第21話 帰郷

「武田に帰るゥ?」

 さすがの慶次郎もびっくりしたようだった。

「よく殿さまが許してくれたな。兵は貸してくれるのか?」

「兄上にもう一度、協力を申し出てみるっておっしゃっているけど。私は居ても立ってもいられないから、とりあえず帰る。」

「下手をすると上杉も、敵に回るかもしれないぞ。」

「そんなことにはならない。」

 菊は強い口調で言った。

「ていうか、私がさせない。それより慶次郎、一緒に来てくれない?」

 彼は手を広げた。

「つまり俺を雇うってことだな。」

「まあ。ほんとに何でもお金次第で……。」

 揚羽がブツブツ言うのを制して、菊は言った。

「払うわ。だから付いてきて。」

 菊はあわただしく帰国の準備にとりかかった。

 異母兄で盲目の為、僧籍そうせきに入っている次兄の竜芳りゅうほう危篤きとくなので、その見舞いというのが表向きの理由だ。武田との同盟関係はどうなるのだ、と当然、反対する家臣たちを景勝が説得してくれたおかげだった。

 身のたけを越す雪中突破の強行軍の為、甲斐から連れてきた者たちにも因果いんがふくめ、足弱あしよわな侍女たちは置いて、揚羽以下数名の武士と、道案内に、雪山にくわしいという下男の猿若を、上杉から借りて連れて行くことになった。

 皆が右往左往しているところへ、紅がやってきた。いつになく硬い表情をしている。

 茶室に案内して茶をててやった。

「大変ですよ。」

 紅は茶碗を手にしたまま、ぽつりと言った。今まで見たことも無いほど暗い眼差まなざしだった。

 菊が黙っていると、独り言のように続けた。

「私も子供の頃、この越後を出て放浪したことがございますが、筆舌ひつぜつくしがたい心細さでした。私はあの時、人の究極の姿というものを知ったような気がします。世の中には知っておくべきことと、知らずに済ませたほうが良いことがあると思います。私が体験したことを、他人ひとさまにお勧めすることは到底できません。織田は既に浅井朝倉を滅ぼし、石山本願寺をくだしました。不吉なことを言うようですが、此度こたびの戦はただ事では済まないような気がしてなりません。悪いことは申しません、おやめくださいませ。」

 菊はかたくなに黙っている。

「何故ですか?上杉には居づらいのですか?」

「……。」

「私のお世話が足りないのでしょうか。」

 その時、側に控えていた揚羽が、ずいとひざを進めた。紅に向かって厳しく言う。

「恐れながら申し上げます。そのように姫君の御身おんみが心配と仰せになるのでしたら、いま少し、こちらの身を立てるようなお気遣いがあってしかるべきだったのではございませぬか。下々しもじもの身から見ましても、昨今の四辻御前さまのなされよう、まるで姫君が目に入らぬかのようでございました。」

「揚羽。」

「いえ、今日ばかりは言わせていただきます。殿さまを姫君に近づけないようにして……。」

「揚羽!」

 菊が大声を上げると、さすがに揚羽は口をつぐんだ。

 紅は驚いて、

「姫君を邪魔にする?何で私が?」

 本当に訳がわからないようだ。

「どうして?こちらから望んで来ていただいたのに?」

「そうかしら?ほんとは私じゃなく、妹がよかったんじゃないの?」

 ずっと気になっていたことを、とうとう口に出してしまった。

「松さまを?」

 ぽかんとしている。

「どこでそんな話になったんですか?確かに姉上の菊さまをお願いしますと申し上げたはずですのに?それは誤解ですわ。」

 どうやら武田のほうで、上杉が姉と妹をとり間違えたのだろうと気をかせたつもりのようだった。

 甲越同盟の立役者たてやくしゃが紅ではないかという菊のカンは、どうやら当たっていたようだ。

「紅。私が甲斐に帰ろうと思ったのはあなたのせいじゃないわ。ただ、私の居るべき場所がここではないと思っただけよ。」

「姫君はおいでになるだけで、越後と甲斐の平和の為に役に立っていらっしゃるではありませんか。私こそ……私こそ、少しでも上杉の役に立たなければ、越後に居る意味が無い人間でございます。」

「紅。私ね。」

 菊はめるように言った。

「今まで他人と違うのが怖かった。私は兄上に言われるままにここに嫁いできた。大名の娘に生まれたから、女なのだから、そうするのは当然、皆やっていることなのだから、自分ひとり逆らうのはひょっとして、女として足りない証拠かもしれない、そんな周りの声が怖くてここに来た。でもあなたは違うわ。殿を愛し、国を愛し、一生懸命仕事をしている。」

「それは……越後は三郎亡き後も戦が絶えません。その日その日の仕事に追われているだけでございます。」

「でも私は、あなたのようにお城のことには夢中になれない、それがはっきりわかったのよ。ここに居れば、私は私でなくなってしまう。私がやらなければならないことは別にある。それが何かはわからないけれど、でもここに無いことだけは、はっきりわかる。今私が望んでいるのは甲斐に帰ることよ。」

「姫君……。」

「大丈夫、国交断絶なんかにはならない。兄を説得するから。甲斐の状況が落ち着いたら戻ってくる。甲斐には私の妹や兄嫁が居る。心配で心配で、居ても立っても居られないのよ……。」



