第19話 謀反

 兼続が菊に詩をささげたことは、いつの間にか知れ渡っていて、彼が彼女のお気に入りだと、誰もが思い込んでいる。姫君だって納得いきませんよねえ、と、天正十年の年が明けても、兼続の結婚は、まだ侍女たちの話題に上っている。

 だが実を言うと、あの剃刀かみそりのような男はのんびりした自分にはあまりあわない、と菊は思っている。あれを使いこなせるのは、景勝を除けば紅くらいのものだろう。

 本当は菊の心の奥には、焼きついて離れない人の影がある。

 すくすくと伸びたしなやかな肢体からだ、生き生きと輝く瞳、人をからかっているような笑みを浮かべた口元、やんちゃで婆娑羅ばさらなあの男。

(でも行きずりの人だ)

 いつものように否定した。

(もう二度と会うこともあるまい)

 今日は近江おうみから来た商人がご機嫌伺きげんうかがいに参上致しました、と小書院こじょいんに通された菊は、そこで手をついている人を見てはっとした。

 梅ケ枝慶次郎は立ちすくむ彼女をちらっと見て、夢にも忘れたことのないあの笑みを浮かべた。

 菊は作法も忘れて、自分の方から切り出してしまった。

「近江の商人だったの?」

「いや違う。」

 すまして言う。

 献上けんじょうしたいものがある、と思いがけず水際立みずぎわだって非の打ち所の無い作法で、三宝さんぽうに載せた物をうやうやしく差し出した。

 揚羽は掛けてある油単ゆたんを取るや否や、

「ぶ、無礼者!」

 そこには泥だらけの大根が三本、鎮座ちんざしている。

 菊は呆気あっけに取られ、揚羽は憤怒ふんぬ卒倒そっとうせんばかりだ。

 彼はニヤニヤ笑って

「好物なんだ。今朝食ってうまかった。姫君にもぜひ御賞味ごしょうみいただきたいと思って。」

 たった今畑から抜いてきたばかり、という感じの大根は丸々と太って、確かに旨そうではある。

「だっ、誰か、警護のさむらいを、この者をすぐさまつまみ出してッ。」

 揚羽が叫びだすのを

「おっと。俺が来たほんとの訳を知りたくないか、姫君。」

 彼は口元に笑みを含んだまま、菊を射るように見据みすえた。

「何よ、ほんとの訳って。」

 菊は揚羽を制して、大根と共に下がらせた。

「今、武田がどうなっているか、姫は御存知ごぞんじか。」

「どう、って。」

 菊はとまどった。

「何でも木曽きその方でちょっとした謀反むほんが起きたけど、たいしたことは無いって……。」

「と、上杉には言って寄越よこしているんだな。」

「私はそう聞いているけれど。」

「知らぬは亭主ばかりなり、か。姫君は御実家が火事になっているのを御存知無いと見える。」

 天正九年三月、徳川とくがわ家康いえやす高天神たかてんじん城を奪回だっかんされて、武田は遠江とうとうみを失った。父・信玄が望んで得られなかったこの城をくだしたのが勝頼の自信の元だったのに。

 更に駿河するがの方からは、北条ほうじょう氏政うじまさに攻め入られて苦戦していた。氏政は、御館の乱で景勝方についた勝頼を許さなかった。織田・徳川と手を結んで、関東・東海両方面から揺さぶりを掛け始めたのだ。

 武田の守備範囲は、祖父・信虎が甲府に本拠を定めた頃より、大きくいびつに広がっていた。詰めの城の要害山城も小さすぎて、防御するには心もとない。織田信長が近江に安土城を築いて以来、水を深くたたえた堀、堅固な石垣、中空にそびえ立つ巨大な天守閣を伴った壮大な城を持つのは、近代戦を戦うのに必要不可欠で、それは時代の流れというものだった。

 迫り来る織田勢を迎え撃つ為にも、又、いまひとつ心服しんぷくしているとは言いがたい国人たちを地元から切り離して手元に集める為にも、領域の中心に新しい城が必要となった。そこで甲府の北西、七黒岩台地上に本格的な山城を築き、天正九年の暮れ、慌しく移って行った。

