第21話 帰郷
「武田に帰るゥ?」
さすがの慶次郎もびっくりしたようだった。
「よく殿さまが許してくれたな。兵は貸してくれるのか?」
「兄上にもう一度、協力を申し出てみるっておっしゃっているけど。私は居ても立ってもいられないから、とりあえず帰る。」
「下手をすると上杉も、敵に回るかもしれないぞ。」
「そんなことにはならない。」
菊は強い口調で言った。
「ていうか、私がさせない。それより慶次郎、一緒に来てくれない?」
彼は手を広げた。
「つまり俺を雇うってことだな。」
「まあ。ほんとに何でもお金次第で……。」
揚羽がブツブツ言うのを制して、菊は言った。
「払うわ。だから付いてきて。」
菊は
異母兄で盲目の為、
身の
皆が右往左往しているところへ、紅がやってきた。いつになく硬い表情をしている。
茶室に案内して茶を
「大変ですよ。」
紅は茶碗を手にしたまま、ぽつりと言った。今まで見たことも無いほど暗い
菊が黙っていると、独り言のように続けた。
「私も子供の頃、この越後を出て放浪したことがございますが、
菊は
「何故ですか?上杉には居づらいのですか?」
「……。」
「私のお世話が足りないのでしょうか。」
その時、側に控えていた揚羽が、ずいと
「恐れながら申し上げます。そのように姫君の
「揚羽。」
「いえ、今日ばかりは言わせていただきます。殿さまを姫君に近づけないようにして……。」
「揚羽!」
菊が大声を上げると、さすがに揚羽は口をつぐんだ。
紅は驚いて、
「姫君を邪魔にする?何で私が?」
本当に訳がわからないようだ。
「どうして?こちらから望んで来ていただいたのに?」
「そうかしら?ほんとは私じゃなく、妹がよかったんじゃないの?」
ずっと気になっていたことを、とうとう口に出してしまった。
「松さまを?」
ぽかんとしている。
「どこでそんな話になったんですか?確かに姉上の菊さまをお願いしますと申し上げた
どうやら武田のほうで、上杉が姉と妹をとり間違えたのだろうと気を
甲越同盟の
「紅。私が甲斐に帰ろうと思ったのはあなたのせいじゃないわ。ただ、私の居るべき場所がここではないと思っただけよ。」
「姫君はおいでになるだけで、越後と甲斐の平和の為に役に立っていらっしゃるではありませんか。私こそ……私こそ、少しでも上杉の役に立たなければ、越後に居る意味が無い人間でございます。」
「紅。私ね。」
菊は
「今まで他人と違うのが怖かった。私は兄上に言われるままにここに嫁いできた。大名の娘に生まれたから、女なのだから、そうするのは当然、皆やっていることなのだから、自分ひとり逆らうのはひょっとして、女として足りない証拠かもしれない、そんな周りの声が怖くてここに来た。でもあなたは違うわ。殿を愛し、国を愛し、一生懸命仕事をしている。」
「それは……越後は三郎亡き後も戦が絶えません。その日その日の仕事に追われているだけでございます。」
「でも私は、あなたのようにお城のことには夢中になれない、それがはっきりわかったのよ。ここに居れば、私は私でなくなってしまう。私がやらなければならないことは別にある。それが何かはわからないけれど、でもここに無いことだけは、はっきりわかる。今私が望んでいるのは甲斐に帰ることよ。」
「姫君……。」
「大丈夫、国交断絶なんかにはならない。兄を説得するから。甲斐の状況が落ち着いたら戻ってくる。甲斐には私の妹や兄嫁が居る。心配で心配で、居ても立っても居られないのよ……。」
「近江の商人でいらしたとか。」
紅はにこやかに言う。
雪を抱いた
(目は笑ってない。おお
「あの
声色が変わった。
「世間知らずの姫君をけしかけて。いったい何をたくらんでいるのです?」
慶次郎は目を細めた。
「さあ、故郷に帰るのは、懐かしいからだろう、
「そうですか。用意させましょう。」
紅は、しれっと言って、
「いつも
「
紅は静かに答えた。
「それとこれとは違います。」
「どう違う。姫を見捨てるのか。今、甲斐が危機にあるのは、当主が
「……。」
「俺をこれっぽっちも信用していないのはわかる、が、その気になれば、御館でどさくさまぎれに姫を害することだって出来たんだ。それで甲越同盟は終わりだった。でも俺はしなかった、これからもしない。」
紅はやっと口を開いた。
「人を出して、山越えして
「同盟はもう、効力を失ったも同然か。姫はどうなる。」
紅は庭を見た。
「同盟の
その夜、紅は薄暗い自室に一人座っていた。
目を閉じ、
「猿か。」
沈んだ声で言った。
「
部屋の隅にうずくまった影が
「姫君はあの者を
目を開いた。
「容赦はいらぬ、斬れ。」
「
「それから」
紅は一気に言った。
「
「何の、姫さま。」
老いた
「
「そうか。」
紅は唇を
「行け。」
「御意。」
気配が消えた。
紅はしばらく動かなかったが、やがてきちんと正座すると、影が消え去った方を向いて手を突き、頭を深く下げた。涙がぽとり、と床に落ちた。そのまま突っ伏して動かない。
どこかへ消えたと見えた軒猿は、庭からその姿を見ていた。猿も又、少女の頃からずっと守ってきた主に向かって深々と頭を下げた。
翌朝、菊姫の一行が山を下っていくのを、景勝は
「そなたが国を追われた日、遠ざかっていく舟の影を追いながら、俺は自分の無力が歯がゆかった。今日又、
「衰えたりとはいえ、武田は強大な兵力を持ち、大膳大夫殿は勇敢な武将と聞いております。上杉の助力が無くとも、そう
でも、もし、甲斐が織田の手に落ちたら。
今日の武田の運命は、明日の上杉の運命かもしれない。
その時、首を落とされるのは景勝であり、紅であろう。
「強くなりたい。俺がもっと強くなったら、皆に戦を止めさせることも出来よう。何よりああやって、女たちに悲しい思いをさせずに済む。」
(そう、あたしたちは)
紅は景勝の背を見ながら思う。
(選んだのだ、
あの時、何も出来なかった無力な子供。
もう、自分の運命を他人の手にゆだねたりなんかしない。
だから、いつでも覚悟している。
(この首を引き換えに差し出すことを。自分の運命を選んだ、あの日から)
紅は景勝の肩に手を置き、
「姫君はきっと御無事でお戻りになります。大丈夫ですとも。」
景勝は南の空に目をやった。
雲は低く垂れ込め、遠くの山々を隠している。
これからの菊の旅の困難を思って、景勝は心の中で、春日山に祭られている
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