第19話 謀反
兼続が菊に詩を
だが実を言うと、あの
本当は菊の心の奥には、焼きついて離れない人の影がある。
すくすくと伸びたしなやかな
(でも行きずりの人だ)
いつものように否定した。
(もう二度と会うこともあるまい)
今日は
梅ケ枝慶次郎は立ちすくむ彼女をちらっと見て、夢にも忘れたことのないあの笑みを浮かべた。
菊は作法も忘れて、自分の方から切り出してしまった。
「近江の商人だったの?」
「いや違う。」
すまして言う。
揚羽は掛けてある
「ぶ、無礼者!」
そこには泥だらけの大根が三本、
菊は
彼はニヤニヤ笑って
「好物なんだ。今朝食って
たった今畑から抜いてきたばかり、という感じの大根は丸々と太って、確かに旨そうではある。
「だっ、誰か、警護の
揚羽が叫びだすのを
「おっと。俺が来たほんとの訳を知りたくないか、姫君。」
彼は口元に笑みを含んだまま、菊を射るように
「何よ、ほんとの訳って。」
菊は揚羽を制して、大根と共に下がらせた。
「今、武田がどうなっているか、姫は
「どう、って。」
菊はとまどった。
「何でも
「と、上杉には言って
「私はそう聞いているけれど。」
「知らぬは亭主ばかり
天正九年三月、
更に
武田の守備範囲は、祖父・信虎が甲府に本拠を定めた頃より、大きくいびつに広がっていた。詰めの城の要害山城も小さすぎて、防御するには心もとない。織田信長が近江に安土城を築いて以来、水を深くたたえた堀、堅固な石垣、中空に
迫り来る織田勢を迎え撃つ為にも、又、いまひとつ
後に思いを残さぬ為、として
『まだ城の工事は未完成ですが、正月に間にあうよう、
当時、国主の引越しといえば、家臣は元より、城下に住む民から先祖代々の墓に至るまで持っていくのが当たり前だった。それほど急だったというのである。
謀反の話を聞いた時、何だか嫌な予感はあった。でも考えないようにしていた。
「私……こちらの事情は出来るだけ知らせていたのに。あちらは本当のことを言っていないというの。」
声が震えた。
慶次郎はうなずいた。
「謀反を起こしたのは木曽
菊の顔から血の気が引いた。
「ばっ、馬鹿な。姉上がお嫁に行っているわ。一族よ。」
木曽義昌は木曽の福島城に拠る。ここを取られてしまうと、美濃からの道が空いて、たやすく織田に攻め込まれてしまう。山に囲まれた天然の要害も、何の役にもたたない。
「
紅は、兼続と、絵図を広げて話し合っているところだった。
菊が足音荒く部屋に入っていくと、驚いた様子も無く頭を下げた。
「木曽のことをもっと知りたいわ。あなた、知っているんでしょう。」
前置き抜きで菊が言うと、紅はすらすらと答えた。
「二月二日、
菊は怒りで目が
「そこまで知ってて、何で私には言わないの!」
「姫君を驚かせたくはなかったからです。」
「何言っているのよ、今更聞く方がよっぽど驚くわよ!」
そうだ、驚いている場合じゃなかった、と自分の役目を思い出した。
「紅、援軍を出してもらうわ。」
菊が叫ぶと、紅は
「それが、出来ないのです。」
「何故なの?同盟関係にあるのよ、当然じゃないの。」
「理由はいくつかあります。」
紅は冷静に説明を始めた。
「まず、国境の雪が深くて兵を進められないこと。次に、兵が足りないこと。越中方面の指揮官
菊は
「断ったって?兄上が?
「それは……。」
言い
「上杉の軍勢を、武田の領内に入れることを警戒していらっしゃるのだと思います。」
確かに。
一族にさえ裏切られた今、つい四年前まで
妹が嫁にいっている?自分だって、嫁の実家を、つい四年前、裏切ったばかりではないか。
菊が肩を落として部屋を出て行った後、紅は兼続に言った。
「殿は、もう一度、大膳大夫殿に協力を申し出てみよって
景勝は、越中と揚北対策で手一杯で、だからこそ、親族の彼に頼んだのだが。その彼が言うんだから、本当に兵が足りないんだろう。でも、
「はい。」
兼続は嫌な顔をした。何か言いたげだ。
(ああ、又、
「いいのよ、あたしになら。言いたいことあるなら、言って。」
「
腹に
「
紅はため息をついた。
上条はもともと
身分制度の世の中で、この格差は絶対だ。
その名門中の名門の自分が、家臣の家臣であるポッと
「私だって別に
「わかった。」
紅は言った。
「あたしからも申し上げてみる。」
宇佐美家は、長尾家ではなく上杉家の
「ま、あんまり変わらないでしょうけど。」
それでも間に立とう。これ以上、与六が与五郎{政繁}殿に憎まれるのは避けたい。もっとも、あたしが与六を
「
って、前、おっしゃっていたし。
殿は先代の一番身近にいて、あのカリスマでさえ、言うことを聞かない国人たちに悩まされるのをずっと見てきた。殿と何度も話し合った。織田の家臣団について。『
殿は、織田風の、主が家臣に対して絶対的な命令権を持つ家臣団をお望みだ。もし将来、そういう家臣団を殿がお持ちになるとしたら。与六はその
「あなたも悪いのよ。」
「俺のほうが
「……。」
だからっ、ソコ、なんだってば!
「他に出せそうなところは無いかしら。」
「
兼続は浮かない顔で言った。
「あと二月もして雪が溶けたら、
「とりあえず、連絡してみて。」
何か嫌な予感がする、と言いかけてやめた。
その夜、菊の膳に出た汁の実は、大根だった。すすると何だか涙の味のするような、でもこんな時でも、透き通るように白くさくさくとした大根は、口に入れるとほろりと崩れて、菊の冷え切った心を暖めてくれるようだった。
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