 竣工しゅんこうの時には、菊も、祝いに酒など贈ったが、先日もらった小夜姫のふみを読んで涙が出てしまった。

 後に思いを残さぬ為、として躑躅つつじさきの館は徹底的に破壊されたという。菊のお気に入りの、館が出来た時から生えていた巨大な松の木はられてしまった。幼い頃よく遊んだ美しい庭も、こいえさをやった池も皆、無くなってしまった。

『まだ城の工事は未完成ですが、正月に間にあうよう、あわただしく移ってきました。でもあまりあわてたので、大半の家臣や寺社、町人は甲府に置き去りになってしまいました。』

 当時、国主の引越しといえば、家臣は元より、城下に住む民から先祖代々の墓に至るまで持っていくのが当たり前だった。それほど急だったというのである。

 謀反の話を聞いた時、何だか嫌な予感はあった。でも考えないようにしていた。

「私……こちらの事情は出来るだけ知らせていたのに。あちらは本当のことを言っていないというの。」

 声が震えた。

 慶次郎はうなずいた。

「謀反を起こしたのは木曽左馬頭さまのかみ義昌よしまさ}だ。」

 菊の顔から血の気が引いた。

「ばっ、馬鹿な。姉上がお嫁に行っているわ。一族よ。」

 木曽義昌は木曽の福島城に拠る。ここを取られてしまうと、美濃からの道が空いて、たやすく織田に攻め込まれてしまう。山に囲まれた天然の要害も、何の役にもたたない。

新府しんぷ城を築くのに多くの木材を供出させられたと怒っていたらしい。それに、木曽は先代に力で屈服させられたのだ。今、新しい勢力である織田が迫っている。勝つ可能性が高く、より多くの利益をもたらしてくれる方につくのは小国の主としては当然のことだろう。嘘だというなら、四辻御前に聞いてみろ。彼女はもっと知っているぞ。」

 紅は、兼続と、絵図を広げて話し合っているところだった。

 菊が足音荒く部屋に入っていくと、驚いた様子も無く頭を下げた。

「木曽のことをもっと知りたいわ。あなた、知っているんでしょう。」

 前置き抜きで菊が言うと、紅はすらすらと答えた。

「二月二日、大膳だいぜん大夫だいぶ{勝頼}殿は木曽討伐に出発なさいました。翌日、織田軍は総動員令を発令し、武田領内に攻め入りました。十六日には鳥居峠とりいとうげで戦いが行われ、武田軍はさんざんに打ち破られてしまったとのことです。」

 菊は怒りで目がくらんだ。

「そこまで知ってて、何で私には言わないの!」

「姫君を驚かせたくはなかったからです。」

「何言っているのよ、今更聞く方がよっぽど驚くわよ!」

 そうだ、驚いている場合じゃなかった、と自分の役目を思い出した。

「紅、援軍を出してもらうわ。」

 菊が叫ぶと、紅は間髪入かんぱついれず答えた。

「それが、出来ないのです。」

「何故なの?同盟関係にあるのよ、当然じゃないの。」

「理由はいくつかあります。」

 紅は冷静に説明を始めた。

「まず、国境の雪が深くて兵を進められないこと。次に、兵が足りないこと。越中方面の指揮官河田かわだ豊前守ぶぜんのかみ長親ながちか}がこの春、病死して以来、織田軍の攻勢が日に日に激しさを増しています。同じく織田と手を結んだ揚北あがきた新発田しばたの動きも激しくなっています。それからもう一つは、兵を送ろうとしたのですが、断られたということ。」

 菊は唖然あぜんとした。

「断ったって?兄上が?何故なぜ?」

「それは……。」

 言いよどんでいる紅に代わって、兼続が答えた。

「上杉の軍勢を、武田の領内に入れることを警戒していらっしゃるのだと思います。」

 確かに。

 一族にさえ裏切られた今、つい四年前まで不倶戴天ふぐたいてんの敵だった上杉を、どうして信じられよう?

