第22話 新府城

 白い壁が立ちはだかる雪の国境を命がけで踏み越えて、菊の一行がようやく新府しんぷの城にたどりついたのは三月一日のことだった。

 女が雪道を越えていくなんて到底無理だ、と春日山では危ぶまれたが、実際、菊の峠越えを手伝うのに雇われた歩荷ぼっかたちは皆、女だった。冬の積雪期に、急坂にも強く道草を食べて野宿も出来る故、馬より強いといわれる牛さえ通れない険しい山路を、徒歩で重い荷物を担いで、越後から信州へ塩を運ぶのである。栄養の足りない小さな体で、自分の体重より重い荷物を運んで元気に歩む彼女たちを見ると、菊も元気がいてくるのだった。

 甲府盆地に入ると、菜の花が咲き乱れるのどかな里の街道を、家財道具一式を積み込んだ荷車を押したり引いたりしながら、あるいは包みを背負い、子供の手を引いて、続々と避難してくる人々に遭遇そうぐうした。

 織田信長は叡山えいざんで数千人、伊勢長島で二万人の老若男女を焼き殺し、京では七千戸を焼き討ちした。当家の主は長篠で徹底的に敗北し、一万人以上を失った大打撃の傷もまだえていない。信長は八年前の正月、新年のうたげに、討ち取った浅井朝倉の当主たちの頭蓋骨ずがいこつ金箔きんぱくほどこして酒肴しゅこうにしたとのこと。来年の正月の宴にきょうされるのは当家のお屋形さまの頭蓋骨ではないか、というのがもっぱらの噂だった。

 悲しい知らせは次々と耳に入ってきた。

 鳥居峠で武田軍が敗れた後、周囲の諸城を守る武将たちは次々に出奔しゅっぽんしてしまい、城はもぬけのからになってしまった。織田軍を指揮するのは皮肉なことに、信長の嫡男ちゃくなんで松の元婚約者の信忠のぶただだった。彼は特に抵抗らしい抵抗にあうこともなく、速やかに軍を進めていった。

 裏切りは相次いだ。

 中でも衝撃だったのは一門の筆頭ひっとう穴山あなやま梅雪ばいせつの裏切りである。梅雪の母は信玄の姉であり、正室は信玄の次女という二重の縁で結ばれている。だが、このことはかえって彼に、本家が無くなれば自分が武田の頭領とうりょうだという意識を持たせることになった。

 そもそも今、本家を牛耳っている勝頼は『当主』という立場ではない。十年前死んだ信玄は遺言で、将来、孫の信勝が成人した時に当主とする。それまで勝頼は『陣代じんだい後見役こうけんやく}』をするように、と定めていた。勝頼は諏訪すわ名跡みょうせきを継いで、諏訪家の当主、という立場だったからだ。でも諏訪という家は既に信玄に滅ぼされて、実態の無い家なのだ。

 今の武田家は、死人の決めた幽霊の支配する家のようなものだった。

 だったら自分が取って代わって何が悪い?

 戦国の武士たちは、後世のそれのように儒教じゅきょう精神で飼いならされていない。彼らは人間の根本的な欲望に忠実だ。自分にとって損か得か。強い者に従い、もしその者が権力の座から転がり落ちても、降伏して、新しい支配者の下に出仕すれば所領しょりょう安堵あんどされた。主君に忠誠を尽くすなどという考えは珍しかった。

 何、皆やっていることだ。もっと強いものがくればそっちに乗り換えればいいだけ。相手だって大歓迎してくれる。信玄公だってそうやって国を大きくしてきたではないか。

 菊の生まれ育った躑躅つつじさきやかたと違い、新府城しんぷじょうは完全な山城だった。西側は約百メートルのがけ、東側には塩川、南は段丘になっていて、いずれも攻撃しにくい。北側のみいているが、そちらは勝頼の本拠地諏訪の方角で、彼は諏訪防衛のかなめ高遠城たかとおじょうに最も信頼できる弟、仁科盛信を置いていた。

 菊は目の前にそびえる城を見上げた。

 かつて武田が築いたうちで最も守り堅固な城。

(こんなに立派なのに)

 彼女の輿入こしいれ料も、この城の建築費に含まれているはずだ、それなのに。

 城に入ってまず出会ったのは、広間で女たちに混じってよろいの手入れをしている松だった。

 いつも孔雀くじゃくのように飾り立てていた妹だが、さすがに今日は化粧もしていない。とげとげした雰囲気で、外見をつくろう余裕さえ失っていた。

「松。高遠から帰ってきたのね。」

 菊が声を掛けると、松は驚いた。

「姉上!越後に居たんじゃなかったの?」

 高遠に敵が迫り、いよいよ戦になりそうなので、盛信の娘の督姫とくひめを連れて逃げてきたのだった。

 松は菊を、近くの小部屋に引き込むのももどかしく話しはじめた。

「もうあちらは大変よ。でも五郎{仁科盛信}兄さまは落ち着いたものよ、姉上にも見せたかったわ。心配するな、一兵いっぺいたりとも通しはせぬって。高遠は兵にも武器・兵糧ひょうろう弾薬だんやくにも不足は無い、一ヶ月でも篭城ろうじょう出来ようって。きっとその間に援兵が来るでしょう、上杉から、ねえ?」

