」

 言い返せない自分が悔しかった。

 そうだ、最近の私って、何なんだろう?

 ただ他人の目を気にして、他人のなすがままだった。

 これじゃあ、誰が生きているのか、わからないじゃない?

 菊は立ち上がった。

「おい、どこへ行くんだ?」

「殿の所。」

 振り向かずに応えた。

 景勝は片肌脱かたはだぬぎになって、射場いばで弓を引いていた。鍛錬たんれんを積んでいるので、引き締まった体をしている。

 一両日中いちりょうじつちゅうに、新発田重家討伐の為、城を出るというので、話をするなら今しか無かった。

 菊は人払ひとばらいを頼み、景勝は衣装を直した。皆が下がると、景勝に頭を下げた。

「殿、私の仕事は終わりました。甲斐にお帰しくださいませ。」

 景勝は黙って菊を眺めている。

 重ねて言った。

「この同盟の意味は、兄が東上野と輿入こしいれ金を受け取った時点で終わっていたようでございます。だから……だから、私がここに来た意味は何も無かったのです。」

 何だったんだろう、私は。

 今までここでやってきたことは、何の意味も無かった。

 越後と甲斐のため役に立つなんて、かっこいいことを兼続に言ってみたけれど、肝心かんじんの甲斐が、内輪うちわもめで崩壊ほうかいしてしまった。

(馬鹿みたい)

 がくり、と身体が傾いて、彼女は地面に手をついた。打掛うちかけに縫い取りしてある色とりどりの短冊たんざくが、雪の溶けた泥水にひたされてみるみる黒く染まっていくのを、菊はぼんやり眺めた。

 景勝は菊の前にかがみこむと、肩を抱いて立ち上がらせた。えんに座らせると、自分もかたわらに腰を下ろし、彼女の顔をのぞきこんだ。

「帰らせるわけにはいかぬ。」

 優しい声だった。

「そなたはもう上杉の一員だ。ここがそなたの家ではないか。」

 彼は彼女の手を取った。

「かつての敵国に嫁いできて、周りの目を気にしながら、それでも素直に明るく振舞ふるまっていた。そなたの真っ直ぐな心は、上杉の者にもちゃんと届いておったぞ。でもそなたは、随分とつらかったのであろうな。」

 大剛と称された猛将が、私を懸命に慰めようとしてくれている。訥々とつとつとしているが暖かな口調に、菊は心がほぐれるのを感じた。と同時に、この人とこんなに間近に話をしたことがあったろうかと淋しく思った。

 嫁いで以来、戦につぐ戦で、景勝はめったに城に居なかった。寝所でさえ宿直とのいの者が控えていて、二人きりになることは無かった。夫婦なのに、二人きりの時間を持てたのは初めてのような気がする。それも別れを告げた日に、初めて。

「いえ、私は素直ではありませんでした。もっと遠慮することなく、殿に近づいていけばよかったのです。」

 武田だ、上杉だととらわれていたのは誰より、自分ではなかったか。

 景勝は低い声で語り始めた。

「俺は幼い頃父を亡くし、一人、この城にやって来た。お屋形さまは上杉の家中の者にとって神仏と同じ、いや、それ以上に崇め奉られているお方だった。」

 その人の養子として、その一番側に仕える。

 それは独りぼっちの少年にとって誇りであったが、反面、重圧でもあった。周囲の大人たちは少年が後継者としてふさわしいかどうか見極めようとしていたからだ。

「俺はいつも観察され、試されていた。夜更よふけ、故郷の坂戸城の夢を見て目を覚ましたことが何度あったろうか。でも俺にはもう、帰る場所は無かった。」

 ああ、苦しんでいたのは兄上だけではなかった。ここにも又、先代の名声の陰で苦しんでいる人が居たのだった。

 無表情の仮面の下に、こんな繊細せんさいな感情が隠されているなんて知らなかった、いや、知ろうとしなかったのだ。その時、菊は何故、紅や兼続がこの人の為に、誠心誠意尽くしているかがわかったような気がした。

「私がつらかったのは本当です。」

 菊は正直に言った。

「でも、私が甲斐に帰りたいのはそれだけが理由ではありません。」

 兄上とこの人の違いがたった一つだけある。

「殿には、紅や直江殿のように誠意をもって仕えてくれる人たちがいます。でも兄には、兄の為に真心をもって仕えてくれる人が乏しいのです。私には紅や直江殿のような知恵や力はありません。でも私は、私だけは、困っている武田の人たちを見捨てることは出来ません。一族の者でさえ叛旗はんきひるがえす今だからこそ、せめて私だけでも、駆けつけてやりたいのです。どうかお聞き届けください。」

 菊の直感はある意味正しい。

 父信玄の死後、勝頼は、混乱無く相続したせいで、旧態依然きゅうたいいぜんの家臣団をそのまま受け取ってしまった。長篠の合戦で古参こさんの家臣を多数失ったものの、名門であることがかえってわざわいして、その後、景勝が育てているような新しい官僚型の家臣を育成するのに十分な時間を持てないまま、強敵を迎えてしまった。景勝は係累けいるいが少なく、相続に苦労したために、新体制への脱皮に挑戦することが出来たが、勝頼はその機会に乏しかった。勝頼に『信頼できる家臣が少ない』とは、この手の官僚が居なかった、ということである。

 この時代、それは家を維持していくうえで、致命的な弱点だった。

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