 妹が嫁にいっている?自分だって、嫁の実家を、つい四年前、裏切ったばかりではないか。

 菊が肩を落として部屋を出て行った後、紅は兼続に言った。

「殿は、もう一度、大膳大夫殿に協力を申し出てみよっておっしゃっているの。まさかとは思うけど、武田にもしものことがあれば、越後は敵に囲まれてしまうから。で、上条の殿はやっぱり、兵が足りないから出せないと仰せなの?」

 上条じょうじょう政繁まさしげ、謙信の三人目の養子にあたる。謙信の薫陶くんとうを受け、名将として名高い男だ。

 景勝は、越中と揚北対策で手一杯で、だからこそ、親族の彼に頼んだのだが。その彼が言うんだから、本当に兵が足りないんだろう。でも、

「はい。」

 兼続は嫌な顔をした。何か言いたげだ。

(ああ、又、めてるのね)

「いいのよ、あたしになら。言いたいことあるなら、言って。」

陪臣ばいしんの申すことなぞ、聞く耳持たない、とまでおおせでした。」

 腹にえかねたように言う。

家中かちゅう屈指くっし名門めいもんだもんね。」

 紅はため息をついた。

 上条はもともと守護しゅごである越後上杉家の一門だ。長尾家は守護代しゅごだいで上杉の家宰かさい、その長尾家の家臣である兼続は陪臣ということになる。

 身分制度の世の中で、この格差は絶対だ。

 その名門中の名門の自分が、家臣の家臣であるポッと若造わかぞう指図さしずを受けるなんて、我慢ガマンが出来ないのだ。

「私だって別に威張いばりたいわけじゃない、仕事だから申し上げているのです。それを……。」

「わかった。」

 紅は言った。

「あたしからも申し上げてみる。」

 宇佐美家は、長尾家ではなく上杉家の被官ひかんだったから、ずっと上杉の一族である上条家のために尽くしてきた。お祖父じいさまにめんじて、とじょうに訴えかけてみるか。あたしのことは、あまりお好きじゃないけど。

「ま、あんまり変わらないでしょうけど。」

 それでも間に立とう。これ以上、与六が与五郎{政繁}殿に憎まれるのは避けたい。もっとも、あたしが与六をかばうのも又、お気に召さないのよねえ。

山城守やましろのかみ{兼続}は贔屓ひいきされている。」

って、前、おっしゃっていたし。

 幼馴染おさななじみだし、そりゃ、他の誰より可愛いと思っている。それは殿も同じ。あたしたち三人のきずなは、誰にもくことは出来ないだろう。でも、それだけじゃない。

 殿は先代の一番身近にいて、あのカリスマでさえ、言うことを聞かない国人たちに悩まされるのをずっと見てきた。殿と何度も話し合った。織田の家臣団について。『羽柴はしば筑前守ちくぜんのかみ秀吉ひでよし』を例にげて。

 殿は、織田風の、主が家臣に対して絶対的な命令権を持つ家臣団をお望みだ。もし将来、そういう家臣団を殿がお持ちになるとしたら。与六はそのかなめとなる男だ。大事に育てよう、と、殿はおっしゃった。与六は殿の秘蔵ひぞなのだから、あたしは何を犠牲ぎせいにしてでも彼をまもろう。でも、

「あなたも悪いのよ。」

 一応いちおうくぎした。

「俺のほうがアタマいいのに、って思ってるでしょ。皆、ちゃんとわかっているんだから。たとえ事実でも、思ってること全部、見せちゃ駄目ダメ。」

「……。」

 だからっ、ソコ、なんだってば!

「他に出せそうなところは無いかしら。」

竹俣たけまた三河守みかわのかみか、水原すいばらか……。」

 兼続は浮かない顔で言った。

「あと二月もして雪が溶けたら、殿との直属ちょくぞく精鋭せいえいを出せます。武田だって、いくら何でもそれくらいは持ちこたえるでしょう。というより、持ちこたえてくれないと困ります。」

「とりあえず、連絡してみて。」

 何か嫌な予感がする、と言いかけてやめた。

 その夜、菊の膳に出た汁の実は、大根だった。すすると何だか涙の味のするような、でもこんな時でも、透き通るように白くとした大根は、口に入れるとほろりと崩れて、菊の冷え切った心を暖めてくれるようだった。

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