 菊は言葉に詰まった。

 松の顔色が変わった。

「まさか……ねえ、姉上一人で戻ってきたって何になるというの?あなたの役目は援軍を連れてくることでしょ?それが出来ないんじゃ、上杉と結婚したって……何にもならないじゃない!」

 次に対面した勝頼も、イライラして落ち着かなかった。

「菊、どうした、まさか、上杉と手切てぎれということではなかろうな、援兵はどうした。」

「だって、兄上がお断りになったんでしょう、援軍を?」

 菊はたまりかねて言った。

 勝頼はおされたように黙った。

(カッコつけてたんだ)

 菊は思った。

(今まで、混乱している上杉を見下みくだしていたから、今更いまさら、正直に頭を下げることが出来なかったんだわ。ほんとは、すごく困ってるんだ)

 でも指摘するのはやめた。兄が、今まで見たことないほど、しおれていたからだ。

「あの後、山内やまのうち{上杉景勝}殿が又、助力を申し出てくれたので結局、援軍を送ってくれるよう頼んだのだ。」

 勝頼は小さい声で言った。

「上杉が、この機に乗じて信濃を侵略することを御心配のようですが」

 菊は言った。

「殿は、三郎との戦の後、義に厚かった先代の後継者であることを広く世間に示そうとしていらっしゃいます。そうあざといことも出来ますまい。」

 勝頼は、もう一度自分に言い聞かすように呟いた。

「そうか、援軍はすぐには来ないのか。」

 父・信玄をして無鉄砲で見ていて怖いと言わしめる程の荒武者だった兄の、がっくりと気落ちした姿を見て、菊はすっかり不安になった。

 今更ながら景勝との違いがわかる。彼ならどんなに追い詰められても、こんな姿を決して他人に見せまい。

(あの人が冷たく見えたのは、自分に厳しかったからだ。ずっと他家で苦労してきたから)

 生まれながらのお坊ちゃまである兄は、こういうときに踏み留まることが出来ないのだ。その正直さ・人の良さは身近の者には快いが、下の者には不安を招くだけだ。家臣はどう思っているだろう、離反する者が益々増えるだけではないか。

「もう半月もすれば国境の雪も溶けましょう。そうしたら武田と上杉、協力して織田にあたることができます。もう少しの辛抱です。」

 言葉を尽くして、兄の心を引き立てようとする妹に、彼はうなずいた。

 菊一人だけ帰ってきたことに、城の人々は皆、愕然がくぜんとし、がっかりしていた。

 そんな中、彼女の手をとって喜びをあらわにしたのは小夜姫だけだった。彼女は菊をぎゅっと抱きしめた。

「よくお戻りくださいました。人、皆、我を見捨ていく中、駆けつけてくださった菊さまのお心、お屋形さまもきっとお喜びだと思います。私も本当に嬉しいです。」

 菊がこの家を出てから男の子を生んだ彼女は、ややふっくらと落ち着いて、前より美しくなったようだ。この女性こそ、こんな事態になって北条に帰るよう再三さいさん勧められているのに帰ろうとしない。二月には父祖代々の守神、武田八幡宮はちまんぐう願文がんもんを奉納した。


 敬って申します 祈願のこと

 南無なむ帰命きみょう頂礼ちょうらい八幡はちまん大菩薩だいぼさつ

 ここに思いがけない逆臣が出て、国を悩ましております。この為、勝頼は運を天に任せ、命を省みず敵陣に向かいました。それなのに、士卒の心は、ばらばらです。何故、木曽義昌は、神の御心をないがしろにして、哀れな肉親を捨て、謀反むほんを起こすのでしょう。自ら人質の母を害しようとしています。勝頼に、昔から恩義のある者たちもそむく有様です。国中の人々が迷惑しています、これは仏の教えにも反することでしょう。勝頼にどうして悪い心がありましょうか。どんなに悔しい思いをなさっていることでしょう。その心中を察すると、私も又、涙にくれるばかりです。神さまがおいででしたら、悪者どもに味方なさることは決してないでしょう。

 この危急のとき、願わくば霊神力をあわせて、四方の敵を退けてください。勝頼に勝利をお与えください。

 大願成就の暁には、勝頼と共に社殿をみがきたて、廻廊かいろうを建立いたします。


 この願文は今に残っているが、その中で彼女は心正しい夫を裏切った者たちを非難し、神の加護を願っている。偽書だという説もあるものの、四百年以上前に生きた女性の、夫を想う心を表した名文といえる。

「お屋形さまには心から信頼できる臣が少ないのです。まして御親戚衆ごしんせきしゅうの裏切りが相次いでいるので、すっかり疑心ぎしん暗鬼あんきになっていらっしゃるのです。上杉のことも、信じたいけれど信じきれない気持ちがあったのです。」

 話す小夜姫の袖に無邪気にまとわりつく坊やがいじらしかった。よちよち歩いて盛んに片言を話す。

「お名前は?」

 菊が問うと、はにかんで母のたもとに隠れる。陰から小さな声で、

「たちゅまる」

達丸たつまるといいます。『達』は古くは神仏に用いられた言葉なのです。神の御加護ごかごがありますように、と。」

 子供とたわむれていると心がなごんだ。菊は小夜姫の部屋で半日ばかり過ごした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る