第22話 新府城
白い壁が立ちはだかる雪の国境を命がけで踏み越えて、菊の一行がようやく
女が雪道を越えていくなんて到底無理だ、と春日山では危ぶまれたが、実際、菊の峠越えを手伝うのに雇われた
甲府盆地に入ると、菜の花が咲き乱れるのどかな里の街道を、家財道具一式を積み込んだ荷車を押したり引いたりしながら、あるいは包みを背負い、子供の手を引いて、続々と避難してくる人々に
織田信長は
悲しい知らせは次々と耳に入ってきた。
鳥居峠で武田軍が敗れた後、周囲の諸城を守る武将たちは次々に
裏切りは相次いだ。
中でも衝撃だったのは一門の
そもそも今、本家を牛耳っている勝頼は『当主』という立場ではない。十年前死んだ信玄は遺言で、将来、孫の信勝が成人した時に当主とする。それまで勝頼は『
今の武田家は、死人の決めた幽霊の支配する家のようなものだった。
だったら自分が取って代わって何が悪い?
戦国の武士たちは、後世のそれのように
何、皆やっていることだ。もっと強いものがくればそっちに乗り換えればいいだけ。相手だって大歓迎してくれる。信玄公だってそうやって国を大きくしてきたではないか。
菊の生まれ育った
菊は目の前に
かつて武田が築いたうちで最も守り堅固な城。
(こんなに立派なのに)
彼女の
城に入ってまず出会ったのは、広間で女たちに混じって
いつも
「松。高遠から帰ってきたのね。」
菊が声を掛けると、松は驚いた。
「姉上!越後に居たんじゃなかったの?」
高遠に敵が迫り、いよいよ戦になりそうなので、盛信の娘の
松は菊を、近くの小部屋に引き込むのももどかしく話しはじめた。
「もうあちらは大変よ。でも五郎{仁科盛信}兄さまは落ち着いたものよ、姉上にも見せたかったわ。心配するな、
菊は言葉に詰まった。
松の顔色が変わった。
「まさか……ねえ、姉上一人で戻ってきたって何になるというの?あなたの役目は援軍を連れてくることでしょ?それが出来ないんじゃ、上杉と結婚したって……何にもならないじゃない!」
次に対面した勝頼も、イライラして落ち着かなかった。
「菊、どうした、まさか、上杉と
「だって、兄上がお断りになったんでしょう、援軍を?」
菊はたまりかねて言った。
勝頼は
(カッコつけてたんだ)
菊は思った。
(今まで、混乱している上杉を
でも指摘するのはやめた。兄が、今まで見たことないほど、しおれていたからだ。
「あの後、
勝頼は小さい声で言った。
「上杉が、この機に乗じて信濃を侵略することを御心配のようですが」
菊は言った。
「殿は、三郎との戦の後、義に厚かった先代の後継者であることを広く世間に示そうとしていらっしゃいます。そうあざといことも出来ますまい。」
勝頼は、もう一度自分に言い聞かすように呟いた。
「そうか、援軍はすぐには来ないのか。」
父・信玄をして無鉄砲で見ていて怖いと言わしめる程の荒武者だった兄の、がっくりと気落ちした姿を見て、菊はすっかり不安になった。
今更ながら景勝との違いがわかる。彼ならどんなに追い詰められても、こんな姿を決して他人に見せまい。
(あの人が冷たく見えたのは、自分に厳しかったからだ。ずっと他家で苦労してきたから)
生まれながらのお坊ちゃまである兄は、こういうときに踏み留まることが出来ないのだ。その正直さ・人の良さは身近の者には快いが、下の者には不安を招くだけだ。家臣はどう思っているだろう、離反する者が益々増えるだけではないか。
「もう半月もすれば国境の雪も溶けましょう。そうしたら武田と上杉、協力して織田にあたることができます。もう少しの辛抱です。」
言葉を尽くして、兄の心を引き立てようとする妹に、彼は
菊一人だけ帰ってきたことに、城の人々は皆、
そんな中、彼女の手をとって喜びをあらわにしたのは小夜姫だけだった。彼女は菊をぎゅっと抱きしめた。
「よくお戻りくださいました。人、皆、我を見捨ていく中、駆けつけてくださった菊さまのお心、お屋形さまもきっとお喜びだと思います。私も本当に嬉しいです。」
菊がこの家を出てから男の子を生んだ彼女は、ややふっくらと落ち着いて、前より美しくなったようだ。この女性こそ、こんな事態になって北条に帰るよう
敬って申します 祈願のこと
ここに思いがけない逆臣が出て、国を悩ましております。この為、勝頼は運を天に任せ、命を省みず敵陣に向かいました。それなのに、士卒の心は、ばらばらです。何故、木曽義昌は、神の御心をないがしろにして、哀れな肉親を捨て、
この危急のとき、願わくば霊神力をあわせて、四方の敵を退けてください。勝頼に勝利をお与えください。
大願成就の暁には、勝頼と共に社殿を
この願文は今に残っているが、その中で彼女は心正しい夫を裏切った者たちを非難し、神の加護を願っている。偽書だという説もあるものの、四百年以上前に生きた女性の、夫を想う心を表した名文といえる。
「お屋形さまには心から信頼できる臣が少ないのです。まして
話す小夜姫の袖に無邪気にまとわりつく坊やがいじらしかった。よちよち歩いて盛んに片言を話す。
「お名前は?」
菊が問うと、はにかんで母の
「たちゅまる」
「
子供と
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