「近江の商人でいらしたとか。」

 紅はにこやかに言う。

 雪を抱いた薮柑子やぶこうじと梅を散らした白い打掛うちかけまとって、目のめるような美しさだが、

(目は笑ってない。おおこわ

 小書院こじょいんで紅と対峙たいじする慶次郎だが、最初はなから猫にいたぶられるねずみのようだ。

「あのあたりも、安土城が出来てから、人の往来が益々盛んになって。色々なものを運ぶことを頼まれるのでは。例えば、甲斐の姫を安土へ、とか。」

 声色が変わった。

「世間知らずの姫君をけしかけて。いったい何をたくらんでいるのです?」

 慶次郎は目を細めた。

「さあ、故郷に帰るのは、懐かしいからだろう、呂宋屋るそんや御寮人ごりょうにん羽柴はしば殿の御内儀ごないぎよろしくとおっしゃっていたぞ。今度は南蛮なんばん渡りの羅紗らしゃがお入用だ、御亭主の陣羽織じんばおりを縫うんだそうな。」

「そうですか。用意させましょう。」

 紅は、しれっと言って、

「いつも御贔屓ごひいきに預かっておりますからね。でも、故郷が懐かしいからといってお帰りになるのもどうかと。」

駿河守するがのかみ殿はお帰りになっただろうが。」

 紅は静かに答えた。

「それとこれとは違います。」

「どう違う。姫を見捨てるのか。今、甲斐が危機にあるのは、当主が高天神たかてんじん城を見捨てたと世間に思われているからだ。同じてつむか。同盟相手だろう、兵を付けてやれ、共に生きる為に。」

「……。」

「俺をこれっぽっちも信用していないのはわかる、が、その気になれば、御館でどさくさまぎれに姫を害することだって出来たんだ。それで甲越同盟は終わりだった。でも俺はしなかった、これからもしない。」

 紅はやっと口を開いた。

「人を出して、山越えして甲斐かい府中ふちゅうまでは何とか無事に送り届けましょう。でもその先は、私どもの力の及ぶところではございません。先代が手取川てどりがわで織田をさんざんに打ち破ったあの頃とは違うのです。」

「同盟はもう、効力を失ったも同然か。姫はどうなる。」

 紅は庭を見た。南天なんてんの赤い実が雪に映えている。

「同盟のかたに取られ、その効力が失われた姫は今までも数多あまたおいででした。その例にならうかどうかは、御自身がお決めになることです。」



 その夜、紅は薄暗い自室に一人座っていた。

 目を閉じ、あかりともすことも忘れているようだ。火の気の無い部屋は氷室ひむろのようで、彼女の吐く息だけが細く白い煙のように浮かんでは消える。

「猿か。」

 沈んだ声で言った。

御意ぎょい。」

 部屋の隅にうずくまった影がこたえた。

「姫君はあの者をいたくお気に入りのようだ。命の恩人だ、いたし方あるまい。監視を怠らぬよう、あの者の背後にいる者の手が、姫君に伸びることがあらば」

 目を開いた。

「容赦はいらぬ、斬れ。」

御意かしこまりました。」

「それから」

 紅は一気に言った。

此度こたびの使いは年老いたそなたにとって過酷かこくなものになるであろう。私が越後を追われた時、一度れた命を再び望まねばならぬ。この使命をやりげることができるのは、そなた以外に考えられぬからだ。」

「何の、姫さま。」

 老いた軒猿のきざるは応えた。

造作ぞうさもございませぬ。姫さまはただ一言、行け、とおおせになればよろしいのでございます。」

「そうか。」

 紅は唇をめた。

「行け。」

「御意。」

 気配が消えた。

 紅はしばらく動かなかったが、やがてきちんと正座すると、影が消え去った方を向いて手を突き、頭を深く下げた。涙がぽとり、と床に落ちた。そのまま突っ伏して動かない。

 どこかへ消えたと見えた軒猿は、庭からその姿を見ていた。猿も又、少女の頃からずっと守ってきた主に向かって深々と頭を下げた。



 翌朝、菊姫の一行が山を下っていくのを、景勝は天守台てんしゅだいやぐらから見送った。紅が彼の背後に立つと、彼は振り返らずに言った。

「そなたが国を追われた日、遠ざかっていく舟の影を追いながら、俺は自分の無力が歯がゆかった。今日又、しつが心細く国を去っていく後姿を見送らねばならぬ。紅……俺は口惜くちおしいぞ。」

「衰えたりとはいえ、武田は強大な兵力を持ち、大膳大夫殿は勇敢な武将と聞いております。上杉の助力が無くとも、そう易々やすやすと織田の軍門に下ることはございますまい。」

 でも、もし、甲斐が織田の手に落ちたら。

 今日の武田の運命は、明日の上杉の運命かもしれない。

 その時、首を落とされるのは景勝であり、紅であろう。

「強くなりたい。俺がもっと強くなったら、皆に戦を止めさせることも出来よう。何よりああやって、女たちに悲しい思いをさせずに済む。」

(そう、あたしたちは)

 紅は景勝の背を見ながら思う。

(選んだのだ、為政者いせいしゃであることを)

 あの時、何も出来なかった無力な子供。

 もう、自分の運命を他人の手にゆだねたりなんかしない。

 だから、いつでも覚悟している。

(この首を引き換えに差し出すことを。自分の運命を選んだ、あの日から)

 紅は景勝の肩に手を置き、ほおを寄せた。

「姫君はきっと御無事でお戻りになります。大丈夫ですとも。」

 景勝は南の空に目をやった。

 雲は低く垂れ込め、遠くの山々を隠している。

 これからの菊の旅の困難を思って、景勝は心の中で、春日山に祭られている毘沙門天びしゃもんてんに、一行の無事を祈念きねんした。

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